演劇以前の演劇の話 【第4回】「死なない」

 死んだら、演劇できないんじゃないかなあと思った。

 もちろん、演劇以前に、死んだら生活ができない。なので私たちは演劇するためにも、がんばって死なないように生きているのだけれど、つい数か月前、睡眠時無呼吸症候群というものに、私はなった。その時お医者さんに、
「医師として、山本さんが明日寝ている最中突然亡くなったとしても、私は驚きません」と言われて、そうかー、死ぬかもしれないんだー、明日にも、と思った。
 検査入院のデータによると、私は寝ている間、70回くらい呼吸が止まっていて、体中への酸素供給量がとてもよくなく、このままだと寝るたびに、糖尿病の中度の患者と同じくらいのダメージを循環器に受けつづけることになるという。

 そうかー。自分は、死ぬかもしれないくらいよくないのかーと思う一方、全く自覚症状がないので、ぼんやりと説明を聞いてしまっていた。
 そもそも睡眠時無呼吸症候群の診療のきっかけも、たまたま人と共同で作業するときがあり、その時仮眠し、あまりの山本のいびきのおかしさをその知り合いが指摘し強く心配してくれたからだ。なので、まったく自覚がないまま病院に行った、という経緯がある。

 死の自覚がないまま、このまま死ぬと困るなあ、と思いながら、なにが具体的に困るかというと、進んでいる演劇の話が中止になってしまうことだ。各スタッフやオファーした俳優に申し訳ない。
 せめて死んだら即連絡し、「ごめんなさい、僕が死んでしまったので明日の稽古はなしで、稽古場にも一報入れてください、稽古場の予約番号は××××です。受付の人にキャンセルを伝えてください。てか、多分公演もなしになると思います」と言うのを伝えたい。

 となると、遺書か。
 遺書を書くことにした。それで遺書を書いてみて、なんかこう、思ってた感じと違う……。もっとエモい文章になるかと思ったが、そもそもが「死んでしまった後こうしてほしい」という事を他人にお願いする文章だから、エモさより、事務的にしてほしい事、そしてそのために必要な……たとえば銀行の口座のパスワードとか、メールアカウントのパスワードとか、ツイッターのパスワードとか……とにかくパスワードばかり書いてしまう。
 とにかく、自分の死を、演劇関係の人やその他知り合いに伝えたいので、とりあえず「山本が死亡の場合は、ツイッターにて山本の死を入力しツイートしてください」と書き、ツイッターのログインパスワードを書いた。
 その他もろもろ、事務的な事や、あと山本は一人暮らしをしているので、親にも死を伝えねばなあと、実家の電話番号、実家の家族の名前を書き、「山本が死んだという事をお伝えください」みたいなことを書く。

 さて、遺書は完成した。ワードで書いたものをとりあえずプリントアウトしたが、この遺書は果たして、どこに置いておけばいいのだろうか。
 山本は一人暮らしであり、僕の住所は知っている人が幾人かいても、合鍵を持っている人はいない。遺書は自宅にあるとして、そして自宅で死んだとして、どうやって遺書を見つけてもらえるのか。家、入れないじゃん。
 郵便受けに入れておけばいいのか? いやいや、遺書にツイッターのパスワードや貯金通帳のパスワードも書いている。関係者のメルアドだって書いてあるんだから、そんなところに置いておけない。やっぱり自宅に置いておかねば。
 そして自宅は散らかっている。地獄のように散らかっている。
もうどうしようもない。そんな中に、遺書があったとしても、誰が見つけてくれるんだろう。
 玄関ドアの内側に張っておくのが一番わかりやすいだろうか?
でも案外、「ドアに張ってある」ってわかりづらいと思うんだよなあ。脱出ゲームとかの盲点みたいな……。部屋の中で私がぶっ倒れて死んでいるとして、その後方に遺書があったらわかんないよなあ。だとすれば、遺書のありかを、死ぬ前にツイッターとかで言っておけばいいのか。でも家、散らかってるからなあ、いつまでもそこにおいて置けるかなあ。

 死は、面倒くさいなあ。

 なにより、死により関係者に迷惑をかけるのが本当に苦しい。たぶん、悲しんでくれるかもしれないが、このすごく忙しい中で、悲しませる、という感情を使わせたり、あと演劇の進行度にもよるけど、いろんな手続きをしてもらうのが本当に心苦しい。

 死ぬと、こんなことになるだろうので、だから今まで、演劇の公演が決まったら死なないようにしていた。普段だったら交通ルールを守ったりせず、赤信号だろうが何だろうが、ふらふらとわたってしまう。でも演劇の公演が決まったら、絶対に交通ルールは守る。普段だったら、死んでいいやーと思いながらご飯を食べたりするが、演劇があるのなら、死んでいい、と思わない。死なないよう、ちゃんとご飯を食べる。栄養のバランスもちゃんと考えたご飯を食べている。

 演劇をやる以上、死んじゃいけないなと思っていた。でも、死ぬってあらためて、こっちでコントロールできない部分だと思った。いや、そもそもみんなそうなのだ。人はいつ死んでも本来はおかしくない。当たり前の話じゃないか。
 そんな中で、演劇の企画を立てていたんだなあと思った。
 自分が死なないと思っているから、演劇の企画を立てられるんだなと思う。演劇の予定が未来にある間、自分は死なない。演劇は生身の人間がそこに居なくてはいけないので、未来に演劇があるってことは、そこまで自分に「死なない」という確信があるからできた。

 それは、圧倒的な楽観か、勘違いなのか。未来に「死なない」というのは。演劇があるという事は。どこまでも楽観的で、どこか世界に対して勘違いという形で死をすり抜けるのが、演劇なのかもしれない。
 ……いや、演劇以前に、「未来に何かをする」という予定が立てられることのできる人は、みんなそうなのか。演劇だけが特別な事じゃないか。

 「死ぬかもしれなさ」が具体的になった人は、予定や企画を立てるとき、たぶん健康な人とは違う感覚になると思う。そしてこの時代、社会全体が「死ぬかもしれなさ」が一歩具体的になっている。
 今までと同じような気持ちで演劇の企画って、立てられない気が個人的にはしている。絶対に死なない、死ぬわけがない、という人が演劇をやるのではなく、死ぬかもしれなさ、上手くいかなさを抱えながら立てていくのではないか。
 演劇以前に、未来にとって「生きる」が、絶対の前提にならないのではないか。

「山本さん、無呼吸じゃなくなりましたよ。寝ている間に呼吸が止まっている回数が、ゼロになりました。良かったですね。」

 この間の定期診断でそう言われた。治療がうまくいったのか、僕は睡眠時に無呼吸ではなくなったらしい。ただこの病気は完治するには生活習慣や体重を落とし、そもそも健康体にならなくては完治にはならない。引き続き山本は治療機械をつけて眠る事になるのだが。

 まったく、良くなった実感はない。死の自覚なく病気になり、自覚なく治療が進んでしまった。遺書はまだ、玄関ドアの内側に貼ってある。
 家を出るたび、ドアの遺書と目が合う。

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