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ある日の高校演劇審査員日記・2022年秋その②

 前回に引き続き、9/19・24・25日と、高校演劇の審査員をやり、主に講評で何を言ったかをかきつつ、「こんな劇がこの地上に出現したのですよ」という事を、書いていこうと思います。
 今回は地区大会2日目、9/24日に上演された五校について書いてます。

 この日から会場も変わり――というのもなかなか大変で、もともとの会場だった場所がコロナの陽性者が出たという事で使用ができなくなり、急遽変更になったと。
 大変なのは、そこで照明機材の無い空間で、舞台機構が大きく異なってしまう。
 これは、本当つらいだろうなあ。照明担当者だってこのひと夏、ずっと稽古に帯同していたわけだし。
 そんな中でも、私たちは、そこに汲みすぎることなく、審査しなくてはならない。
 わたしたちの見る目もまた、このコロナ禍の中で試されているなあと思ったところでした。

9/24(土)①都立小岩『ばいばい』

 さてそのトップバッター。こちらの生徒創作。あとで聞いたら、ロング尺の作品ははじめて(演出も)になるという。

 久しぶりに出会った幼馴染の4人。亡くなった一人の墓参りに集まり、懐かしい街をぶらぶら歩く。しかしその中の一人は電車の音を聴くと調子を崩す。彼はなくなった一人の電車での事故を、まだ消化しきれていなかったのだ……という話。

 懐かしい街を、墓参りをしながら、仲のいい4人が移動しながら過ごすという、ロードムービーのような劇構成。
 4人の何気ないやり取りから、一人の死が、どうしても主人公の男の子が乗り越えられていない感じになっていくという話の流れと、懐かしい街を移動しながら話すという劇のそのものの雰囲気はとてもいい。

 ただそれを、実際の舞台として作るというのに苦戦していた感じ。こう、4人がいつも一直線に並び、そこで話をし、時に「死」についての議論だけになってしまう。

 4人が「今どこで、何をしているのか」が明確でない中で、思い出話や、自分の近況を順番に話しているように見えてしまい、一人一人がそこにいる感じがうまく表現できていなかったように思ってしまったなあ。ずっと、立ち話になってしまっていて。

 私たちは普段立ち話をするとき、どんな感じだろうか。
 そもそも立ち話が出現するのって、そんなに長い時間じゃないし、また立ち話で出てくる話って、そんなに深刻な話になるかどうか。

 だから「そういえば」とという言葉で、話題が点のように出現し、そのありでやや不自然に感じるところが多くみられた。
 その話題をするのは、どんな場所で、どんな環境で、どんな前フリがあったら、自然とその話題ができるのか。そのあたりをもう少し考えてみてもいいかもしれない。

 講評が、この会場から(コロナの防疫対策もあって)見終わった直後にすることになったんだけど、同じく審査員の大池さんの提案で、稽古場のように車座になり、また後半質問タイムを設けることになった。
 この形式の講評スタイルが本当によくて、特に質問を直で受けられるのが、なんとも通し稽古の後みたいで、こう、「審査員が講評してるでごさい」っていう偉そう感が無くなって、個人的にはすごくうれしい! この形式、他でもやれませんかしら……?

 その時に出た質問で、「独白のシーンでちゃんと感情が伝わったかどうか」みたいな質問が出る。
 難しいところで、その独白とか、セリフとか、単品で抜き出して、表現ができたかどうかジャッジするっていうのが、そもそもアリなのか。

 たとえそこで、かっこいい、真に迫る、いいセリフを出せたところで、そもそもそのシーンが成立……成立っていうと曖昧か……そこにそのシーンでそういう風にやるのが、そもそも面白いのか、よいのか、という検証の方が重要な気がする。

 演劇が、そこの、点の部分の巧拙にこだわりすぎるのは違う。

 や、上手くできたほうがそりゃあいいけれども、トータルでそこの部分の登場人物が、ちゃんと説得力を持っていたかどうか。……説得力って言い方がまた曖昧に感じるかなあ。「ああ、そこにちゃんと人間がいるなあ」とか「人間が演じることでその言葉が出現するのは納得がいくなあ」みたいな……つ、伝わるでしょうか。うまく説明できないけれど……。

 演技を点にさせないために、まずそのセリフを言う場所、空間、時は適切かどうか。前後の、観客にもってほしい情報や感情、……これをまた抽象的な言葉で「流れ」って言いがちだけど、それが適切かどうか。その、前後の関係性で、点の良し悪しが決まってくるんじゃないかなあ。
 抜き出して、そこだけよくても、それは「独白が格好良かったね」になってしまい、劇としていいかどうかというのは、別の問題だと思うんだよなあ。
 と、そんな風に思いつつ。

 あ! そうそう、照明!
 うれしかったのは、この会場では先も言った通り、作業等の点滅くらいしかできないのだけど、頑張ってここの高校、懐中電灯でピンスポットを表現していたなあ。とてもよかった。とてもうれしい。事前のプラン通りはできなかったかもしれない。でも、その残滓と、できない中で最大限の工夫を探って、やってくれたことがとてもよかったなあと思った。
 そこまでして、この俳優に光を当てたいという、その意志と意図。こういう、スタッフの、意地というか、限定された中でのあがきに、心って動かされたりするんだよなあ。

② 都立科学技術『今、ここに夏を』

 こちらはOB創作のようで、この高校のために作られた新作。
 「夏」が無くなった世界で、主人公たちは失われた夏の文化を再生しようと奔走する……というお話。

 まず、ナツメという主人公の女の子が出てくる。その第一印象の明るさで、全編のトーンを決めたなあという感じだった。後々講評で質問タイムの時に話したけど、この主人公は声にしたものがそのままマンガになるような、明るさを持っていてほしいと、脚本を作った人からオーダーがあったという。

 まさに、そのオーダーにきちんと答えていたなあ。そしてその雰囲気がそのまま、この劇になっていた。その勢いはとてもよかったなあ。出てきた瞬間、パーッと明るくなる感じ。とてもいい。

 だから……。
 や、設定の、ややファンタジックな。悪い言葉を言えば、雑に「夏が無くなってしまった世界」という、粗い部分を「 ……まあ、ナツメが元気だし、いいか」というようになってしまう。
 それだけ、この役を演じた俳優に説得力があり、それを引き立たせる周囲の演技もよかったんだろうけれど。
 ただ、そうはいっても。演劇という、生身の人間が演じるというものである以上、「夏が無くなったってのは、なんだ、どういうことだ?」というのは出てきてしまったなあ。なまじ、中盤でそれっぽく説明しようとしているところもあり。

 漫画チックなキャラクターの出てくるSFファンタジーである、ということを念頭に入れても、中盤の「夏が異常気象の対策として政府によって消去されて40年がたってしまった」という設定で、なぜ、夏にまつわる文化そのものが消えてしまうのか。なぜその消えた文化が、一人の少女の呼びかけで復活し、夏祭りとして出現しうるのか。

 そこの説得力……脚本としての、そして世界観づくりとしての説得力の甘さがどうしたって気になる。そして、その世界のなかで、演技を考えると、どうしたって粗いファンタジーな、漫画な動きに頼らざるを得ないんじゃないか。

 これがWEBアニメーションで、ファンシーなキャラがやる短編と考えれば、一つの作品としてはまとまるかもしれない。
 だがこれを、生身の人間が演じるとき、さまざまなひずみが出現しうるし、それを説得力をもって演じるのは、細かいところで難しいと思うのだった。

 あと、「演劇ってこうしなきゃいけない」にとらわれていところがあったんじゃないかなあ。一回一回、シーンが変わるごとに退場して出なきゃいけないとか、細かくシーンを割ってとか、シーンが変わる時は椅子が設置されるまで動いちゃいけないとか。
 こう、見えない演劇のルールに縛られているところで、不自由さを感じているように思えてしまったなあ。

 講評の時の質問タイムで、マイムについての言及があったけれど。今回の題材であれば、そのマイム……無対象をつかって様々に動くことは可能だったと思うんですよ。
 そのマイムが、演劇を「らしく見せるため」「説明するため」だけに使っていたように見えたのが、とてももったいない。
 マイムをつかって、いかに楽しむか、ばかばかしくあるか。「伝えなきゃ」「説明しなきゃ」から、いかに解放されうるか。

 そのためにも、見えない演劇のルールから、もっと楽になってほしいなあと思った次第です。

③ 都立農業『雪月花』

 こちら顧問創作。時空を超えるた存在と出会えるという神社に、一人の女子高生が迷い込む。するとそこには、「66年」からやってきたという花子が現れて……。

 と、二人芝居。現代の高校生と、とある時空からやってきた……一見して過去から来たようなたたずまいの高校生の交流が書かれていて。
 主人公の役の俳優がやり取りが上手く、いい具合に脱力しながらも言葉を(マスクという制約がありながら)ちゃんとこちらに届けていて、また時空を超えた役の人との受け答えも無理をしていないのが好印象。

 ただ、どうしても……これは脚本の構成上そうなっているのだけど、「立ち話」になってしまう。
 そして二人、出会ってから即、打ち解けてしまっているような構成になっている。

 これはいろんな演劇部にもいえるが、立ち話で深い話は、なかなか難しいのではないかなあと思うのだ。や、美術の制約、間の制約、尺の制約や転換などもあるかもしれないが。
 ただ、二人が立って話して、そこでいかにセリフに乗って強い感情を出したりしても、効果的ではないように思うんだよなあ。

 その話題をするのに適切な距離感、シチュエーション、環境がある。
 出会ったばかりの二人が、それでも何かを話すとき。
 どういう場所でなら話をしだすか。どういうシチュエーションなら、自分の家族の話、そもそも名乗りがあるか。自分の悩みを開示できるか。

 「演劇だから、なにか話さなくてはならない」ってことはない。
 だからまず作劇の前提として、その話題や、その情報をやりたいなら、環境――場所、シチュエーション、状況を作るべきじゃないかなあ。

 今回は「時空を神社に、違う時代からやってきた人物」がいるという設定。なので、場所は神社だ。だが、神社というのもいろいろな場所があるはず。
 腰かけたり、境内をふらふらしたり。鳥居に寄りかかったり。
 立ち話、ではない方法で、二人がであって、何か話してもいい空間をさぐってもおもしろい。
 また、どんなことを語れば、どんな状況になれば、自分の事を話してみようと思うか。
 それを、登場人物の状況に即して考えて、ようやく「知らない人と話す」。対話が生まれるんじゃないか。

 講評時の質問で、部員の方が「次は自分が脚本を書いてみたいのだけど、どうしたらいいか」というので、スーパー喜んでいろんなことを話してしまった。恥ずかしい……。テクを意気揚々と話す年上。もっとこう……落ち着いて話せばいいのになあ。

 でもうれしくて。
 脚本を書きたい、という時点で、もう脚本は書けたと言っていい! 
 最初は本当、短い、10分くらいのものを完結させるというところからやるととてもいいと思う。とにかく完結させること。
 面白くなくてもいいから、とにかくまず作る。書くとき、みんなを巻き込んで書くのもおすすめ。考えていることを開いて、何度も書き直して。
そのうえで、ちゃんと最後まで書ききって、完成させてほしいなあ。

 絶対楽しいので。脚本を作るって、書くって。作るって。一生かけてもやめられないほどスーパー楽しいので、本当、どんどんみなさん書きたいなあと思ってほしいです。

 あとそうそう、この大会で一人、すごく上手いであろう俳優を選ぶとしたら、この劇に出ていた沙雪役の人かなあと、ぼんやり思いましたよ。や、でも言いすぎか。抑制が効く俳優って、とてもレアで、いいと思ったんですよ。
 脚本書きたい人と、とてもうまい俳優のいる演劇部。今後に期待です。

④ 都立小松川『踊り場からあらりば』

 こちらも生徒創作で、生徒の方が演出もされていた。チラシを見たらこの作者が完全に脚本と演出に徹しているとのことで、オッて思って注目していたところだった。

 おそらく小松川高校そのものがモデルになっている高校の、仲良いクラスの一群。担任の教師の連絡行き違いにより、台風警報が発令されて臨時休校になっても学校に来てしまった一同は、無人の高校で普段できない遊びを全力で楽しむ。
 だが雨脚は強まり、ついに川は氾濫。街は水に沈み出す。その時みんなは……みたいな話。

 これが本当、序盤の雰囲気……面白かったんだよなあ。なんであんなに面白かったんだろう。
 や、僕の「演技がうまくておもしろいなあ」の基準とは全然違うところ……むしろ、こういう劇の演技の仕方があんまり好きじゃない(ちょっとデフォルメが強くて面白い感じを前面に出すような演技の仕方発話のされ方)だったのに、すっごくよかった。この手の演技体のアンチなのに……。

 なんでいいと思ったんだろうなあ。これはまず、

・一人一人が常に独立したキャラクターが一貫していて、無駄な動きを含めて独立した個に見えて面白かった。衣装の着こなし、スカート丈、靴に至るまでしっかりと個が表現されていて、この衣装のチョイスも素晴らしい。

・テンポがテンポに支配されておらず、発話のタイミングがそのキャラクターの生理として動いたり発話されていたうえで、リズミカルに話や展開がなされそれが気持ちよかった。

・にもかかわらず、川を見るシーンで効果的に間が使われていて、劇の都合ではない時間の流れも感じられた

 みたいな、ちゃんと登場人物ファーストかつ、でも、話に必要な情報が、「ただ情報の伝達ではない形」で、丁寧に観客に届けられていた。
 また、余計な情報は語りすぎない、そのバランス感覚、演出の丁寧さ。
 それに加えて、やや誇張されている笑いの箇所も、本当、嫌みじゃない。愛せる。序盤の短時間で、このキャラクターたちを愛せるなあと、なんでか、固有に、この世界に生きている実感、説得力を感じたからだ。本当に面白かった。

 特に、これ、いいなあというのが、「台風で臨時休校する無人の高校で、縦横無尽に自由に遊び回る」シーン。これ、本当、わかる。災害を前にした躍動する感じ。無人の高校! 修学旅行のハメを外して盛り上がるあの非日常の感じ。
 それらが本当、生き生きとしたキャラクターが躍動してたなあ。のったなあ。

 のった。

 この空気に乗った。この高校の、この劇の楽しい感じに、乗った。乗ることができた。とても楽しかったなあ。

 後半、この物語が急転換する。台風が強まり、街を飲み込み、川は氾濫する。非日常は本当の非日常になり、学生たちは学校に取り残される。
 先ほどまでの楽しい空気や熱狂が消える。

 ここが描きどころだったんだけど……ここでこう、失速というか。

 災害を目の前にして、絶望したり、あるいは怖がり、悲しんだり、深刻に受け止めるのだけど。まじめな雰囲気になったとたんに、個が消え、ある種ステレオタイプな恐怖というか、一種類のリアクションになってしまった。
 ここ、描きどころ、演じどころだったのになあ。惜しい。本当惜しい。

 あの、序盤の、個々の調子乗ってた感じが、ある臨界点を超えて恐怖に変化していく感じを、もっと演じ、描かないと。ここがとても惜しい。
 この、「非日常を笑って楽しんで安心したフリをしていたら、気が付けば本当に非日常になり、何もかもが手遅れになっている」というのは、まさに現代的なテーマと感じた。そこに手を付ける脚本担当の人はとても慧眼で、しかし、そこで、「まじめに災害」をやろうとしてしまった。それが……有効じゃなかったんじゃないかな。

 脚本のセリフは本当に鋭い。

「今日ずっと、何も楽しめてない。本当は楽しくなかった」
「怖かったから。楽しんでいるフリをしてみたの」(抜粋した引用ですので正確なものではないてす)

 非日常のへらへら楽しい空気が、本当は怖さと隣り合わせだった事を白状する。よくとらえている脚本。

 ただその演じ方が惜しい。そのキャラクターだったら、どう口にしていたか。それを聞く周囲の皆は、どこにいて、どういう聞き方で、どんな反応ができたか。
 このあたりで「あ、高校演劇だなあ」って感じに戻ってしまったのは本当に惜しいなあ。

 しかしラストシーン。
 それでも彼らは、笑おうとする。楽しもうとする。
 最後、水は階段の踊り場に至り、楽しみつかれ皆が眠る中、目を覚ました一人は、そこから変わり果てた外の世界を見る。目を見開いて、暗転する。

 これは、私たちが数年前に経験したことかもしれないし、これから経験する未来かもしれない。それを実感できて、胸にくる。

 今演じられるべき演劇、そして、多くの人に見られるべき劇だと感じました。外に向かう力を感じる普遍的なテーマで、死が迫るその直前まで笑い、楽しもうとする人間の身体たち。
 そこに、なぜ演劇が何でこの世界に必要なのか、の一端が垣間見れた気がして、本当にいいなあとおっもいましたよ。おっもいましたよ。

⑤ 関東第一高校『わたしたちにはアルマゲドン』

 こちら顧問創作。
 躍動する28人! 文化祭で怪獣映画を撮りたい僕たち私たち! 一人の情熱でクラスが動く。と、同時並行で「本物の」侵略宇宙人が地球侵略を企て、その先兵として一人の宇宙人が派遣されるが、きしくもその姿は伝説の特撮ヒロインと瓜二つ。その容姿に惚れ込んだ監督役の生徒が彼女を主役にスカウトし……と、濃い、濃かろう!

 毎回この高校の劇を見るたびに、この一時間、異世界に連れていかれるような印象がある。すごい数の人間が一直線に何かをし、エネルギーを観客席に直撃させていく。なかなか今時期できないことをやっていることは確かだ。

 ただ、そうした「若い人の全力エネルギーぶつけ」頼りに、どうしても見えてしまう。細かな演技……リアクションだったり、キイとなる言葉への立て方、それらが「全力エネルギーを出す」の方に注力が行き過ぎて、なおざりになっていると言わざるを得ない。

 そういう、全力エネルギーぶつけに、……感動してしまいかねないところが、わたしにもあった。こういう劇の、本当にアンチなのに、ぐっときてしまうのは、コロナだったりとかしたからか。好みだけで言えば、こういう雰囲気の劇は好きではないはずなのに。

 ただ「全力エネルギー出し」は、演劇としてのすべての評価になるか。ならない。というか、「高校生らしく、若い力が観客席に届いて、感動しました! 躍動してましたね! すばらしかったです!」と言われて、はたして関東第一高校の人たち自身も喜ぶかどうか。それは、高校野球やサッカーや陸上やラクビーや、演劇じゃなくても言われてしまう事を、誉として劇作してきたわけではないと思うのだ。
 だって、演劇という、世界一カッコいいジャンルの芸術を選んで、ここにいるわけじゃあないですか!

 むしろ評価したいのはそういうところではなく、28人が「映画の撮影シーン」として、わちゃわちゃと、短時間だけど一人一人が自分の役割を割り込ませようとしていたところだったり。こういう、群衆の中にいながら「個」を出そうとキャラクターたちがうごめいているシーンとか。
 また、皆が合宿で疲れ果て眠り、異星人と監督と主役役の男が、ふと「きみ、いったい誰なんだい」と優しく語り掛けるところ。
 一人の登場人物の核心に触れ、それに応えようとするときの間、時間に、演劇の出現を感じる。
 たしかに、最序盤からのエネルギー放出があったから、この静かなシーンが立ったという側面もあるけれど。……何かこう、最序盤のエネルギーの強い放出と、ダンスパート、中盤、後半、ラストシーンと、1時間、ずーっと常に全力で、凪なシーンがここしかなかったようにも見える。

 作品として見たら明らかにエネルギー配分を間違えているし、もっといえば、怖かったんじゃないか、演じてる方の都合として、常に全力を出していないと。
 全力で汗をかきさえしていれば、細やかな反応や人物造詣の粗さをかき消せると思ってなかったか。
 ラストシーンの展開の粗さ……侵略宇宙人が、地球人の「情熱」で侵略を諦めるって展開の、エンタメにしてもあまりに不用意な展開を、是としてパワーで押し切って、いいのかどうか。

 「エンターテインメント」としても、あまりに登場人物の動機や目的をなおざりにした、「パワーを出しやすい」ストーリーの都合優先にすぎる脚本構成ではなかったか。

 感動は確かにできる。人が28人いて、全力で、一丸となって、すごい脚本で一人一人全員に見せ場があり重要なポイントがあり、何かを成し遂げていて、尊いものは見ている。
 ただそれは、演劇として、芸術として評価できるものとは、また違う軸のものであり、それが演劇としての良さを損なっていたとも、どうしても思ってしまうのだった。

 おもったけどね、たしかにこれを見て、人生変わってしまうくらいの衝撃を受ける人もいると思う。衝撃がそれだけ大きい。

 ただ、最初から「感動させよう」が先行して作られいるように見えるものに、僕はどうしても、そうじゃないんじゃないかなと、内なるものの発露からスタートするようなものであってほしい、と思ってしまう。

「演劇の真・善・美」をジャッジメントしに呼ばれた以上、全身汗だくで、涙も見せながら演じられたという、そういう、青春の美しさに目を奪われるわけにはいかない。
 確かにわたし、最後まで、都大会推薦議論で話題には出したものの、「演劇として推せる」というポイントが、「演劇部組織としてちゃんとしてるっぽい」「没入できる世界観を作り出している」「頑張っているし修正とかできそう」……以上の言葉が出てこなかった。や、多くの外部の人のへの鑑賞に堪えうる世界観、魔法を成立させている演目ではある。それに、ある種の「部員らのドキュメンタリー的感動」をしてもらえる可能性も強い。
 だが演劇として、美があるか、巧みさがあったかと問われると、その強い世界観をパワーで説得しているという側面は評価できるとしても、それだけでは推しきれなかった。

 演劇の美に、もう少しだけ体重を寄せて、抑制、選択、集中、……間があることに耐えうるようになっていただけたらなあと、と思う次第です。

 これにて24日分はおわりです。25日分の6校はまた後日、書いたら出しますー。

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