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ある日の高校演劇の元審査員日記7

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 昨日は高校演劇のあれを、つまり、見に、茅野という、新宿から特急で2時間強の場所にある長野にて、そこで関東大会が行われているのであった。長野とは関東のことである。

 どういう御縁かもう一度言うと、昨年度、初めて高校演劇地区大会(東京・城東地区A日程)の審査員をやり、一つ上の大会(東京中央大会)に選出した高校――都立東高校というところなのだけど、その高校が中央大会でも勝ち残り(ここは僕が審査に関わってない)それで関東大会まで行ったというので、これはもう、見届けに行こうというというつもりで行ったのだった。自主的に……

 ただ都立東のためにというより、地区大会で落としてしまったほかの高校のためにも見ておきたいなと思ったのだ。いまだに落とした高校の事が気になる。たとえば、関東第一や、都立深川の事を考えつつ……関東大会ではどんな高校が戦い、その中で我が地域を突破した演目はどうだったのか。
 とはいえ2日間にわたる日程の中1日しか見てないけど(さらには関東大会は北と南に分かれているから、全体の1/4だけれど)とにかく、見たのであったよ。

 トータルで思ったのは、関東大会は、きちんと「舞台美術」の概念があるところが選出されてきたんだなと思った。
 少なくとも僕が見た茅野会場2日目で、学校机椅子をただ舞台美術として使っているところはなかった(一校だけあったけどあくまでオマケって感じの使い方)。
 そこら辺にあるからと言って安易にそれを使うのではなくて。仮に学校机椅子を使うにしても、たくらむか、加工するか。あるいはやはりゼロから作るか。
 進出した高校はみな、演技、脚本と同じウエイトで舞台美術というものがあったなあと。

 だから、関東大会を目指すという高校は、少なくとも舞台美術まで手を回しておくことが重要なのではないかな。や、舞台美術はただ作ればいいってものではない。「舞台上のモノをちゃんと演出する」という事なのかなあ。

 舞台機構に対して、何らかの演出があればいいんじゃないかな。素(す)舞台だけど、場所に対してルールがある、とか。一角を何かに見立てる、何かを置く、ことで、制限をかける。実際のホールそのものを何かに見立てる、壁に何かする、観客席に降りるルールが観客にも可視化される……とか。そのルールそのものを、舞台美術とする、とかね。

 ただその一方、少なくとも東京中央大会に出場した大半の高校なら、紙一重、いつだれが関東大会に取って代わってもおかしくないなと思ったし、また僕が審査に関わった地区大会の上演高でいえば、関東第一や深川が代わりに入っていても遜色はなかったなあとも感じた。

 ただその紙一重の差が、はっきりと「舞台美術」への意識の有無だったんじゃないかなあ。

 そんなわけでまたおせっかいですが、見た高校の演目のレポートを。

 2019年度 高校演劇関東大会茅野会場2日目

 埼玉県立新座柳瀬『[hénri]!』
 バーナードショーのPygmalionの翻案。マイフェアレディみたいな話だなあと思ったら、ピグマリオンってその原作だったらしい。不勉強で、知らなかったなあ。
 訛りの強い花売りの少女を、紳士たろうとする言語学者ヘンリーが教育していく、という話。翻案は顧問の先生によるもの

 まず舞台美術。荘厳な玄関門に上手下手を立体的な足場で廊下を作ってあり、これによって、人が訪ねてきた、待たせている、どういう待ち方なのかをよく見せることがあって効果的な作りになっていたし、やーちゃんとしてたなあ。上流階級の人が住んでますよ、をかっこよく見せることができていた。よく作ったなあ。

 あと衣装に、メイク。衣装、や、嘘なんだけれど、お芝居のだから。でもその衣装に、きちんと手が入っている。工夫がされている。登場人物が着るであろうものを着ている。その説得力で、「日本語で演じられながら“英語の話し方”を基本にしている劇の登場人物」がいることをきちんと見せているというか、ああ、いい見せものを見せてくれるんだなあというのが伝わった。衣装と美術担当の力で、ここに来たんじゃないかなあと思ったのだった。

 ただふと、下手のソファー。ソファーは在りものを使ったようだ。たしかにソファーをゼロから作るのは労力には見合わない。だがそこにあるのは、我々でも容易に手に入るようなソファーだ。それが、そのまま、「上流階級」の部屋の応接間にある。

 そう、見えなくもない。
 でもほかの美術……作り物の玄関、作り物の部屋の内装、ちゃんとした小道具、衣装の中にあって、本物のはずのソファーだけが、いかにも現実で、いかにもそのままだ。嘘がなく、「高校演劇をするうえで手に入りやすいソファー」という感じ。

 他の作り物が、また劇におけるレイヤーが、しっかりとした「嘘」をついている中、ソファーだけが正直にソファーだった。
 このソファーに芝居をさせなくてはいけなかったんではないか。ただソファーはなあ、怒鳴っても、ほめても、灰皿を投げても、きっと自分の演技を変えたりしない。ソファーだからなあ。ソファーはずっと舞台に出てた。ソファーと主役のイライザが演技をするところがあって、イライザが初めて屋敷に来た時、そのソファーがふかふかなことに喜び、座って跳ねるという演技をしてた。
 イライザを飛び跳ねさせるほどのソファーには、あんまり見えなかったんだよなあ。ソファーだけが正直に、自分は自分だと言っている。

 じゃあどうすればいいんだろうか。もっとも創造力のいらない演出は、「ほんとうにいいソファーを使う」。
 それができないのであれば、じゃあどうするべきか。
 ソファーに衣装を作ってやったり、ソファーが動けないならみんながソファーに対して「いいソファーだ」と思うような演技をするとか。

 それとも、自分は自分だと言っている、自分が変わりようのないものは、人は、俳優は、舞台には出すべきではないのか。
 ソファーにどう教育を施せば、ソファーの訛りが取れ、ソファーは上流階級のソファーとして舞台上に、パーティに出すことができるのだろうか。

 ヒギンズはイライザに対して、「訛りをとる」教育を施す。イライザは訛りを取り「花屋で(正社員として?)働きたい」と希望がある。とはいえイライザは花売りとして自立している。イライザの夢(希望する進路)はそもそも適切かどうか。そしてその進路の実現に、ヒギンズのとった教育……「訛りを直して上流階級のパーティでも通用するような淑女にする」という施しは適切なのかどうか。

 劇中の人物の何人かもこの懸念を示してヒギンズにいろいろ言ってた気もするが、最終的にイライザはある程度訛りを直し、ラストシーン、まるで結婚式に出向くかのように、イライザはヒギンズの腕をとり、パーティが行われるであろう荘厳な玄関の前に立つ。

 どこか、ヒギンズの……というか、男性視線でこの劇が作られてはいないかなあと思うし、また僕にとって、イライザのキャラクターは訛りがあるときのほうが魅力的に見える。劇中のヒギンズの母がそう思ったように、イライザにとってただ、訛りを直すことが、はたしてどれだけ「よきこと」なのかどうか。

 そうした登場人物たちの懸念もあるなかで、ヒギンズは達成してしまう。ヒギンズは自分の名前を訛りなくイライザに言わせることに成功する。なまるイライザのために名前を変えるのではなく、ヒギンズはヒギンズのまま、変わることができたイライザと結ばれたかのようなラストを得る。のは、どうなのかな。

 原作ではどうなのかなあとみたら、ウィキで得た知識だけれど(https://ja.wikipedia.org/wiki/ヒグマリオン(戯曲))、バーナードショーはヒギンズとイライザが結ばれることは決してないと断言し、そういった様々な改変に否定的な見解を示している、のだそうだ。ウィキで得た知識で申し訳ないが……。

 原作者としてなんで二人が結ばれちゃいかんと思っているのかは、原作を読んでないのでわからないけれど。今回の翻案はバーナードショーの望んでいるものではないのではないか。それは別にいい。原作者の意向なんてどうでもいい。でも、その否定的な懸案を乗り越えてまで、二人をいい感じのラストにさせるのは、何のためだろうか。ばっと思いつくのは、お客さんのため。お客さんが、恋物語として楽しんでもらうためだろうなと思う。

 それは果たしていいのかどうか。
 花売りとして力強く自活し、上流階級の人間にひるまず訛りの強い言葉でケンカをうるイライザという人物の見る夢が、上流階級にその身を置くこと、あるいは、パートナーに思われること、選ばれること、そう解釈されてしまうような翻案していいものかどうかというと、僕はややこの翻案には疑問を感じる。お客さんが楽しむからと言って、イライザをそう描いていいのかどうか。

 お客さんのためにイライザはこの世にいるわけではないと思うのだ(たとえフィクションの中の人物といえど)。訛りとともに、イライザの中の何かが失われてしまうのではないか。誰かの真名を呼ぶために訛りがなくなった。では、それ以降は? 未来は?

 教育を施す、という劇。それを高校演劇という場で行われるとき、「人に何かを教える、とは何か」「何かを教わると、どうなるか」を、きっと考えざるを得ない。参加した俳優たちもきっと考えたと思う。イライザは何を得て、何を失うんだろう。その結末が、多くの人が望むような、という理由で、安易に登場人物を結ばせていいのか。それとも、そういう意図ではなかったのか。参加した人に聞いてみたいなあ。

 僕の思う演劇の役割は、その安易さの裏側や、安易さの向こう側にある現実を、生身の人間が舞台上に出現させることにあると思う。それが観客の望むものではなかったとしても。
 とはいえ、きっとこういう事を思うから、僕は演劇を観客のために作ることを軽視してしまっているんだろうなあ。僕の演劇の見方からすると、大いに疑問なところはあったなあ。

 俳優はじつに真面目に誠実に演じられていたなあ。訛りを直していく段階、審査員講評ではわかりにくかったという意見もあったが、僕はよく演じられていたのではないかと思った。ただ、劇がはじまって第一声が本当に聞き取りづらく、また第一場のシーンが何をしているシーンなのかもしばらくわからなかった。そのあたり、観客にいかにこの状況になじんでもらうか。劇の初めの登場人物が何者で、何を問題にし、何をしたいのか。そのへんを急ぎすぎたのではないかと思う。

 きっと真面目にやりすぎたのではないかな。自分の持っている情報、すべて伝えなきゃ、みたいな。伝わらなくてもいいし伝えなくてもよくて。
その役に対して真面目に向き合わなくてすらいい。
 大切な人と関わるとき、常時真面目に付き合っていたらその人も疲れるだろう。真面目にならなくてもいい関係性をたもてるよう、役と俳優がいい結べられたられたらいいんじゃないかなあと思うんだが、どうかなあ。それとも僕の人物付き合い観が、不誠実なだけかなあ。

都立東『僕の父には名前がない』

 これで三回目の観劇になる。劇全体の感想はすでにやったりしてるので
地区大会初日はこちら
https://note.com/honsukesan/n/ne86dd2a490b2
 や中央大会での感想はこちら
https://note.com/honsukesan/n/n53cec40faf5f

 三回目を見ての感想は、「毅(つよし)」を演じていた俳優が異様にうまくなったなあと思ったのだった。「バカヤロー」と、後半の後半で叫ぶシーン。三回目の観劇で本当に堪えた。ともすれば初回、中央大会までは、心のままに、感情で動いていたのかもしれない。何がよくなったかというと、そのテンションのまま、特に序盤のセリフが明瞭になって、動きが適切になって、「よく見られる」ことになったのではないかな。

 だから、ずっと稽古してたんだな、って思う。夏から、ずーっと。今日の今日まで。
 殺人犯の父を持つ人の、親友になろうとしている人の、おそらくは友達ができづらい、いつだって空回りばかりで、いつだって間違って、失敗し続けて、今度こそ人とちゃんとかかわろうと思っている「毅」について、この俳優はずっと考えていたんだろうなあ。

 そして改めて、城東地区A日程の大会から選出して間違いなかったなあと思ったのは、何回でもいうように「外へ向かう力」があるという事。観客を通して、より遠いところに、問題や話題や考えることが広がるという事。
内と外って何かっていうと、内というのは、すでにある感情をもう一度なぞるような、や、それはそれで素晴らしいことだけど、それ以上に、どう思っていいのかすら分からないことを突き付ける。
 外というのは、内にある「わかるあるある・共感」ではなしに、今の自分の外にある「わかることができない・わかりたくもない現実・でもそこに確実にある」をつきつけるという事。
 そしてこの関東大会(茅野の2日目だけですが)の中でも随一の、外に向かう力があったと思ったのです。
 この劇に巡り合えたことが、僥倖というほかない。その劇が評価され、関東大会の場に行きつけたことをうれしく思う。

 中央大会の時の課題でもあった、「劇場が味方にできにくい問題」はやはりここでもあったかなあと思った。講評の時でも話題に上がった「照明が暗い」問題。あれは意図的なものだろうなと思う。その一方、「この暗さじゃないんだよなあ」というのもある。これは本当、会場スタッフのせいでもない。高校演劇の構造上、照明・音響への繊細な注文は、よほどのことでないと難しい。
 なにせ高校演劇の場当たりの時間は舞台セットの仮組、バラしも含めて1時間だ(20年前とかわってなければ!)。1時間で、主要なテクニカルのきっかけを確認し、音響レベルを決定し、共用の照明の調整をしなくてはならない。

 その中でベストを決めなければいけない困難さだろうなあ。注文としては「顔がわからないほどの暗さ」だと思うんだが、それがリハーサルでは一瞬だけ見ることができて、それでGOとしてしまったのかもしれない。ただシーンはそれより長時間続く。そのため、一瞬その程度くらいならOKでもよかったものが、ワンシーンまるまるその暗さでは集中力を切らしてしまうという事ではなかったのかなあ。

 このテクニカルの壁は、ほんとうむつかしい。ただそのテクニカルの困難さ、外部スタッフといかに短時間でコミュニケーションをとるか、そのスキルは、将来どんな職能においても有益なものだと思う。そしてそこで失敗できるというのも財産だ。
 照明のような、専門知識の外にあるものを依頼するとき、自分は何を思って、どう考えをまとめて、どう伝えるのか。たとえ失敗があっても、それを若い人が経験できるというのは素晴らしいことだと思う。うまくいかなかったという事実も含め、それは素晴らしいことなのだ。だから、高校演劇って良いのだと思う。

 とにかくこの作品が多くの人に広がる機会があって、本当によかったなあと思った。

長野県立木曽青峰『お前に自転車の乗り方を』
 この作品は顧問創作。数年前に上演されたものを再構成したとのこと。チェルノブイリ原発事故での混乱と、それに翻弄された家族の話を4人の俳優が演じる。

 と、関東大会、パンフレットを見る限りその多くが顧問創作という事に驚いた。僕が受けた東京の地区大会ではほとんどが生徒創作、もしくは顧問との共同という形もあったが、顧問オンリーというのはあんまりないんだなーと思ってた。関東大会は顧問創作が強いんだなあ。

 劇中、「命令とは違っても、よいと思うことをしよう」(聞いただけなのでセリフは正確ではないです)という事を口にするシークエンスがある。混乱するチェルノブイリ原発の中、職員の役の一人がそうつぶやき、決意を新たにする。
 だが、だ。この劇に参加している人は、このセリフの通りに動けるのかなあとも思ったのだった。演出家や、顧問の指示とは違っても、劇のためによいと思える行動をとることができるのかな、と思うくらい、真面目に、誠実に俳優たちが動いているように見えたのだった。

 彼らが、なぜこの芝居をやろうとするのか。その必然性というのかなあ。彼らでなくてはならない理由が、演技の上では、もしかしたら感じられなかったところもある。彼らでなくては演じられないという切実さ、必要性、この戯曲、この題材でなくてはいけない、というのが、わからなかった。

や、題材の悲惨さ、切実さ、今の日本とリンクしている。その情報は伝達されるのだ。チェルノブイリでは大変だった、という資料から読み取ったこと、資料を基に作ったであろうと、そこから誰かが……作家が考えたこと、それは「伝達」された。真面目で誠実な俳優たちによって、それは、すごく。

 ただその伝達が、演劇だったのかなあと思うと、僕にはね、そうは思えなかった。極端な話、この4人ではなく、この劇を別の俳優が再演したとして、この舞台の魅力が損なわれることはなかったんじゃないか。
 それはその4人から演劇における「命令とは違っても、よいと思う事をした」ことが、僕には感じられなかったからかなあ。そして劇中描かれるチェルノブイリの混乱は、命令に忠実で、忠実であるという事に固執し、保身に走ってしまった人が引き起こしたんじゃないのかな。

 しっかりと、指示通りに、一生懸命丁寧に演じられていた。多分僕はそういうものを、あまり素敵とは思えない悪い観客なのかもしれない。演劇は、そうじゃない人、そうあれない人、そうあろうとしているのに、できない人。そういう人の出す閃光を、僕は好む。

 出ている俳優4人が悪いっていうわけではなくて、その4人に、誠実に、真面目にさせているものに対してあらがうために、僕は演劇をやりたがってるところがある。真面目さ、すでに誰かの決めた正しさから、あらがう手段のために演劇があると信じている。だから僕がどうかと思うのは、舞台上に漂うこの4人を真面目に、誠実に演じさせた、空気のようなものだ。

 脚本では、権力に対して抗う人々について描かれているのに、俳優から、その抗いが生身として描けてないように思えるのは、どうなんだろうな。それともこの観方は、僕の主観が過ぎるのかな。

 また脚本そのものにも僕は違和感がある。情報を出すことを優先した言葉の使い方は、劇中の登場人物をないがしろにしていないかどうか。最序盤の説明台詞で、KGBへの威圧ぶりや政治腐敗を、まるで資料を抜き出して語るようなセリフの書き方は、脚本家としてあまりに登場人物に愛のないことだと思う。テキストとしては、あまりよいものとは思えなかったなあ。

 さらにあれを、シーンや動作、事件でシチュエーションは提示されないと、演劇である意味がない。この脚本を誠実に、真面目に口にさせるような演出では、ダメだとおもうのだ。

 またそこで俳優は、「このセリフ言いづらいです」を口にできる空気であれば、この脚本の言葉も変わったと思うけどどうだろう。でも、指示だったのかなあ。こう脚本にあるのだから、こう読んでくれ、と。その命令にたがえてでも、よいセリフの出し方を、俳優が出せる環境ではなかったのか。それをしていい、と、思うことができなかったのかな。

 また衣装も、あのカラフルなつなぎの色(赤、青、くすんだ色、黄色。)は、おそらく登場人物をわかりやすく性格づけのサインとして使っているのだと思うのだけれど、(くすんだ色の人は性格が悪い/青の人は冷静で頭がいい……みたいな)それは登場人物にたいしてあんまりではないか。そうでなければ、あのカラフルなつなぎである必然性は、よくわからない。
 また、舞台上のセットに書かれた文字「1986(ロシア語・おそらく地名)」「2011日本」と書かれた文字、あれはどうなんだろう。なぜわざわざセットに書いたのか。そう書かないと、伝達できない、現在の日本に結び付けて考えてくれない、と考えての事なのだろうか。それはあまりに解釈の余地を狭めないだろうか。「考えていることすべて、伝達しないといけない」にとらわれすぎてはいないだろうか。

 伝達が重要ではない。わかってもらうことが重要ではない。真面目で、誠実で、忠実で、わかってもらおうと過剰にふるまうことを空気で共用することが、現代の息苦しさであり、またそれはチェルノブイリのような事故を誘発するものではないかな。

 俳優は、役やシーンが瞬時に入れ替わる技術はよかったなあ。何度も練習し、自分の体になじませたのだと思う。独白の強さ、言いにくいロシア語の固有名詞をしっかりと観客の奥まで伝えさせた技術は、まさに練習の成果として誇っていいと思いましたよよよよ。

栃木県立宇都宮『されど、ブヨは尻で鳴く。』
 これは本日一の爆笑をかっさらい、観客を巻き込んでの、どうかしている演目だった。ギリシャ喜劇を下敷きにし、生徒・顧問創作とあるが、おそらく顧問創作としているところは、最低限度の検閲だったんじゃないかなあーというくらい、どうかしていなければ作れないもの。

 おそらく絶賛の嵐だと思うので、僕は否定的な側面に身を置いて感想を書こうかなあ。なんでかっていうと、とても面白かったけど、この程度を面白いといっては、面白の神・ゼウスの名において、誠実ではないなと思って、あえて文句をたくさん書きたい。

 ギリシャ喜劇『雲』を下敷きに、しかし意外とちゃんとそこは上演されるのが興味深い。詭弁を習いにいった男がゼウス神から「雲」に宗旨替えをし、しかしその息子にしてやられるって筋はおそらく原作通りだし、また当時の「やたら詭弁を弄する奴がいる」という風刺は、時事ネタを連発する作品の下敷きとしてはうまく利用していたなあと思った。
 そうこの劇はギリシャ神殿風のセットを組み、ギリシャっぽい服を着て、ギリシャっぽい感じでいろいろギリシャしながら、時事ネタを語り、時に即興劇になったり、討論シーンでプロジェクターを使って演劇そのものについて討論したりと、やりたい放題をする。
 そして一応それは、このギリシャ喜劇の話の進行に、小憎らしいほど沿って行われるのだ。

 とはいえ、どこかでそれは原典の「利用」にすぎなかったんじゃないか? ギリシャ喜劇という前振りが、前振り以上のものになっているのかな。というか、もっとそのあたり、原作の持つテーマは使えたんじゃないか。

 原作は未読だけど、詭弁を学ぶために信仰を変える、という劇的な事件を描いている。信仰を変更するという事がどういうことか。当時ソクラテスはゼウス的神話世界と対抗し、科学的側面でものを考えようとした、そのあたりの混乱を戯曲として描いていて、この「信仰の変更」という側面を、もしかしたらこの劇はあまり深堀してなかったんじゃないかなあ。

 や、できそうなシーンはあった。それはディベートのシーンなど。劇は台本通り演じられる正論がよいか、インプロでもいい邪論がよいか。これは、演劇をやる上で、「信じてる神はどっちですか?」という解釈もできる。
宇都宮にとって、演劇の神――つまり、何を信じているのか。観客の反応なのか、自身らのやりたいことをやることか、それとも、もっと別なところがあるのか。
 そのあたりの、宇都宮の今現在思っている演劇の神の存在を、感じたかったなあ。や、後ろでポーズとって固まってるだけではなくて。あなたを信じるかどうか。演劇を信じるかどうか。それとも面白さの、何を信じているのか。何に祈りをささげているのか。

 劇のラスト、ゼウスは怒りの雷で詭弁者のはびこる街を燃やし尽くす。宇都宮はゼウスの怒りを買ってまで、邪論を通したかったか。劇のラスト、ゼウスの雷鳴をわりと素直に受けていたけど、それを素直に受けてよかったのかどうか。素直に受けちゃうような、主張なのか。雷を跳ね返すでもなく、受け入れて、1枚のきれいな絵として舞台上にフリーズする。それが結末としてきれいだからそうしているとしたら、どうなんだろうなあ。

 やーしかし、盛り上げていたし、楽しかったし、奇妙だったし、ナメていたし、よかった。ただそのナメかたが、ゼウスに……演劇の神に「なめんな」って言われたら引っ込めちゃうような腰がすわっているナメぶりのようにも感じてしまってな。
 あえてあえて否定的な見れば、「ただウケればOK」みたいなスタンスにも見えなくもない。や、それはそれでいい。そういう神を信じてもいい。ただその信仰に、どこまで本気だったのか。それを示すものが、もっとあってもいいんじゃなかったか。少なくとも、彼らから見れば異教の神を信じる僕は、この演劇部の信じているものよりは強く、その神を信じていると思う。

 それを説得しきるには、あともう少しの切実さ。ウケに徹する人生を今、激しく選択しているという何かが足らんかったようにも見える。ウケた時点で安心してないかどうか。こうすればウケる、と、甘く見て、油断したネタがいくつかあったんではないか。
 
 とはいいつつ、こうした劇が関東大会に上がってくるのは良いことだなあと思いました。セットもすごい。俳優は、実は、もう少し丁寧にできたところもあると思う。ただ、うまくやろうというものではなく、もっと違ったところを目指して立っていたところもあり、この辺りは信仰の違いだと思うんだよなあ。即興はあの速さで反応したのは研鑽によるものであるし、よく想定し、よく演じていたと思いました。

伊那西『蛹の夏』
 こちらは既成脚本に潤色が加わっているもの。老人ホームにて一人の老婆がいた。彼女は昭和初期? 紡績工場で働く女工だった。彼女が時代を超えて、たったひとつ後悔していることとは――? みたいな内容。

 いろんな手段を使っていたなあ。この会場の劇場機構をフルで使って、舞台美術を相まって良質なお芝居を作り上げていた。釣りものとかね。ああいうのあると、いい芝居見た感がある。高級感というか、手のかかっている感じ。

 ただトータルで見たとき、俳優は誠実で真面目に演じていたし、演出もやれることを全部やっていたけれど、「やる」ことにウエイトを置きすぎてはいないかどうか。その演出はどこまで必要なことだったのか。
 劇中、釣りものや、プロジェクターによる映像照射がある。だがそれら、劇の高級感はたかまるし、やって悪いものではないけれど、じゃあなきゃないで、劇そのものに影響はない感じが僕にはしてしまった。やっている感はあるけれど。
 それは、できるからしている、という感じがする。やりたいからしているわけではないとも思えちゃうのは、うがった見方だろうか。

 逆に舞台の使い方として、アクティングエリアだろうか。テープ? で区切ってある必要は、はたして何のためにあったのかどうか。劇中央が女工たちの宿舎となるシーンがある。そこに、わりと明確にテープか何かで区切って見せていた。
 部屋? を示したかったのか。それならば後ろに置かれた棚でもう何とかなっている気もする。そのこだわりが、どうもわからない。

 劇中、女工たちの生活が描かれる。労働の日々。慣れないうちはつらいけれど、きちんと休暇や保証もあり、また真面目であれば家を買うほどの給金も出る。共に働く人々も、いい人ばかりではないけれど、優しい人にも恵まれて。
 そんなさなか、登場人物の一人は「労働争議」に巻き込まれ……という筋なのだけれど。劇中気になるのが「労働争議」の人が、ある意味この劇中では悪役として描かれる。
 労働争議をするために政治的に立ち回る女に翻弄される女工の一人。冒頭の老婆は、その労働争議に親友を巻き込んでしまい、離れ離れになってしまったことを悔やんでいる。
 素直にこの芝居を観たら、「平和に暮らしていた工場に、政治運動をまきこんで、親友と離れ離れにさせられてしまった」と見える。労働運動をけん引する人が、悪者として見せようとしている。その人の目的は「団体交渉権を獲得する」とのこと。

 なんだろうな。この労働争議の登場人物、悪人に見せようとする理屈がちょっとわからない。結局労働争議は不発に終わり、「工場から解雇させられてしまった」とモノローグされるが、それは労働運動をしようとした人に対して工場や資本家が悪いのではないか。それが劇中の倫理観では、労働運動をしようとしていた人が悪いかのような印象が強い。
 それに理想郷のような職場でも、団体交渉権もないような環境で、それを幸福な空間として見せるというのはどうなのか。(まるで今の小劇場界隈ではないか!)
それを壊したのが「団体交渉権を得るために労働争議を起こした人」という風に見えるのは、現代の目から見ると違和感がある。

 要するに、「素朴な人を政治に巻き込むな」みたいなテーマに見えてしまったのだ。
 や、テーマで演劇の出来、不出来を論ずるのは良くないとは思うけど。

 何かの不幸を描くとき、特定の登場人物に「悪」を無理やり担わせているやり方は、どうなのだろうか。親友と離れ離れになってしまった時代の不幸を、一人の登場人物に仮託する劇の作り方は、どうだろう。
 逆もまた然り。劇の中、圧倒的に好感度のある人物が語る好悪が、劇全体の「正義」を決めてしまわないか。今作でいえばベテラン女工で、主人公たちに優しく接するトラという女工が「富岡でも労働運動は盛んだった。だが労働争議は……」(正確な文字起こしではないです)と語り、理由は明かされないが「労働争議」に対して否定的な思いを口にする。
 なぜ彼女が労働争議に否定的なのか、少なくとも僕にはわからなかったし、理由もいまひとつ明かされていない。トラは、作家にそう言わされているのではないかと思う。今作では「労働争議」は悪とするため、彼女にそう、言わせているのではないか。

 そうでなければ、作家はトラに語らせなければならなかった。富岡製糸場での勤務経験? もあるような、女工歴の長い彼女が、なぜ労働争議は否定的に思うか。労働者の権利を守るための正義の運動が、容易に政治に取り込まれてしまうという実体験が、彼女の役としての歴史のなかに、実感として刻まれていたのかもしれない。
 その実感を、演技にしたり、言葉にしたりするのが、演劇なのではないかなあ。単なる資料上からくる好悪・善悪ではなくて。仮に労働運動が近代的な考えだとしても、その変革のさなかにあった人々の歴史の中には、簡単に「労働争議」が正義であるとは言いがたい苦みもあったはずだ。
 それがないから、劇として「労働争議をあおるこの人は悪ですよ」として見えてしまうし、「政治運動に普通の人を巻き込まないでほしい」というように見えてしまう。

 そしてそうしたメッセージに、反対の意見をもっている僕のような観客を、説得しきれないんじゃないかなあとも思うのだった。

 俳優はまたこれが真面目で誠実だなあと思う判明、なにかこう、我慢というか、世界観・時代設定を壊さないよう、かなり節制して舞台に立っていたようにも見える。
 というのは、パブのシーンでちょっとふざける「にゃん」みたいな動きが、すっごい生き生きとして見えて、わずかなわずかな「ふざけ」の隙間を全力で楽しんでる感じが、逆にこう……耐えているのかなあとも思った。

 それに、なぜこの脚本を? という疑問はやっぱりある。これが本当に、この演劇部が、演じないではいられないような、切実な題材だったのかどうか。切実な題材だったけど、その切実さが、この部にとってどういうかかわりや共感があって選択したものだったのか。少なくとも僕にはわからなかったなあ。なぜ、その面白をじっと耐えて、世界観や時代設定を守るんだろう。それを耐えたから、この部はこの大会に進出することができたのだろうか?
 耐えないと、この場にはいられないのか? それを耐えさせている空気って、いったいなんだ?

 また長々と……関係ないのに感想を書きました。

 会場では「生徒講評」というのもやられていて、僕は全部聞いた。公開討論だったんですよ。ただ残念ながら声が小さくてちゃんと聞けたかどうかはあれですが。

 そこでやはり感じたのは「真面目な意見以外言っちゃいけない空気」で。
そりゃあ、パブリックな企画だから、「言葉を選んだ本音」でなくてはいけない、とは思う。だがそれを堅守してしまうと、「人に届く本音」ではなくなってしまうようにも見える。

 それは委員7人が全員、ものすごくまじめだったからかなあ。なんか……バカの人が一人いたら、つまり、宇都宮高校の人が一人でもいたら、もっと違う言葉が出て、違う論議になっていたのではないかなと思った(宇都宮の回の生徒講評の時、芝居を終えたばかりの宇都宮の俳優たちがギリシャの格好をしながら全員講評を見学しに来ていて、その空間がすごくばかばかしかったのがとてもよかった)。

 この、ばかを許さないというか、真面目で、誠実であらねばならない空気は、いったいどこから来るんだろうか。どうすればそれを利用したり、笑ったり、楽しんだりできるんだろう。

 たった一人、ばかがいればいいと思うのだ。そのたった一人のばかものがいるだけで、その演劇部は変わる。その世界はたのしくなる。真面目な空気が、楽しい空気になる。

 ただ、ばかは一人ではいられない。ばかは孤独なのだ。いつだって、ばかは教室にいないか、窓際で外を見ている。
 ばかに、ばかを続けさせることのできる、マネジメントをする人が必要だ。ばかの代わりに怒られてあげる人。ばかをほめる人。ばかを叱る人。そして、ばかをばかのまま、その人として見ることができる能力のある勝海舟がいないといけない。

 勝海舟になれるのは、かつてばかだった人だ。ばかは、次の世代のばかを生む。だからばかは、貴重なのだ。

 もし、演劇部に、高校に、世界にばかがいないとしたら、その世界に問題がある。いそぎ、ばかをみつけ、育てなければならない。演劇は、そのばかものを育てるのにもっとも向いているものであると思う。なぜなら演劇は、ばかを決して一人にしないから。

 逆に言えば、ばかを排除しないと作品が作れないような演劇は、よくないんだろうなあと思った。演劇部の顧問の皆さんは、勝海舟足りえるのかなあ。ばかのままで教員はできないとは思うけれど……。

 空気を読めない、何かを出さないと生きていけない、何かの出し方のコントロールのまずい、よく泣き、よく笑う、ばかの人が、演劇部で、社会で生きていけたらいいんだけどなあ。

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