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ある日の高校演劇審査員日記 その2

9月23日
 高校演劇の審査員2日目。東京の城東地区のAブロックを担当。ふと、城東とは何ぞやってな話ですが、「江戸城」の東側ブロックらしい。高校演劇界の東京の方位の基準は江戸城……。そんなわけで城より東の17校の中から、次の大会に推薦する二校を決めるという重責をやってきました。2日目のレポートです。
 レポートに興味を持ったらぜひ実際に高校演劇の大会に訪れてみてほしいなあ。

2019年高校演劇東京・城東地区Aの2日目。
1【都立橘】『流れ星に願いを……』
 生徒創作。恋人大好きな町一番のカップル男が、流星と共に現れたまぬけな賢者の後押しにより、恋人を幸せにしようと奮斗努力する……という筋。

 とにかく、ばかである。
 登場人物、俳優、脚本、小道具すべてが一貫して頭が悪い。そこがよい。すごくよい。そしてそれはただのばかではなくて、精一杯の、自分たちのやれる範囲をすべてやりつくした、丁寧なバカだった。これって本当難しいんだ。けど、しっかり伝わった。ばかだなあ、って。

 この手の演目は、たのばかだったりすると雑になりがちだ。だらしないバカでもウケは取れてしまうこともあろう。だけど橘高校は、参加していた全員が、しっかり、かつ、誠実だった。何遍も練習したのであろうバカ。今の自分たちがかき集められる限界まで頑張って小道具、衣装。それがすごくいい。
 例えば、クマがでてくる。クマがでてくるんだよ。クマが主人公の釣った鮭を奪いにくるシーンがある。……あるんだよ……ばかだなあ……。
 でも、クマはどう表現したものか。クマの着ぐるみを調達するのは難しい。彼らはどうしたか。
 たぬきの着ぐるみならあった。
 それで、なんとか、たぬきをクマと言い張った。
 ま、茶色いしな、クマまたぬきも。この……精一杯さ……。
 や、力のある高校なら、衣装セクションを立ち上げ、熊着ぐるみをつくるだろう。だが、その力はなかった。通販で買うと三万円して手が出ない。安価なパーティグッズにクマはなかった。
 彼らは考えた。その結果、たぬきだ。
 それが精一杯だった。そこがいい。

 さまざまなできないこと、上手くいかないことを、自分たちが今できるすべてをやりきった結果の足りなさを、喜んでいる僕がいる。この見方はしかし、アリなのかなあと、書いててふと思う。
 ばかだなあ、というのも、彼らの望んだ見られ方ではある。でも、それに乗って、そう見てしまっていいのかどうか。

 それは、年下の人への、技術の足りない人への蔑視のような見方になるのか……? 

 すごい好感を持ったのだ。持てる力の全てをそこに見たから。ただ、どこかで感じる微笑ましさへの視線って、僕は彼らを、かわいく消費してしまうのか?
 さらに言えば、逆に言えばよ、今できる自分たちの範囲内ではあったんじゃないか。……笑いは尊かったしなあ。観客も笑った。いい時間だった。だけど、笑い以外が弱かったともいえる。ゆるく笑いが続いて後半、若干のシリアス……恋人を守ろうと奮闘するシーン。
 それは、笑い以外のモードでバカを表現するべきシーンが、あと少し弱い。不得意かもしれない。一生懸命で誠実なだけでは表現に足りない。その時、どうするべきか。
 その壁がある。
 乗り越えるか、すり抜けるか、登るのを諦めるか、壁を壊すか……彼らはその選択肢をどれもとれず、壁の内側で頑張ってしまった。
 ばかにばかばかしく、楽しんで、精一杯、誠実でまじめ……という事では解決できないことに対して、どうすればよいか。僕もわからんよ。わからない。でも、面白さはその先にあるんじゃないかなあとも思うのよな。

 俳優は抜群に主人公のカップル男女がよかった。また、このメンバーだから「悪人」役の人はあれほど暴れられたのではないか。このメンバーで、この瞬間だからこそ輝くものを悪人役の人にみた。
 それをこの先、自分から、自分ただ一人、アウェイな場であっても輝けるようになれたら、いいよなあって思う。

2【都立紅葉川】『紅葉殺人事件』

 講評でも言ったけれど、格の違いを感じた。批評の遡上に乗れる強度があると思う。その上で、脚本と作品に対して僕は否定的に見たのだった。
 否定的というか……なんかムカついたのかなあ。や、心が揺さぶられたのは確か……。つかこうへい『熱海殺人事件』を下敷きに、紅葉川高校のために書き下ろされた完全新作。
 「紅葉熱海殺人事件」ともいえる状況になってる紅葉川高校演劇部。そこでずっと脚本を書き下ろしてるOBが何者かに殺された。部長らはその犯人を女子部員砂辺と断定し部長は取り調べを開始したが……。

 メタフィクションの作品でもある。登場人物はみな実在する部員を下敷きに作られた、プロフィールも込みの当て書き。脚本を書き下ろしてるOB「ナカムラ」は登場しないものの、この劇ではナカムラがほぼ中心でストーリーがまわる。
 おそらく実際に起きたのだろう演劇部内の事件や事情を、熱海殺人事件にリンクさせて話を進行させていく。いわば身内話だ。それを、よく訓練された俳優が小気味良い演じっぷりで、舞台を進行させる。

「等身大」というキーワードがでてくる。
 ナカムラは部員たちに、彼ら等身大の脚本を書いてきた。彼らが起こした事件やキャラクターを使い、等身大の彼らをフィクションを交えて作劇されてたことが、劇中語られる。
 そのナカムラは、熱海殺人事件のアイ子殺しのように、首を絞められ殺された。

 自分の書いた脚本の中で、自分(らしき)キャラクターが登場して(実際に登場はしない。劇中劇として現れ)死ぬ。殺させる。等身大の、今の演劇部の部員の手で。その内向きな力、メタフィクションの皮を被ったOBが高校演劇の場で、凄腕の部員たちに演じさせるという点に、どうも嫌な感じがした。
 最後、それが熱海殺人事件を借りた演劇部員による「熱海殺人事件ごっこ」だったというアイロニーになる(このあたり面白いんだけどね)のが、またすごく腹たった。演劇ごっこだといいたいのかい。フィクションの中で殺されて、もう何も言うつもりはないのかい。
 や、高校演劇の場だからこそ効果的で、圧倒的に面白くて。作家本人が、ある年齢になっても関わり続けていることの靄をフィクションをうまく駆使して表現していたのは、卓越した能力を感じる。面白かったんよ。

 何より俳優たちがこの脚本を(多分)好きで作家の事を(多分)理解して、のびのびと力強く、かっこよく、圧倒的にやってたものだから、僕はラストの幕が閉まるとき、睨みつけながら大きな拍手を送った。すっげー睨んだ。拍手した。
 一人の突出した内向きの力を、才能を、高校演劇という場で託していいのかどうか。
 ただその突出した才能が、部員たちを、いままでのままではいられない遠いところに連れて行ったのは事実で。
 だけど脚本は、劇を動かす力は、すごく内向きな事に始終する。

 観客や俳優たちを、そんな狭くて暗い、未来のない場所に連れて行ってどうするんだろう。まるで俺みたいにだめじゃないか。
 フィクションの中でも死んでる場合じゃない。生きていかなければ。それがたとえごっこかもしれない演劇の中でも。

 俳優は、特に部長役の部長の芯の強い体は見てて惚れ惚れする。よく訓練されてたなー。つかこうへい劇をやろうとするに相応しい俳優っぷりだった。ひしひしと、なにかやってやろうという企みと強さを兼ね備えた強度を、4人全員から感じたなあ。とてもよかったなあ。

3 【都立荒川商業】『夏芙蓉』

 こちらは既成台本らしいが、部員の一人がどうしてもやりたくて探し出した作品とのこと。夜の高校に、四人の生徒が忍び込み、ただ話す。話は尽きない。しかしその話の中、僅かに記憶の綻びがあって……

 とにかくよく稽古してたなあと思わされたのは、この四人の会話。ともすれば、ただ話す、話すだけになってしまいかねないシーンを、その瞬間は「そこに彼女らがいる」かのように、丁寧に稽古を紡いだのがみてとれて、それがよかった。
 ただ、私たちがそこにいるとき、いつだって一生懸命にいるわけではなくて。ただいる。何もしなくても、ただ居ることができるのであり。
 俳優たちはその居方に、一生懸命に丁寧に在ろうとし過ぎたのかもしれない。
 何もしない、何もない、ただ4人がいる。いた。そういう無駄な居方も、演劇はできる。一生懸命ではなくて

 だからか、会話がやや走って(早く)聞こえた印象があるのかも。実際には丁寧にゆっくりゆったりやろうとしていたとしても。シーン練、抜き稽古を一生懸命という部分が反映されてしまったのかもしれない。

 居る、とはどういうことか。私たちはどう居たか。
 脚本は、弔いの劇でもある。居た人が居なくなった。居ない、とはどういうことか。演劇は、俳優が居ることでも、不在を表現できる。不在という立ち方にも目を向けて演技、演出してもよかったかもしれない。
 その不在に向けてどう言葉を出すか。不在をどう語るか。力のない空をつかむような戦い方も、演劇の魅力でもあると思う。

 俳優は4人全員よかったなあ。このメンバーだからできた、をすごく感じられて、技巧以上の善さを感じたのでした。

4【武蔵野】『嘘屋』

 世にも奇妙な物語調の短編作品。既成台本。「嘘」を販売する奇妙な店舗。その店に翻弄される女の話……。

 講評でも言ってしまったけれど、僕は劇作家として、この台本は舞台のためにあるものとは思えないと思った。話のスジとしてはショートショートのような趣もあり、嘘を売る嘘屋の奇怪さもワンアイデアモノとしての面白さはある。でもこの台本は人の身体をどれだけ必要としてるかな。
 ト書きはある。台本らしき体裁はある。でも、その指定はいったい何のために機能してるんだろう。台本を台本っぽくするためだけ、ショートショートを台本風に起こしただけのように思える。
 いわば台本が台本のためにあって、演劇のため、これを演じる人のために書かれていないのではないか。

「話はわかるし、面白い」から、この武蔵野はこの脚本を選んだのかもしれない。さまざまな制約がある中で、現状の自分たちが出来て、面白いものとしてこの台本を選んだのだろうと想像する。彼ら彼女らは、一生懸命、必死に舞台を成立させようとしていたのは見てとれた。
 そしてそれは、「台本に書いてあることを精いっぱいやる」という方向への一生懸命さだ。
 その頑張り方ではないのかな、とも思う。

 なぜ演劇に台本が必要なのか。台本が無い演劇と言うのもあるのだ。「自分たちにできそうな台本」を選ばなくてもいい。自分たちにできそうなものを演じなくていい。
 や、「自分たちがやってみたいもの」が、オススメという訳でもなくて。
 やらないではいられないもの、あるいは、自分たちを遠くに連れて行ってくれそうな予感のあるものを選んでほしいなと、この公演をみて思った。

「自分たちが出来そうなものを一生懸命やる」のは、きっと演劇にとっての「一生懸命さ」とは違う。それはどこかで「宿題を一生懸命やる」方向と似ている気がする。僕にはその真面目さが切なく思った。

 それでも称えたいのは「一つの舞台を、やり切る事が出来た」という事実。それは何事にも代えがたい事であると思う。それを終えて、今度は違うもの、もっと演劇がしてみたいと思ってくれたら、今度はこういう台本を選ぶことが無いんじゃないかな。今の自分にできそうなものをやるのではなくて、やりたいことをするのでもなくて、「これをやらないではいられない」。

 一つの舞台を終えて、次に向けて、自分の中の奇妙な過剰さを発見してくれればいいなと祈っていたり。

5【都立第三商業】『HALLOWEENの魔法』

 こちらは生徒創作。愛し合う男女に、ハロウィンの前日悲劇が襲う。悲しみと狂気に暮れる女。しかし、死んでしまったはずの恋人が再び姿を現した……といった雰囲気。

 講評では「怨念」という言い方をしたけれど、「これをやりたかったんだ!」という事が伝わる。濃密な男女の語りや、異様にかっこいい&かわいい衣装のジャックとメリーという異形の登場人物。これは様式美のお芝居だなあと思って見ていた。
 この様式がやりたかった、この悲劇がとにかく美しく書きたかった、わたしはこれがやりたかった! という怨念が、衣装からも伝わってきてよかったのでしたよ。

「俺も好き。……いや、愛している」

 という脚本にあるセリフをどう考えるか。基本的にこんなセリフは、どうかしている。そのどうかしてる言葉を、どうこの世に発して届けるかがこの手の表現をやる楽しみでもあるし、使命でもある。
 「愛してる」をどうするか。
【叩きつける】
【そばにそっと置く】
【目の前で爆発させる】
【大量にの水に薄めて天井から滝のように押し流す】……いろんな戦い方がある。
 ただ今回第三商業が選んだ作戦は、力強く直球で戦った。それでは素直過ぎるのではないかと思ったのだった。

「愛している」というセリフは、いま、観客には素直に受け取られない。ともすれば笑われてしまう。好意的な観客ばかりではない。愛してると口にさせるなら、それは覚悟するべきだ。
 それでも、これを伝えたい、戦いたいというなら、より怨念を高めて、圧倒的にパワーアップが必要なのではないかな。
 どこをパワーアップするか。オススメは「細部の過剰さ」かなあ。こだわりを、小さく、誰も見てないような部分でさく裂させる。
 カッターで首を切るとき、普通の人が死ぬような斬り方でいいのかどうか。「愛している」と言われるような女が長いセリフを言いながらする自殺を、もっとこだわってもいい。

 異界の二人も完成度は高いけれど、もっと変な要求……演出家のこだわりをもっと乗せてみてほしいし、そのノリをもっと濃く、それを俳優たちと共有し、全員で狂ってほしい。
 そして余裕があれば、全体の構成にも気を遣って見てもいい。講評の時「シーンが進んでいない」という指摘があったのも、お話の構造にやや難があったからだろう。死という冒頭の衝撃があって、そのあと描くべきシーンは何がよいかどうか。それをみんなと考えるのも面白かったりして。

 これまで見た中で、作家の怨念は随一に感じた。そして、その方向性でもっと過剰に、もっとしないではいられないこだわりを今後も持ち続けてくれたらうれしいなあ。

6都立東【僕の父には名前が無い】

 こちらは既成脚本となっているけれど、この高校のために書き下ろされた新作(だと思う)。
 かつてリンチ事件で一人の少年を殺めた元少年Aは成長し父となり、一人の子の父となっていた。Aの息子は、Aの息子であるという事実に苦しみながら、何度目かの転校を経験する。

「格」という言葉を使っていいのか分からないし適切とは思えないけど、でも格が違うなあと思った。広い観客の批評に耐えうる一つの作品であり、これが高校生の身体を使って演じられる意図と意味も感じられて、そして俳優も書かれた脚本の強度に拮抗する強さを持っていた。

 現時点で見た中で、唯一「舞台美術」が仕事をしているようにも思えた。幕が開くと乱雑に置かれた大量の事務的パイプ椅子(事務椅子であることが重要)は、ただの場面設定のためだけに置かれた説明のための道具ではなくて、それを置く事で俳優の身体に影響を与えることができる。
「演技するうえで邪魔なものを置く」という効果によって、「そこにいる事を困難にする」という効果を出している。舞台美術とは説明ではなくて、それもまた表現なのであって。「大量の椅子を乱雑において、動きにくい舞台空間にする」。
 俳優は椅子をかき分けながら移動したり、踊ったり、埋もれたりする。それは登場人物の現在の状況――座ることのできない椅子に居場所を奪われている――って感じとれて、なんか強くていい演出だなあとおもったりしましたよ。

 この演出に負けない一人一人の俳優の強さがまた何よりよかった。
 僕が注目したのは「被害者」として饒舌にその場に居、殺されたことで成長が止まってしまった役の人。「あ、こういう顔をしているんだ」「こういう笑い方をするんだ」という説得力を感じた。脚本の仕事に応えて、俳優の仕事をしている。
 元少年Aをやった俳優もよく、そして彼が高校生であることが面白味を深めているとも。子供のいる父で、劇中で恋愛をし、生きて、子供を受ける。17で人を殺して許されて、人を愛して作った子供が17歳になるという「元少年A」を、現実の17歳であるう身体で「大人びて」演じようとしている姿を→高校生という身体を狡猾に見せつけるのは、悪い仕事だなあ。悪い演出だなあ。でもそこがかっこいいとも思う。すごく悪い。それがいい。

 その「悪さ」に大人の手つきが、たしかに見え隠れする。大人が「させている」ように。審査する中でそのあたりが審査員の中で問題視された。……確かにそうかも。椅子の美術然り、脚本然り、演出然り。
 ただ、僕はそれの「させている」に対して、高校生の身体をもった俳優たちやスタッフが十分に張り合っている強さを感じたけどどうだろう。
 遠いところに彼らが連れ去られ、その遠いところで強く存在している。悪い大人の手に張り合うだけの、舞台上でのサバイブを感じたんだよなあ。脚本や演出の指定に、素直に従うだけではないような……いや本当一度見ただけだだから分かりませんけどね。

 でも単なる素直や、一生懸命さだけでは、この脚本に立ち向かえないだろうなとも思う。考えて舞台に立っている。考えざるを得ない。単純な答えは出せない。舞台は動きづらい椅子に囲まれている。でも彼らは考えて立ち、椅子をかき分け声を出した。

 それはその場に居合わせた現在の演劇部員たちだけの力ではないのかなと思ったのは、この高校が強豪校らしいと聞いたからだ。
 彼らの先輩もまた考えて立って、今日たった俳優たちは、その考えて立っていた先輩らの姿を見ていたから、この強度を得る事が出来たのではないかという……これは完全に想像。

 ただ人が集まっただけでは、こういうのってできないよなって思う。代替わりする演劇部、という縦の糸があるから、この現在があるのかな。受け継がれていく流れや、代替わりというのを味わうのも、高校演劇の楽しみなのかなあとも、ふと思ったりしました。

・・・・・・

 沢山また感想を書いてしまいました。書きすぎてしまったところはあるのかなー。彼ら彼女らが稽古し、掛けた時間に見合う分、よく見て審査していきたいし、また僕にできる事はこうして感想を一生懸命言葉にすることくらいだ。次も面白い劇に出会う事を期待したいものであるよ。

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