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ある日の高校演劇審査員日記 その5

11月16日

 今日は高校演劇の東京都大会、いわいる「中央大会」と呼ばれる「地区大会」の一つ上の段階の大会を見た。何で見に行ったかというと、僕はその地区大会では審査員をやらせてもらっていて、そこで選出した高校を見届けたいという動機もあった。
 見た7つの高校は次のとおり。
都立松が谷
都立国立
都立大泉桜
都立晴海総合
都立駒場
立川女子
都立東

 ……別に中央大会には、僕が担当した地区大会の審査員という立場も全く関係なくてですね……いや事前に言えば席を用意してもらえたっぽいけど、不精な物で招待メールに返信しておらず、普通に当日券を受付で求めて見たのだった。朝の回こそ余裕で入れたものの、午後になるとキャンセル待ちが発生するくらい盛況!

 11月16日の回は、合計14校の発表があった。東京芸術劇場の地下一階・イーストとウエスト、2つの劇場に分けて行われる。当然、2つ同時進行で上演されるので、半分の7校のみとなる。観客はどっちかしかみることができない。
 また、僕は地区大会の審査員やったと言っても、東京だと6ブロックの地区に分かれ、なおかつ日程もA・Bと別れており、僕がかかわったのはほんのわずかな部分だ。城東地区A日程。そこから2校中央大会に出場している。僕はただ選んだだけだけど、なんかこう、身内かのように肩を持ってしまっている。

 もらったパンフレットに、他の地区の結果とそこで審査した人の名前も記載されている。つまりここに送り込んだ審査員が誰なのかが分かる。僕の知り合いだと箱庭円舞曲の古川さんとか、ハチス企画の蜂巣さん、あとキュイの綾門くんとかもやってて、おっほー、と思ったりなんだり。

 そんなわけで7校分見たので、またご迷惑かもだけど、7校分の感想を……誰に頼まれたわけでもないですが……書くかなあ。いや、書きたい、書かせてくれって感じくらい、さすが地区大会を突破した劇団たちだ。そしてまとめて、連続して見る事で、本当に「現代」が浮かび上がってくる。
 たて続けに見る事で、「演劇」が、いやもっと広く、「芸術」は必要なんだな、と本当に痛感させられた。ここで上演されていたものは、まぎれもなく芸術で、文化で、この世界に必要なことを、あの舞台に立った人々はやっていた。ここに集った人は皆、この時代の、この地域の、この瞬間に必要とされている事をした、と思った。
 そのことを、一つ一つの高校の演目の感想を書くことで、なぜ必要か、なぜ芸術が大切かを、僕自身が上手く書けたらいいなあ。かけなかったら申し訳ない。

【2019年東京都高等学校演劇コンクール中央発表会】
1 都立松が谷『オレらの反旗』
 こちらは作のクレジットが松が谷高等学校演劇同好会、となっている、生徒と顧問の共同創作。立ち入り禁止の体育倉庫に立てこもる一人の生徒。そこにキャラの濃い人々が入ったり軟禁されたり窘めたり……という話。

 この「生徒が学校に立てこもる」モノの面白さってあると思うし、また立てこもり――学生によるバリケード封鎖っていうシチュエーションって、僕よりも二回り上の世代には、もう一つ別のニュアンスものる状況かもしれない。や、僕(30代)にはピンともこない、資料上の話なのだけれど。

 最初からちょっと話ずれるけど、宗田理の『ぼくらの七日間戦争』、これもたしか廃工場に生徒が立てこもる話だったけど、小説の最序盤で主人公の父親が息子が学校に立てこもったと聞いて、特別なショックを受けたという描写があったのを覚えていて。
 そのあたり、小学生のころ読んだときは全く意味不明なシーンだったけれど。
「学生が学校に立てこもる」と言う事に、特別なニュアンスがかつてあった事を、演じた今の高校生にはおそらく意識はされてなかっただろうなと思う。というのも、この劇の立てこもり、かなり緩いのだ。
 入ったり、出たりが、せいぜい「四つん這いで狭いところを出入りする」くらいの障害で出来てしまう。

 入ろうと思えば誰だって入れるし、出ようと思えばいつだって出られる。
 とりあえず人質をとってみたりするけれど、結構簡単に縄やさるぐつわは取れてしまったりして。閉じこもる理由も、よく考えたら具体的に提示されてなかったんじゃなかったか。
 その緩い籠城……そして籠城から出るように促す教師たちも、入ろうとすれば入れる空間に踏み破る事もなく、遠くからシンを食わない声をかけるにとどまる。そしてそこはそもそも「工事で壊されることが確定しているから、事故にならないように早く出てくるように」というもの。
 また教師だけではなく、やや戯画化した生徒会が、「みんなの迷惑になるから」程度の理由で退去を促す。
 要するに、誰も主人公とコミュニケーションする気も、本気でその場から引き離そうとするでもない。
 立てこもり場の奥の空間では、生徒が時々通る。こちらを一瞥するでもなく、無関係に、ただの通行人として。
 立てこもっている事すら、コミュニケーションと見なさない、まるで透明な、真空状態の場所に、元軽音部で、ロックと口にする女生徒は、ただ居る。
 迷い込んできた「何かと浮く」鈴木と、入り込んできて逃げ遅れたまじめな生徒会長の二人を人質にとるけれど。
 女生徒は、立てこもりに関して、特に要求することもない。
 いろいろモノローグや、攻撃的な事をいうけれど、要するに、ただいるのだ。そのただ居る真空状態の空間に、鈴木とウエスギの二人と、やっと話す。何かをはなす。重要かもしれない事、それは、本音かもしれない事を、本音めいて、声にする。

 そこまでしないと、「キャラクターが本音っぽい事をしゃべっている」ことを、言わせられないのかもしれないな、と思ったりした。またここまで来るのに、無数の脱線したギャグが無数に散らばせながら。
 その笑いたち一つ一つがのびのびとして自由で、この世界に入り込みたくなるような楽しい空間になっている。でもキャラクター達はうまくいっていない。誰しも、つらくせつなくさびしく怖い。形にならない上手くいかなさを漂わせながら、瞬間瞬間、人を、僕らを、笑わせるための面白い事をする。

 最後登場人物は、結局立てこもり続ける。施設の工事が進められる。崩壊する「本音めいたことを言える場所」。そこで登場人物たちは叫び声をあげながら、セットを破壊する。
 ただ僕はその破壊が、破壊をしようとしている演技が、すごく切ないんじゃないかなあと思った。これはネガティブな方向で。
 というのも、劇場や、大道具を壊さないよう、自身や観客に怪我をさせないよう、最大限注意をはらって、破壊の演技をし、暴れまわるという「演技」をしていたから。練習通り、主人公の女生徒は、「柔らかなクッション性の素材」を振り回し、叩きつけて、破壊の演技をする。
 そんな切ない破壊はあるだろうか、と思った。
 大会を台無しにしないよう、劇を台無しにしないよう、常識の範囲内で、暴れまわらなければならない。借りている劇場を傷つけないように、借りている小道具を壊さないようにして、注意して絶叫しながら、破壊の「演技」をする。
 と、こういう感想を観客が持つことはおそらく狙いではないだろうけれど。ただ、彼らにそうさせている、この時代を覆っている抗いようのない空気が見えて、すごくつらいなあとおもった。
 そしてその空気を作る側に、おそらく僕も加担している。いつの間にか加担せざるを得なくさせられている――というのが、劇の主題とも相まって、ある種メタ的にもそう見てしまった。

 この高校が評価されたのはその部分ではなく、魅力的にのびのびと描かれる登場人物たちや、軽妙な掛け合いの部分が白眉で、でもそれらのセンスの良さ、面白さは、彼らを破壊に至りきれない空気によってもはぐくまれていると思った。
 ロックにはなれない。ロックを流しても、ロックになりない。破壊できない。大会のルールからは絶対に逸脱できない世界の中、フィクションの中ですら破壊が許されない中、立てこもろうにも出入りが出来てしまって、そうした世界の中で他人を笑わせる術に長けていて、他人を笑顔にさせている。

 そんな世界に、いま生きざるを得ないんだなあと考えさせられたりしたんだよなあ……。

 俳優でいうと、一人妙に存在感のある女生徒がいた。本編に深くは関わらないけれど、何故か印象的な声と佇まいしていて。なんか見ちゃう。本編でいろんなことが起きつつも、関係なく爪痕をのこすこともあるんだろうな

2 都立国立『六畳間の花火』
 こちらは生徒創作。そして冒頭2分、すごく引き込まれた。
 なにか始まったぞという緊張感。無駄をそぎ落とした会話と、日常の動きを模したマイムがダンスのように展開し、男女二人が日常を送る。そして部屋をでると……ってなところで、実は劇中劇だったという構造で、「こむつかしい、言葉のセンスとテンポ、キレで詩的跳躍のある演目を作ろうとしている演劇部」という、全体的にはそういう話。

 本当、冒頭の2分、これが10代の作り手が作ったのかというくらい緻密なものが出てきてびっくりしたのだったよ。

 劇中の登場人物が言う通り、劇中劇を作った「安藤」の作品ははっきりいってわかりずらい。それを演じるにあたって俳優らは疑問を出したり、話し合いをもち、やがて作品は「わかりやすいもの」「みんながエモく思える物」にシフトしていく……という、や、これって作家の体験したことだったりするのではないか?
 ただ劇中の劇作家は、喜々としてその変更を受け入れていく……のだけど不気味な事にその背後で、謎のモニュメントに斧を入れていく人間ではないものと、そのモニュメントの周りで一言も発さず舞っている女がいる……という、一筋縄ではいかない舞台の使い方をしていて。これはなかなかただモノではない

 だが話は……乱暴にまとめると「学校のある国立(くにたち)にマックが出来たから劇作家のセンスがだめになった」みたいな感じになる……劇作家がマックを食べるとですね、センスが無くなっていくんですよ。
 つまり「世俗」を体内に入れるとセンスが無くなっていく、というこんなダイレクトな比喩! これはなんか、こんなに分からないテキスト書くのに、なんてピュアなんだ!

 だが後半、冒頭で作った作家のそもそも作りたかった世界に、センスを無くしかけた作家が迷い込み、男女が去った部屋に閉じ込められる。そこで斧の女からひたすら問われる。このセリフの意図とは。この劇の真意とは。劇の中に閉じ込められた作家は、その問いに答える事も抗う事も出来ず、立ち尽くす。
 作家の、今現在を、本当にダイレクトに、これほどまで正直に作ることができるのかーと本当感心した。そしてその世界に加担する俳優たちも見事だ。見事に加担して、さらに正直な所「わからない」とも思っている。
 でも、できる。わからないけど、世界を構成している。
 特に女優役。本当に分からないんだろうけど、でも異様に上手い。できてる。そして手のひらを反すように、俗なパートでも生き生きと振る舞える。うまいなあと思ったよ。俳優たち。そして正直だなあとも。正直を、そのまま出せる見事さがあった。

 チェーホフの『かもめ』で老作家のトリゴーニンが文庫本にして約1ページ半くらいの長ゼリフで、要するに「作家はつらいよ」トークをする。それ、お前(チェーホフ)だろってくらい正直な事書いてるなあと思ったけど、なんかその長いセリフよりよっぽどこっちの方が作家の正直が出てるなあと思ったなあ

 ただおそらく作家はテキストと、身体への強い興味とまなざしはあるんだろうけど、舞台への美みたいなところは関心が無いのかもなあと思ったのは、衣装に「上履き」というチョイスをしたこと。学年で色を合わせなければならないと思い込んでいたけれど、上履きってね、上履きほど、学生のパーソナルが色濃く残ってしまう衣装だから、「学年カラーを設定に合わせるため」だけに、俳優本人のものではない他人(たぶん劇部内で色を合わせて交換してたんだとおもうけど)の上履きを履かせてはいけないんじゃないか。
 そもそも、服装自由の高校っぽい設定で、外に出歩くシーンもあるから衣装として上履きを選択するのはまずかったんじゃないかなあと思った。ビジュアルに関心のなさは、背後のモニュメントの下に置かれた小道具もそうで、あれでは小道具置き場になってしまう。
 演技の都合で、次に使う紙を置いてしまってはいけないんじゃないかな。
 ただその小道具で使った紙束が……またよかったんだよ。どれもこれもシワシワで、おそらく、ずっと稽古で使って、ばら撒いては使える物は再利用してたんじゃないかなあ。稽古の時間を感じるような小道具だったように感じたなあ。「難しい演劇」をやる自覚のある作家が、どうしても経ねばならない戦いと、それを取り巻く世界の表現が、正直すぎるほど正直に描かれているのがよかったなあ。ただ冒頭の二分の劇の続きを、劇中劇として解説なくやり切れる日を、僕は心待ちにしてしまうのでした。

3 都立大泉桜『ブラウン』
 こちら生徒創作。7校見て最も印象に残り、興味深かった作品だった。あらすじは極めて明快で、演劇部に黒人の”ブラウン君”を勧誘しようとするが……という、ラブコメディ。ラブコメだ。断固ラブコメだった。

 や、センスよ。超センスよ。一部も隙もなく隙だらけなのにどこもかしこもセンスよ。センスに寄りすぎてやや身体が足りない個所もあったけど、それを補って有り余る異常なほどかっこいい笑いのセンス。笑いを笑いだけにしないのに、やっぱり笑いにするセンス。すっごい面白いぞ、この高校!

「黒人のブラウンって呼んでる生徒を野球部から演劇部に勧誘したい、なぜなら黒人が高校演劇に出たらおもろしいから」と思っている暴走気味の女生徒を、遠くで見守っている、全身から闇が出てる女生徒がエロい目で見ているという最初の構造からして、これどうですか? センスじゃないですか。
 そして「黒人」というワードを無自覚には使っていなくて、そういう目で人を見るのは「差別だ」と感じる部員がいて、説教をする。でもその説教、常識側の正論のはずなのに、明らかに一番差別しているのはそいつだ、と言う事になる。
 笑っているこっちは、これは差別なのかそうでないのか、や、差別問題だーという意識すらなく、ただただ笑える。黒人のブラウン君が最後まで舞台上には出てこないからか。伝聞だけで身体を伴わない登場人物に観客も振り回される。笑える。差別が遠いからか? 

 それを重くしないのが、登場人物の異様な軽さと明瞭さ……と表面上はね。表面上は皆軽くて単純で分かりやすい。でも不意に

「そういう事しちゃいけないってお母さんに言われなかったのか?」
「あたしお母さんいないからわかんないもん」
「……そうか。でもまあー」(正確な文字起こしではないです)

 みたいな、不意にキャラクターの軽さの中に僅かに差し込まれた闇のせいで、そのキャラクターの一つ一つの行動や衝動に、凄みというレイヤーがある事に気づかされたり。先ほど引用したやり取りは、大人として教師が黒人を勧誘する女生徒をたしなめるシーンなんだけれど、「でもまあー」で、スパッと人格をさらっと殺している。それこそが実はもっとも根本的な差別なんだよなあと言う事を、全く説教にならず、センスで観客を刺す。「でもまあー」で、人は人を無かったことにするんだよなあ。

 本当セリフもすげえセンスいい。脚本欲しかったなあ。
「先輩、めっちゃエロいパンティー……パンティーはいてたんですよ?/興奮っていうか、興奮じゃないな……見下したんです」(メモよりの起こし。正確な文字起こしじゃないです)
 性的興奮じゃなくて、見下してたっていう、ねえこれどうです?

 このセリフを言うキャラクターが、常に遠くからこの顛末を語っていて、その演じる俳優がまあ、いい。よさ。立ってるだけで世のゆがみが目に入る目の闇がまあーよい。
 そんな彼女が最終的に「つまらない事言っていいですか。忘れないでほしいんですけど、愛してるんで」みたいなことを言う。その黒人を勧誘する女生徒へ……まさにラブコメだ。こんなラブはない。
 人を「面白い」と見る。「黒人」として見る。「エロい」として見る。「後輩/先輩」として見る。「たかが生徒」として見る。それらの「見る」から、一歩逸脱して、「つまらない事」=「愛する事」に至るって、これ、センスだと思うなあ。どうです……? 

 そんなわけで、今回一番見て面白かったなあ。難を言えば会場の使い方、演劇としての空間の使い方がうまくいってないけどそんなのは3年くらい演劇やってればどうにでもなる奴。もうちょっと狭い会場か、あるいは四方から囲まれている空間だったらよかったのかもなあ。声もちょっと小さめなのがね。本当この人達が何かまたやるってんであれば、普通に見に行きたいものだよ。
 やー面白かった。俳優は全員よかったけど、やっぱ特に闇のやばい女生徒が特によかったなあ。あとお局様的な先輩の発話の仕方が本当よかった。工夫してたなあ。センス+工夫は破壊力ですよ。

4 都立晴海『Rains』

 これは生徒創作。小説家志望の女生徒が、自身の書くことに没頭するにつれ、水没した街を幻視してしまう。周囲の人々はそんな彼女に翻弄されるが……というストーリー。

 これ生徒創作となっているけど「演劇をわかって」作られている感じがする。信用できない語り手に世界情景をモノローグさせて、舞台を「現実なのか/彼女の言う通り町は水没しているのか」の、曖昧な二択を観客に選択させる。
 どちらを選ばなくても、舞台は進行する。その自由を逆手にとって遊ぶ。

 転換も小気味よく、というかね、何より驚かされるのが、俳優の基礎的な能力の高さ……基礎的ってうっかりいっちゃうけど。例えば声。第一声で、それほど大きくは聴こえない声が、はっきりと観客席後方まで無理なく伝えられている。それをごく当たり前かのようにやってるわけです。

 そしてやりとりの自然さ。俳優が演じている、という匂いの一切ない、そこに「人間」がいる。作られたはずの人間が、作られた匂いを一切なくて、絶対にそこにいるっていう、僕が見た7つの高校でも突出して基礎的な、存在への能力がスバ抜けて高かったんじゃないかな。
 そして緻密な演技の構成もさることながら、「高校生が話している事」「高校生が問題にしている事」を、スッと、よどみなく提示している。そのよどみの無さで、若干特定の登場人物を「悪」に引き受けさせていたのが気になったけど、それもキチンと回収している。
 コミュニケーションの「人に合わせる/合わせられない」問題、そして「変/変を受け入れる/歩み寄れよ」問題。それらが本当に分かりやすく目の前にストーリーと共に提示してくれて、そうか、これが彼女たちの生きづらさの一旦なんだな、ということが明瞭に……明瞭過ぎるほど? わかる。

 何から何まで明瞭で、とてもプロい匂いを感じた。現在のいきづらさ、息苦しさを、エンターテインメントとして綺麗に因数分解している。ただ僕のような人間にとっては、そのきれいに割り切りすぎて、余るものが無いように見えてしまったりして。これは受け取り手の好みの問題だとは思うけれど。そしてここまでプロい匂いがすると、足りない部分がどうしても目立つ。何が足りないかというと、演劇的な、装置的な仕掛けだ。舞台美術、あるいはビジュアルで見せられる何か。衣装かもしれないし、彼らの演技水準に至っていない舞台装置の貧弱さがどうしても気になる。
 舞台装置。シンプル、ではなくて、「予算/労力/事情のせいでここまでが限界」だったように思えたのだった。というか、いや、無理を承知で……水、使いたかったんじゃないかなあ。せめて、髪をぬらしたりとか。水が無理でも、水に代わる何か一つ装置的な工夫が見たかった。

 劇中後半、主人公が幻視していた水を、主人公の親友も目にして「こんなところにまで水が……」(正確な文字起こしではないです)と呟くところがある。そこは、そこまできたら観客も一緒に水の、せめて気配は見たいとは思うんだよなあ……。照明で代替え可能か、でも具体的なモノがいいと思う。

 というのも、どうしても分かりやすく、状況を明瞭な言葉ですべて説明しつくしてしまっていて。そのセリフがねられているから説明臭くはないけれど、でも言葉と声、だけで構成してしまっている。伝わりはする。でもそれは「伝達」になってしまうところが、特に後半多い。 
 要素とセリフで説得しようとしすぎてしまっている印象があったのだった。ラストほどそうかもしれない。小説を書くことで(ある要因を引き出されて)狂っている主人公が、言葉で自身の狂いを説明するのは、惜しい。

 とはいえ、大会随一のプロい感じをを受けたなあ。なんでこんなに、上手いんだろう。うまくできるんだろう。一人だけではなく、全員が上手い。そんなことってできるんだろうか。脚本、演技のプロい感じは、逆に言えば、どんな人でも訓練法次第で、ここまではできるのか?

5 都立駒場『てくてくかけてく』

 こちら生徒創作。セットをきちんと立て込んでいた。ちゃんと床にパンチを張って、装置を置き、いろんなことを企んでやっていた。まずそこが素晴らしい。
 元「地学室」(?)だった教室の隙間に、ひゅるりと入り込んできたワケアリの生徒たち。一人の生徒がそこで「遺書」――自殺予告を発見してしまう、という話。

 申し訳ないがここからペンを無くしてしまってメモが出来てなくてうろ覚えですみません。詳しく指摘できないのだけど、とにかく舞台の機構で遊びつくし、だからといって演技がないがしろってわけじゃなくて。ハッとさせられる高校も多かったんじゃないかなあ。
 たとえばチェロなあ。生楽器演奏ってもうそれでやられてしまうよ。完全に心を奪われてしまうよ。また高速でセリフがやり取りされる中、一人を残して全員が自殺してしまう(かのようなシーン)がある。一瞬の暗転のち、明るくなるとあちこちにぶっ倒れている生徒たちの図。その美しさったらない。
 話の中心が、「死ぬ/死なぬ」の議論のシーンになる。そこに、ここまで演劇的な技を豊富に持っている作り手が、そこにこだわってしまうあたり、本当に正直な所に高校生にとって「コンプレックス」が「死」と密接なんだろうなあと感じる。これほどの展開力と技をもってなお、いや、だからこそなのか。

 話は若干ずれるけど、オードリーの若林さんのエッセイ『ナナメの夕暮れ』の中で、「人見知り」という事が出来るのは、社会のゲスト側にいる「若者」だけで、ホスト側にいるおじさんになると人見知りが出来なくなる、という話があり。
 この劇の中心にあるのは、「社会のゲスト側」の声なのかもと。

 ゲストは死ぬが、ホスト側は死なさない様にする。
 死なさない側にきてしまいつつある僕がこの劇を見る時の、よるべなさ、そして、そうか、その理屈で、その理由で、皆さんは窓際の机の上へ――死の淵に立ってしまえるんだなあ、とふと思ってしまう。
 そんなに動けるのに、そんなに笑えるのに、怒れるのに、チェロだってひかれるのに、ミラーボールの周囲をぐるぐるできるのに、何だってみんな死の方に引き寄せられるんだろう。そんなさなか登場人物の一人が一人一人の回想に介入して、一人一人の命を抱きしめていく。
 その命を抱きしめる事すら、おじさんになってしまった僕には、もうできない仕事なのかもしれない。過去の回想まで踏み込んで、その身体に触れることもなく。
 今の僕にできる事は「死なせないよう、へらへら笑いながら見つめる」ことなのかなあ、と思ったりした。

 いやもっとかけることがありそうだけれど、本当メモ取る事が出来ず簡素な感想で申し訳ない。本当突出して演劇を最大限やってたのはこの日この高校が一番だった。その衣装や、何かにこだわっている装置一つ一つに、僕には感知不可能なこだわりを感じる。シンの強い劇と思いましたよよよ。

6 立川女子『乙女のシコ×2』

 これ、会場にいた綾門くんに勧められて見たけど、勧められてよかった。何重にもレイヤーがあって、たくらみがあって、さらには本人たちの、圧倒的な力で観客を最初からねじ伏せようとしてくる、ストロングな演目だった。

 タイトルがどうかしてるけど、「女子相撲」の話。とはいえそう簡単に題材にしているのではなく、ガールズスカウト? 女子地域活動サークル? の団員たちが町おこしの一環で女子相撲をするという設定。そのサークルも21歳の就活間際の女性が地域の高校生と立ち上げたものという……一筋縄ではいかない。

 劇中「女子相撲の起源はヘンタイのためのエロ」という解説を登場人物が口にする。彼女ら自身が「見られる身体」「エロを社会で引き受けさせられている」ことに、さらっと触れる。そんなことはもう織り込み済みだ、と。女子高の演劇部は「見られ」に関して絶望は前提としてありますよという。
 そこからスタートしているから、とにかく強い。
 観客席にいる誰よりも、舞台上に居る一人一人が圧倒的に強い。面白がれ、私たち面白いだろ! という気炎がすごい。それに見合った、たしかな実力がある。
 過剰にもみえる一人の登場人物が、きちんと学校では浮いていて、弱いという事。劇のためにただ盛り上げるための装置としてそう演技してるわけじゃなくて。そこにしっかりとしたバックボーンがあって。
 登場人物一人一人、「町おこしのため女子相撲をキャイキャイやる」という浮いたレイヤーの下には、マグマのような地獄の人生が当然、前提としてありますよっていうね。

 これを、生徒+顧問の劇団創作として作っているわけですよ。強い。表面上でも、女子たちが相撲をやるっていう面白から、それを取りまとめる21歳の大学デビューの元陰キャライン細い女子臭半端ない就活生が生々しく「はぁ、女子でよかった」などと口走らせて、そしてそいつ、相撲で勝つんだよ。

 女子高だからこそ、の怨念を「女子相撲」というテーマにひっかけて、現在の女性として/女子として生きる困難さを滾らせながら、それでもなお、首根っこつかんで「笑え」ってな、力技で会場を沸かす。
 大きな声、過剰な演技、テンポ。全部嫌味が無い。なぜなら強いから。つよいから、笑うしかない。
 本当……どうやって作ってるんだろうって、一番話を聞いてみたい劇団がここでした。一人一人の俳優がディスカッションをして、一人一人表現者でもあり論客なんじゃないかなあという予想。どうこの劇に取り組んでいるんだろう。本当、聞いてみたい。

 感情がとくに動かされたのは、後半のセリフ。……あー、ペンに無くしてメモ取れなかったんだよな。たしか「ブスとか屑とか言われてからが戦いだ」みたいなセリフ……いやもっとピリッとしてたな……そこで大号泣しながら舞台を見てしまった。一番弱くてバカに見える女子が、戦うんだよ。立ち上がるんよ
 まんまと、してやられたよなあ。ゲラゲラ笑わせられて、まんまと泣かされるんだからなあ。圧倒的に舞台に居る人の方が強い、それをたっぷり堪能した。面白かったなあ。味わったなあ……。

7 都立東『僕の父には名前が無い』

 本日のトリ。そして僕が審査に関わり、中央大会に送り込んだ高校です。ほんとう、審査員すると、別に僕は何にもしていないのに、がんばれーまけるなーと肩入れしてしまうなあ。

 そして中央大会に推薦して本当によかったなと思えるくらい、今日見た7校のうち随一の「外に向かう力」を感じられた作品だった。劇を見た後、劇場を出て街の見え方が一番違って見えるのがここだと思う。消費されない物語と題材の強さがあると思うのですよ。

 で、2回目に見た感想ですけれども、ネガティブな事から言うと、地区大会と比べて劇場が味方になってない印象を受けたりして。これは芸劇の機構を味方につけられなかった、テクニカルな問題があったなあとおもったり。 
 例えば地区大会では観客席の間を通る演出があって、これが高い効果を生んでいたのですよ。特にラストシーン。二組が、観客席の二本の通路を使って人々の中に去っていく。死んでしまった永遠の17歳は笑顔のまま見送るが、それがふと真顔になる――というラストが、芸劇ではできなかった。
 観客席の通路をアクティングエリアとして使ってはいけない、というルールでも課せられてしまったのだろうか。それは劇場のルールでは絶対にない。芸劇にはそんなルールはなかったはずだ。
 とすればそれは大会のルールなのか。ラストシーンや途中のシーンは、絶対に元の演出の方が効果は高かった。というのも、「凶悪殺人犯元少年A」も、「少年Aが生んだ子供」も、観客席の中――つまり人々の中にすでに居る、という事。それが、劇場の舞台側の出口を使ってハケてしまっては、「キャラ」として退場することになってしまう。
 最後、「殺された17歳」が舞台にとどまってしまう意味が薄れてしまう。これについて、トコトン大会運営チームと交渉するべきだったんじゃないかなあ。舞台と客席に段差がきついけど、ハコウマを階段として置けば解決する問題じゃないのか。客席通路を使えない理由が安全性だったのかな? 前例がないから? 他に許可してなかったからかな?

 劇場は、劇に特化した、いわば要塞で、味方につければこれほど頼れるものはない。けど、都立東はこの要塞を、おっかなびっくり使ってしまった感じがある。美術にしても、椅子が大量にあるインパクト、後もう少し量が無いと薄いんじゃないか。
 積み方も、構造上客席は地区大会とは異なり低い位置にある。見え方として前列からはみあげる式になり、後方になればなるほどフラットになる。となると、椅子は上方向にも積まれるべきだったのではないか。ローホリゾントライトギリギリのところは、例えば立体的に積んで固定するとか。
 ……また、地区大会と最も異なるのは、照明がいろんなことができる事。ただその照明のプラン、ベターではあったかもだけど、ベストではなかった気もする。もっといえば「見えずらい照明」「後方の椅子まみれをより見づらくする照明」という方向も検討してもよかったんじゃないかなあ。前方の幕前のスペースが余裕ある分、椅子まみれの効果が薄くなってしまうのが痛く。会場によってよりよい演出、もっとできること、ここでしかできないことを考えてもよかったのかもなあ……と、つい力が入ってしまったなあ。

 や、しかし改めて演技はよかったなあ。声もよくて、適切だった。気負いがややあったかもだけど、後半になると落ち着いてきたし。改めて「元少年A」役の俳優はすごいよ。だって見たことないでしょう。元殺人犯の父親なんて。
 この世に居るかもしれないここには居ない人を、説得力をもって出現させた。そうやって観客に、見たことない、見ようともしなかった、想像だにしなかったものを突き付けられた演技には、あらためてかっこいいなあーと思ったよ。
 殺されちゃった永遠の17歳もそう。そうやって笑って死んだんだろうなって。殺された17歳をこの世に出現するっていう。死者を出現させる力の強さ。
 そして地区大会では注目して無かったけど、スガワラという女性役の俳優の良さに改めて気づかされた。元少年Aで現在会社員の男性に、すっと懐に入り、恋愛するっていう。冷静に考え相当難しい役を説得力持って演じられていた。この演技力は強いよ。

 やー……どうでしたか。われらが城東地区A日程の推薦枠は。
 うちの地区には、あの突出した強い力を持った関東第一や、異常な個性を発揮した都立深川といったすごい高校もあったんですよ。それをあれして、都立東を選んで、ねえ……どうでしたか。や、僕が偉そうに言う事ではありませんが……。
 そんなわけで、都立東、中央大会突破してくれたらなんだか僕もうれしいなあ。よき結果を祈るー……祈ってます。

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