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演劇以前の演劇の話 【第1回】「移動」

 劇団主宰者が演劇をする以前にやっておかなくてはならない事は、よく考えたら沢山あった。沢山すぎて、何から書いたらいいかわからないくらいだ。

 沢山すぎるものといえば、ご飯だ。ほっかほっかのご飯。ほっかほっかのご飯は、無数の炊いたお米で構成されている。遠目から見たら、それは一つのほっかほっかご飯に違いない。だが一つ一つ眺めたらそれはもりだくさんの――。
 この例え話は違う気がしてきた。 ……なんかこう、「遠目から見たほっかほっかご飯」の事を「演劇」と言いそうになっていたが、ほっかほっかご飯は別に、お米のひと粒ひと粒が、何もない空間を横切ったり、もうひと粒のお米がそれを見つめたり、するわけないしなあ……。

 人類が演劇やほっかほっかご飯にたどり着く前に、やらなくてはいけない事があって、そしてほっかほっかご飯の事を話題にするのもいい加減にしろと思うけれど、ふと思ったのは、「移動」だ。
 人は、移動しなければ、ご飯にありつけることも出来なければ、演劇にも至ることはできないのではないか。

 演劇をするために、最近私は移動を繰り返してばかりいる。劇場を下見したり、打ち合わせをしたり、スケジュールを確認するためにカレンダー前に移動し、それを伝えるために受話器のある電話台に移動して、ダイヤルを回し、受話器を手に取り、担当者に応答する、応答して、また確認しなくてはならない事もあり、勝手口に移動すると猫がニャー、ワー! おさかなくわえて、財布を忘れて、街へ飛び出す。ニャー!
 そんな感じで、演劇以前の「移動」はおびただしい。
 おびただしかった。そのはずだった。
 だが、本当にそうか? 本当に今、人は、私は、俺は、サザエさんは、最近「移動」しているのか?

 スマホがある。
 スマホはすごい。なぜなら、この四角い物体を触ったり、こすったりすると、若干のタイムラグや運の要素が絡むが、「劇場の仮押さえ」「スタッフへの作業依頼」「チラシの裏面情報の確定」といった様々なことが、移動無しで出来る。
 まして、今東京では疫病が蔓延している。人との接触は控えなければならず、本来ならば企画書を携えての対面での作業依頼も、ラインやZOOMで終わらせてしまうことになってしまう。
 演劇以前、必須と思われていた「移動」が、激減している。今は演劇史において、もっとも「移動」をしないで人は演劇に携われてしまうのではないだろうか。

 それでも、「移動」をせざるをえない事の一つとして、「劇場下見」があった。
 旧知の劇場ならいざ知らず、初めてその会場で演劇を企てるとき、事前に一度も演劇が行われる場所に訪れないで作劇しようとする劇団主宰者って、いるのだろうか……? いや、そんな主宰者、いるはずがない。

(――と思ったが、いや……。大きな商業演劇の企画で、地方都市公演の巡演をするような場合は、劇団主宰者の会場下見のための「移動」は、多分やらない。が、こういう……地方公演を企てておきながら会場下見する必要もない公演に携わるような奴は、きっと成金でいやな演劇主宰者に間違いないので、こういう存在は無視して話を先に進ませてください。)

 なんで俺、この間は、わざわざ不要不急の移動をしてまで、会場に足を運んだのだろうか。俺は何が見たかったんだろう。
会場は、ネットに上がっている写真と同じつくりで、もらった資料は全部ネットでダウンロードできて、劇場管理者も電話口と同じ、優しい声だった。
 ただそこに、私はいた。「半年後、ここで演劇するんだろうなあ」と思い、ただ居て、ただ見た。
 今の時代、移動しないで情報を得る方が労力が少なくていいはずだ。移動は、金と時間と労力がとんでもなく吸われる。
 それでも、移動してしまった。ただ居て、ただ何もない空間を見るために。情報になっていないものを知るために、移動したのだった。

 今後もそうだ。まもなく私の劇団では稽古が始まる。稽古場に、移動しなくてはならない。たとえ自宅に稽古場があるような恵まれた成金野郎であっても、演劇をするためには、稽古をするための特別な空間に移動しなくてはならない。

 這ってでも。

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「移動のコストを、もう少し考えてみてはいかがでしょう。たとえばあなたは1日に5000歩移動しています。この5000歩を、半分の2500歩にしたら、移動のための摂取カロリーも抑えられ、食費も半分になり、なにより余剰時間も大幅に生み出すことができます。移動に使うための足も、二本あるところを、一本カットすれば、全体的に体重を減らすことができ、ダイエットにもなります。
 こうしたムダ、コストカットは、幸せな未来のために必要です。ぜひ、足を切り、移動を半分にし、ゆくゆくは移動ゼロを目指してみてはいかがでしょうか? 移動なんて、這えばいいんですよ、這えば。」

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 稽古場への移動は、主に自転車だ。電車は、お金がかかるというのもあるが、帰り道で俳優と一緒に帰るハメになる可能性もある。
 もし、稽古がうまくいっており、公演に何の問題もなければこの瞬間は楽しいし、至福の時間になるだろう。
 だが、稽古がうまくいかない時の、この移動時間ほどつらいものはない。
そして、大概、稽古場でうまくいく事なんてない。
 考えなければいけない事、不安な事、わーってなることを、俳優の目の前だ、キリっとしなくては、と思うし、や、キリっとしなくたって別にいいけど、そうなると、移動がだいぶ怪しい。道が、ぐんにゃりする。溝があれば、多分ハマる。
 うまくいかなさ、生身の人間とやりあわなければいけない時の疲労、集中、人間を目の前にして自分も人間にならねばならぬ美意識を稽古場で遣って費やして。帰宅するときには、その美意識も無残に崩壊し、頭がおかしくなり、ほっかほっかご飯が泥の味になるのが、演劇の稽古場の帰り道だ。

 そんな時、移動ってありがたいなと思う。
 稽古場からの帰り道。それが「移動」であることで、泥の味ご飯状態の味覚から回復する……気がする。体が動く。風景が変わる。居場所が変わる。先ほどとは、違う所に、肉体を伴って、そこにあれる。
 移動は、人を人たらしめる行為なのかもしれない。

 移動は演劇そのものではない。だけど、人を人たらしめる「移動」がなかったら、私たちは演劇をできていたかどうか。
 スマホが発達し、スマート脊椎となり、神経回線を使った情動や情報の共有、心の動きすら身体を伴わず受信可能になり、コストカットで足をちょん切るような時代が来た時にも、もし演劇があるとするならば。それは、残った片足を引きずり、這って、どこかに行き、そして、そこ、その場所でこそ、演劇が始まるのではなかろうか。
 そしてそこから帰るという「移動」も含めて、演劇なのではないだろうか。

 自転車で稽古場に行くのは、一人で帰るためだ。人と話してキリッとしなくてもいいように。なるべく話しかけられないように。そうすれば溝にはハマらない。それでもなんか寂しくて、俳優と話して帰りたいときは、自転車がこわれたフリをして歩けばいい。

 僕はそうやって、演劇以前の演劇として、移動をしている。

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