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ある日の高校演劇審査員日記・2022年秋その③

 前回、前々回引き続き、高校演劇の審査員をやって、見た高校の感想をかきまーす。前回の記事はこちら。

9/25 ① 都立紅葉川『野田秀樹のせいじゃない』

 日にち変わって、二日目。紅葉川高校の作品は、OB創作による新作劇である。

 オッというタイトル。これは劇中でも説明があるけれど、この高校演劇部でおきた(であろう)事を元ネタに作られた怪作!

 前年の高校演劇の大会が、劇作家の「野田秀樹」……東京芸術劇場の芸術監督の都合のせいで選出されなかったと思い込んだ紅葉川高校の演劇部員たち。OBの描いた脚本は意欲作であり、また部員たちも作品を信じ、そして審査員の選評もまた絶賛の嵐で、誰しもが次の大会へ行けると信じていたが落選し、二年生たちはやり場のない気持ちを処理できずにいた……、みたいなお話。

 面白ポイントとして、まずは何より、「とにかく自分たちの話をエンタメにしよう」と、昨年の自分たちの高校演劇の結果をネタにしているところ。いわいる「演劇部題材の演劇」という枠をさらに踏み越えた、「自分たちの、細かいところの話」が、これが面白い。

 あれですね、OBが劇を創作しているところであったり、実際に受けた選評であったりを存分に素材にし、ある種の自虐ネタ化し、そしてそのまま、自分たちの悩みへと昇華させていたところが、まあ面白くて。
 ここまでさらけ出すのかい、っていう痛快さと、何より「審査員批判」の数々は、客席の他の演劇部員や顧問の先生、そして我ら審査員をも巻き込む「でかい内輪笑い」を発生させていたなあ。
 特に脚本に描かれている「審査員批判」の部分は面白く、劇中の言葉でいえば「講評詐欺」――高校生たちを気遣って上演の良いところをホメる定番の言葉を使い、それだけ褒めといて、落とすっていうね。あるあるだよなあ。
「心配すべきなのは、私たちの精神状態です。」というセリフは、笑ったなあ。そこなんだ。褒められても、けなされても嫌だ、という二年生たちに、冷静な1年生がぴしゃりとたしなめるセリフなんだけどもね。そこに集約するんだなあと思って、その言い方、演じられ方もあいまって、笑ったなあ。

 その後、大会を進出できなかったのはだれのせいなのか、という方向で彼らの思索が始まる。
 野田秀樹のせいなのか、審査員のせいなのか、OBが脚本を通じて洗脳しているからか、それとも、自分たちが少し、さぼってしまったから、実力がないからか……。

 っていう方向に、どんどんと、さらに「内側」に入っていく。

 そのあたりが、よくなかったのでないか。
 結局は内省の話、自分たちの内部での逡巡になっていってしまったのが。

 登場人物が、2年生役が3人、1年生役が6人出ていたわけだけど、話の中心が「去年、進出を逃した3人」の話であり、しかしその3人が、僕には「人格を3つにわけた存在」のように見えた。
 キャラとしては3つに話や設定を振っているけど、結局は一人の人間の悩み、逡巡なのではないか。
 表面上、3人が対立に見えるシーンもあるが、決定的な立場の違いはないように見える。三人が同じように傷ついて、同じように悩み、逡巡している。
 そして、演技スタイルも、基本的に正面に(観客席に)言葉を投げかけるスタイルで会話のシーンも進行していく。

 僕には、それが、「演説」に見えた。
 や、演説なスタイルも一つの手段だし、それを選択すること自体は別に悪いとはいわない。一人芝居でしばしば選択されるスタイルだし。すなわち、観客を登場人物に見立て、観客と拮抗し、緊張感を持たせるような戦い方。

 ただ、そもそもが「巨大な内輪笑い」で序盤がスタートしているわけだから、はたして観客席に向けて語り掛けるスタイルは、劇的緊張を生むだろうか。あまりに安易に、観客席に言葉を投げる演じ方を、選択していなかったか?

 これだけの登場人物を使いながら、他者がいない。
 自分の自己反省、自己内省に入り込み、そして、自分の力だけで、くじけたとこを自己再生してしまっているような。そんな印象を受けてしまう。

 構成上、過去の事をしらない一年生たちが二年生たちを見つめ、「呪い」と評して、そこからの解放を促すことで物語は解決していくけど、それにしては、その呪いを解く1年生たちのドラマが描かれていないから、そう見えてしまう。
 作者の念を、2年生たちに仮託していくうちに、そこだけを膨らましてしまい、隘路に入ってしまった感じがした。

 内省に帰結してしまうのであれば、せっかくの序盤で振った「審査員批判」……つまり「見えない評価軸によって自分たちの運命が決められてしまう事」が、ただのネタにしかなってなくないか? 「呪い」という言葉の入れ替えだけにつかってないか。

 もっとそのあたりを掘ることで、外に開いた作品になりえたはずだ。だって、普遍的なテーマであるし。「誰もわからない、見えない評価軸があること」「誰も悪い人はいないのに、不条理に当落が決まっていく社会」という話は。
 内省の話にせず、ここに「他者」を持ってくることができたらよかったんじゃないかなあ。

 今回で言うと「1年生」がこれに相当する……んだけど。これは「他者」たりえたかどうか。やはり最終的には「身内」になってしまわないか。
 これが例えば「スーパー才能持った生意気を通り越した大天才人格者藤井聡太みたいなやーつ」が出てくれば、他者だったか? やでも、リアリティがないか。では、「審査員」が劇に出てきたら他者たりうるか? や、他者を仮託するにはちょっと陳腐かもしれない。じゃあ「教師」? 「親」? あるいはタイトルいじりだけで終わってしまった「野田秀樹を名乗る巨大権威者」とかいってみるのはどうだ?

 ……こんなふうに、「他者」である登場人物を創造してほしかった。
 明らかに自分たちをモデルにした登場人物たちを、打ちのめされたり、励ましたり、違う場所に連れていくことができるようやヤツを、考えてほしかった。
 現実をベースにした登場人物と、次元の違う創作された「他者」との劇的対立。プロっぽい言い方でさせてもらえば、ど、ど、……ドラマツルギーというやつである。

 演劇なら、そうした他者に出会える。というか、内側には希望がないとおもうんだ、演劇って。(や、本当にそうか?)

 何のために、他人と自分の身体を同じ空間に居合わせて稽古するかと言えば、きっと自分とは違う、誰かと出会うためじゃあなかろうか(本当か?)。

 そういう、自分とは違う人間、遠い人間、共感が難しく、必死に考えないと一体化できない存在を、それでも、どうしてもそれを自分の身体で演じるところにも、演劇の面白さ、そして希望があるんじゃないかなあと思う。(や、着慣れた「自分」をより深堀りし、知らなかった自分に出会うために自分という個をあらためて自覚的に演じて新しい発見を探るっていう方向だってあるとは思うので、ここは山本は悩みながら口にしてます)。

 と、内なる自分との葛藤はありますが。それをエンターテインメントにしようとしている姿勢は本当に面白いし、それはとても評価できるところ。なにより、超おもしろいからなあ。審査員批判って。
 だけど、外にもう一歩踏み出さないと。外に向かう力がないと、芸術として、演劇としての評価は厳しいぞうと。
 そういう内面のことだけでなくて、劇構造としても、「演説」っぽく見えてしまう劇の単調さとか、わざわざ現実をベースにした登場人物を使ったのに、それがただ単に個人の思索で終わってしまっているのは技巧に欠ける。

(前に見たやつと比較するのは反則とは思いつつも、僕が前に審査し、やたら悪口を言いながらもなんか高く評価しちゃった2020年の同校・同作者の演目『熱海殺人事件』(紅葉川高校脚色)の場合は、「劇中劇中劇」ともいえる劇レベルの三重構造の構成と、内側への内省が演劇としての技巧と強くかみ合っていたところを、演劇作品として高く評価したところがあった。それに比べると、脚本段階で、演劇としての技巧が足りないと感じた)。

 そして、この高校のこの作品が、あと一歩、中央大会推薦議論で僕が推しきれなかったのも、「高校演劇部モノ」という題材選びが……もし同レベで、同じくらい面白く、同じくらい欠点があり、でも魅力的でおもしろい高校があったら……仮にこの地区のこのブロックに他に4校あったとして、「高校演劇部モノ」を題材選んだところより、他の事をやっている高校を……評価してしまうなあと。

 それは、自分たちの現在より、少しでも、半歩でも遠いところをやろうとすることを、見てしまうからで。
 僕の、審査基準はたぶんそこで、外に向かっていこうとする力や意志があるかどうか。
 自分という内側の面白さを、自分のできる範囲で納めるんじゃなくて、他者と共に演じているうちに、自分も、観客をも超えた、想定の向こう側に、外に行こうとしているかどうか。

……抽象的な言い回しの基準で申し訳ないですが、これがこの劇で提示された審査員批判への(「何が基準なんだよー」という問いに対しての)アンサーとしてひとつ、白状しておきたいと思いました。

② 都立白鴎『側にいて、シェリー』

 こちらも生徒創作。父に恩顧のある館の主に招かれた男は、その洋館の中で「人形」のような美しいものに出会う。その人形は、男が手に持たされた「ペンダント」に呼応し、生きた少女となって男に微笑むのだった……!

 洋館! メイド! 謎の魔法遺物! 花に変えられた少女たち! こういう、ある種のジャンルものは、私は(演劇じゃなかったら……)結構好きなのです。

 衣装には気合が感じられ、メイドや小間使い少年、地下に潜む謎の男とか屋敷主とか、もう強い強い衣装。
 そして演技も、本当にこういうジャンルやってみたかったんだろうなあという気合はひしひしと感じるのだった。

 だけれども、気合の入っていない点は、気合が入っていないなあと思うのだった。
 講評で指摘したのは、椅子。
 学校椅子が、劇が始まる前から一脚置かれていて、物語の中心となる「人形のような少女」が座るのだけど。
 それを、ただの学校椅子で、はたしてよかったのか。

 椅子も、気合の入った衣装と同じレベルで考えなければいけない。普段着で演技をしてないのだから、椅子も同じくらい気合を……。

 例えば、もう最低限、雑黒(舞台用語で、黒い布の切れ端などのこと)を被せてもいいし、また美しいものを座らせるものなのだから、もっともっと、凝れなかっただろうか! 薔薇の蔦を絡ませたっていいじゃない! リボンをつけたっていいじゃない! 逆に、鎖で縛りつけたっていいじゃない! 現代だったらそれらの工夫のアイテムは、100均でも十分入手可能だ。

 それ以外にも……主人公の穿いていた靴はニューバランスだったり、小間使い少年が手にする箒はなぜか学校で使う自在ぼうきだったりして。せめて、普通の箒……柄の部分が長いイメージだったのであれば、棒の部分を調達して改造してもよかったはず。

 もっともっと何か、できたはず。できたはずだ。できなかったとしても、あきらめてはいけなかった。せめて、もがくことは、できたはずだ。

 衣装のレベルが高い分、こういう部分がおろそかだと、それは魔法にならない。何のためにそんなカッコいい衣装を着けているのかと言えば、それは我々を異世界に誘うため。魔法をかけるため。明らかなウソを信じ込ませるため。それらは、隙が生じてはいけない。

 や、会場がそもそも、急遽変更された教室に近い場所で、その時点でもう望むような「洋館」には、現実的には難しい……

 とか思っていては、魔法使いにはなれない。

 思い込みだ。思い込みの力。それは変態的に、頭がおかしくなくてはできないこと。頭がおかしい人は、細かいところに過剰にこだわりを見せるではないですか。

 僕のような、頭のおかしい人というのを日常で見たことはないだろうか。あれは、一見変なふるまいをしているけれど、あれは、そうやって動かないと、この世界に存在できないから、必死にディティールをつめて生きているからああなるんです。
 結果、普通だと思い込んでる勢から見ると、おかしく見えるんですよ。僕は。

 世阿弥(という、能のジャンルの人。昔の人)の花伝書(演劇論の本)の中で、「物狂いは能の中でもやってみて最も面白いジャンルで、狂気を演じるとあらゆる面で広く演技に応用がきくよ」みたいなことを確か言ってたんだけれども。

 その「物狂い」って、ディティールの積み重ねだと思うのです。普段私たちが当たり前の動きとしているものに対して、何か、認知がズレていて、その認知や常識、世界観がズレが細部にまで至る時、私たちは別の価値観を持って動いている「物狂い」に到達する。

 物狂いで言うと、ディズニーランドなんかいい例で、あれは物狂いの極みみたいなところがある。ウォルトの狂気なアニメーション世界観を現実に出現させるとき、キャストはカッコイイ衣装だけを着ているわけではない。足先、指先、使う道具、細部にまで、できる限りの魔法をかけている。

 なにより、本気で信じているじゃないですか。頭ではちゃんと「これは着ぐるみだから、熱中症に気を付けながら振舞わなきゃなあ」という理解はあるけれど、同時並行で「これはミッキーという、唯一無二の愛せる存在である」と、信じ切り、崇拝し、魂を与えている。そういう魔法で、あの夢の国は成立しているんだなあと。

 さて、唯一無二の、愛せる、美しい、この世でもっとも素晴らしい存在を、普段使いの学校椅子に座らせるかどうか。座らせるだろうか!
 その美しい存在に、最高貴重なマジックアイテムであるぺ、ペンダントをつけるとき、もっとドキドキしないだろうか!
 花だぞ! 花を、世界最高の純真無垢最強耽美無垢美美美に、手渡すんだぞ! その花でいいのか、その花の渡し方でいいのか、そして、その花で、かの美しき指に傷つけ、指を……ケガさせてしまったんだぞう!

そこまで至れない、気が付かなかったというのは、愛が足りない。

つまり、狂気が足りない。観客席のこちらにいる人々より、舞台上の人たちが信じていなければ、魔法は出現しないと思うのですよ。

 そしてそれはできるはず。ディズニーランドのアルバイトの人たちは、高校生くらいの年齢の人たちだっている。同世代が狂気の世界の一端を担っている。高校演劇がそれに匹敵する能力、才能が、ないわけがない。

 細部の話は、キャラクターの行動原理、動きの動機にも当てはまる。
講評でも言ったけど、そもそも主人公の男は、なぜこの洋館にやってきたのか。「招かれた」とある。が、男にもなにか動機があるはずだ。招かれ、行こうとした動機。ディティール、細部。普段どんな暮らしをしている中で、 なぜ男は洋館に行こうとしたのか。
 それが、脚本の中でも描かれていない。
 主人公の男は、「少女を発見し、最後に手を取って洋館を脱出させる」というイメージのための、ただの装置になっていなかったか。

 人は、装置には感動しないのだ。「狂っているなりに理屈をもった人間」に、私たちは狂気という魔法に感動できる。

 キャラに動機があれば、さらに衣装は凝れるし、ドラマも作れるはず。 洋館にただ招かれ、あいさつするだけだったからあの軽装の衣装で来た。それが思いもかけず「部屋が空いているから使え」と主人に言われる。

 そこで、えっ、となってもいいはずだ。だってあんな軽装で来るんだから。泊りの予定もなかったはず。逆に長く逗留するつもりなら、最初のシーンで荷物をたくさん持ってないといけない……。

 主人公の男を例にとったけど、他の登場人物にもおなじくらい細部が足りなかった。足りなかったから、ある種こういうジャンルを「やってみた」で終わっていた印象になってしまったと見えました。

 演劇に「やってみた」ということは、成立しないんじゃないかなあと思う。
 「歌ってみた」「作ってみた」は、ニコ動的やティックトックにはあるんだろうけど、「演劇やってみた」はない。

 やってみた、では成立しないのが演劇という面倒くさいジャンルであり、それには、歌や、工作以上に、重い……愛が……これは自分で言っていても面倒くさいけれど……必要なんじゃあないかなあ。そしてこの種の演劇にこそ、重い愛が試されると思うのです。

 愛は、単独の気合では乗り切れないのです。相手がいるわけですから。演劇の場合は、やってみた、とて、共演者、スタッフ、そして何より観客がいる。
 個人の気合という一方向な「やってみた」では成立しないと思うのですよ。演劇は。

 というか……愛はなあ。愛はなあ、演劇愛を語る人って何か、うさんくさいよなあ……。「演劇LOVE!」って言ってる人には、ちょっと気を付けたほうがいいと思っている派です。だってそんな、愛を路上で言う人って、酔っ払いか物狂いだと思う……。小声で言うと思うんだよなあ、演劇LOVEって。

③ 都立隅田川『なれたなら』

 こちら生徒創作。慢性的に部員不足の演劇部に、一人の転校生を強引に入部させられる。部員たちは大会に向け稽古を進めていくが、劇の結末が定まらない。そのさなか、一人一人、ささやかだけどでも個人にとって重大な問題を抱えていて、すれ違いや葛藤、過去を抱えながらも、それらがゆっくりと良い方向に向かっていく……というような。

 こうしてログラインを纏めてみると、何か派手なアクションは起きてないのだけど(演劇的にはちゃんと序盤で楽しい劇中劇が展開されたり、過去の回想が挟まれたりと、見た目に楽しいことは起きている)、それでもすごく心を打ったのは、こうね、今大会でもっとも丁寧な人物造詣がなされていたなあと思ったのだった。

 地味なんです。地味なんだけど、ちゃんとそこに人間がいるように感じられる。

 どうしてかというと、この劇の登場人物はほぼ全員、相反する内面が設定されていて、しかもそれが、常に同時進行で表現されているところが、きわめて丁寧で的確なんです。

 冒頭、転校してきた、一見クールに見える女子学生。彼女はかつて友達に裏切られたことがあるのか、他人を信用せず、過度に距離感を取ろうとする。「友達はいらない」。
 しかし、演劇部部長の底抜けな明るさと異様な距離の詰め方、そして、「友達になろうよ」と手を差し出される。
 その手に、一瞬反応してしまう。手を出してしまう――でも、そこに運悪く邪魔が入ったりして、部長の興味が次に移って、せっかく出した手はスルーされてしまう。あわてて引っ込める手。そして、元の自分に戻ろうとする。
「友達はいらない/友達が欲しい」が同時に、そこに存在しているように見える、素晴らしい演技だと思いました。

 この相反する二面性を持ったまま、様々なシーンで人と絡むときに垣間見られる。
 ある時には徹底的に人と距離を取って、無理やり入れられた演劇部と距離を置く。でも、ある時、部員の一人が打ちひしがれている時、いつのまにか――自分でも無意識に、その人物の隣に座り、話を聞いていたり。

 登場人物のほとんどに、こうした相反する二面性が設定されていて、それらが、特に大きな事件が起きるわけでもないなか、でもあるシチュエーションで浮き彫りになり、ささいな入れ違いで亀裂が入り、過去の思い出が回想される中で深まったり。
 しかしそれらを、人とのかかわりの中で、よい方向に向かっているように見えたのが、素晴らしかった。

 講評では、アンパンマンの例を挙げて、や、アンパンマンでも大人の鑑賞に堪えうる回って、ロールパンナ回だったりするじゃないですか、あの、善悪二つの心をもって生まれてきてしまったという……。
 あれも、あの世界のキャラでは数少ない、相反する二面性を持つキャラなんですよね。
 サザエさんでも、カツオ起点の物語が強いのも、「大人的な器用さと洒脱を持った子供」という相反する二面性があるキャラが動くからだし。

 それが、「この状況だとまじめ、この状況だとギャグ担当」みたいな、シーンによっての極振りで表現される二面性とかじゃなくて、相反する気持ちをもったまま同時並行でリアクションをして、心が動くというのが、優れた人物造詣というものだと思うのです。

 都立隅田川の演劇は、それが、できていたのです。

 さらに何がいいかってそれらが、セリフに依存しないシーンで表現されていたのも魅力だった。

 こう、河原で石を投げるシーンがあるんですよ。水切りの。
 その水切りの石の投げ方で、登場人物の現状とか個性が、わずかに垣間見れるというか。そして何かが上手くいくと、水切りもうまくいく。
 こういうギミックの遣い方の妙が、いいよなー、まさに演劇をつかっているなあーと。
 ともすると、何かが上手くいったいかないとか、キャラクターが悩みをかかえているとかは、全部セリフにしてしまいがちだけど。この劇ではそれらいくつかは、動作や象徴的なもので代わりに表現できているシーンもあったのが、とてもよかった。

 ただ、じゃあ全部うまくいっているかというと……やはりまだ、大半はセリフに頼りすぎているところや、そもそも「演劇」そのものが上手く行ってないこと……それは中道具(ベンチ?)の使い方であるとか、あるいは説明的な場転を多用することによる間の悪さというところもあり、演劇そのものの慣れてなさ、ぎこちなさが多くみられた。演技はうまくても、演劇が上手く行ってない感じ。
 また、やっぱりまだ大切な感情を「強く、セリフで」伝えようとしているところがある。せっかくの繊細さが、「高校演劇っぽくしないといかん」と思ったのか、強い声だったり、大きな演技だったりで、ピンポイントで人間から「キャラクターを演じている声の大きな人」に引き戻されてしまったりして。それはたぶん、「演劇っぽいことをしないと伝わらないのではないか」という、経験不足からくる誤解によるものだよなあと思った。

 そんな中でも、この高校、照明をちゃんとやろうとしていた! 照明担当者、よく頑張った。よくプランを切った。急な会場変更に、頑張って食らいつこうとして、プロジェクターで色味を出そうと頑張っていた! ずはらしいぞ! 
 だが、よく見たら、照明を説明的に使うプラン――回想だからこの色、みたいな……そういう照明の遣い方は、あまりに不器用で、効果的ではない。これもまた経験不足からくるものかもしれない。説明に照明を費やすのではなくて、観客にも気が付かれないような、静かな照明という考え方がある。そのあたりを研究してみてもいいかもしれない。かつて、演劇に人工照明はなかった。なぜ、人に光をあてるとカッコいいのか。光を当てるからカッコいいのか。その光の根拠は何か、をもっと考えていただければ幸いです。

 ほんとう、この誤解……というか、「ちゃんとセリフで気持ちを言わないといけない」とか「内心で強く思っていることは強く発しないといけない」とか「表情をちゃんと作って伝えないといけない」とか、この「○○しなきゃいけない」にとらわれていることが、高校演劇ってとても多いなと思う。

 そりゃあ、いくつかはそうなのかもしれない。最低限、「舞台に、自分の意志をもって存在していなければいけない」とはおもう。

 でも、それ以外は、たぶん、もっと自由なのだ。

 ……こればっかりは、経験と、やってみて失敗することや、つまらないなあと思うものを見て、また、とてつもなく素晴らしい作品を見て、肌で感じて、「しなければいけない」からの呪縛を一本一本抜いていくしかないと思うんだよなあ。

 優れた指導者を迎えてそうした呪縛を抜いてもらうというのが早い気もする一方、それはそれでまた新たな呪いをかけてしまいそうな気もするし。またそうした呪縛を、演劇をすることで自分たちの手で抜いていくことが、カッコいいことでもあると思うんですよ。

 そうそう、最終的に、すべてがすべて、解決してしまっているように見えたのもやや難がある。
 そんなに全部、この一時間で解決しなくてもいいと思うんだ……と思うのは、これは僕の現実の捉え方がシビアすぎるからだろうか。

 いや本当、今回の上演校の中でもっとも、本質的に演劇だなあと、つまり「人間をちゃんとやっている」という事に重きを置いて、コミュニケーションを描いていた作品だったと思います。

 だけど、真面目に過ぎたところがあって、それらが繊細な人物造詣を壊していたところが、看過できないくらいに多かった。
 「声を強く出して感情吐露」とか「この場所を河原と教室ときちんと示すために布を裏返しにするという余計な動きを加えてしまう」「背景説明の要素が強すぎる過去回想の挿入」とか。

 また繊細さゆえに、どうしたって観客席に届く力も弱く感じ、結果印象としては弱くなってしまう……というのはこれ、完全に見ているこっち側の受け止め方の責任ですけども。

 審査時に大会推薦議論になった時にも、僕はわりと最後までこの高校の演目は議題に出したものの、やはり説得しきれないものを感じたのは、推すにしては、あまりに演劇的に不器用に過ぎる点と、今、都大会のスケール(広い劇場)でこの劇を再構築しても、おそらく現時点ではそれが良い経験、よい再構築、よい再演にはなり難いと感じたからだ。

 むしろ、この人物造詣力を生かして次の題材への作劇に移ったほうが、この高校の未来につながるんじゃないかなあと思い、議論では推せなかったなあ。
 でも未練がましく「でもこの高校が一番人間を描けてたよね」「関係性を描けていたよね」と口にしてはいたんだけどなあ……。

 この随一の人間描き力で、次の作劇も挑戦してほしいと思っております。

④ 都立上野『悲劇と喜劇の重奏』

 こちらも生徒創作。すごいよ。高校演劇でミステリーが見れた!

 名探偵とその助手が、ある王族で起きた事件を解決に奔走する。謎の日時計塔、饒舌に過ぎる王子に、怪しい眼帯女騎士、寡黙なメイド、かまびすかしい紅茶三人衆に、不敵な笑みを浮かべる王女……いったいこの事件の犯人は誰なのか! みたいなね。

 ジャンル劇とでもいうんでしょうか。多分だけど、シャーロックホームズくらいの文明レベルの世界観で、さる王族の周囲で起きた事件を、女名探偵とその助手が解決しようとするとう話で、衣装や舞台セットには気合が入っていた。
 やりたかったんだろうなあこういうの、という気合はやはりひしひしと感じる。

 ただ劇としては、「王宮で起きた一人の失踪事件について、探偵助手がひたすら聞き込みをする」というシーンの連続になる。つまり「過去に起きたことを説明するセリフ」がどうしても多くなってしまう。

 事件的にも、「この事件が早く解決されないと、連続殺人犯が次の犠牲者を生む!」というたぐいのものではないため、いくらでも時間をかけて調査できてしまう。
 タイムリミットのハラハラ、事件を解決しないと、また誰かが死ぬ! みたいなものがないため、どうしても……緊張感に欠けてしまう設定になってしまっていたかもなあ。

 ただ、キャラクターは一人一人面白かった。特に探偵コンビの関係性はおもしろい。
 「女探偵」という、女なのに探偵というところで珍しがられてしまい、謎を解くのに嫌気がさしているという設定の無口な天才女探偵と、その助手なのにタメ語、なのに「先生」と敬称をつける、天才にあこがれて天才になり切れない男という二人のバディというのは、なかなかに魅力的なコンビだ。

 この素材を生かすような、さらには、演劇的にも絵になる事件を作れなかったかなあと。

 演劇ってどうしても、説明が有効ではないジャンルで、映像作品なら、過去の回想やカットバックで動きのあるものに見せることができる、小説なら読者の読む速度で状況説明を精緻に行い、一緒に考えさせるという方法が使える。

 そう考えると、さまざまな情報から観客と一緒に推理させる、というものには、演劇は向かないのではないか。そう考えると、しかしせっかくのミステリをやろうとした、というところなんだから、何が演劇として美味しいのか……。

 やはり、「疑う/疑われる」というときに、心の動きやしぐさが身体に出る、というのが、演劇的な面白さになるんじゃないかなあ。

 映像作品になるけど、三谷幸喜の古畑任三郎シリーズなんかは、トリックや推理とかそういうのはさておき、探偵(刑事)が犯人を追い詰めるときの、心の動き方というところに主眼を置いている。刑事が動き、犯人や関係者に質問し、徐々にその隠された人間性が暴かれていくというところが、面白ポイントになる。意外と、トリックについては、二の次って感じになっているのがわかる。

 この劇も、このキャラクターや世界観を生かして、犯人の王女と名探偵と呼ばれたくないの女のやり取りであるとか心の交流とか、そういう部分で見せることができたらよかったのかなあとも思ったかなあ。

 何にせよ意欲作ではある。場転の上手くいかなさもあったかもだけど、暗転を使わずに物語を進めて見ようとか、衣装の凝りように気概を感じる。

 次こそは、何が演劇として見せ場になるか、その取捨選択をしつつ、そのやりたさを現実化するといいんじゃないかなあと思いました。

⑤ 都立篠崎『もしそろそろ月が見れたなら明日は晴れますか?』

 こちらもさらに生徒創作。これも意欲的でしたよ。ホラーというか、推理ホラー物っていうんだろうか。

 高校の心霊研究会の面々。月のきれいな夜に出現した失踪事件に首を突っ込む部員たち。しかし実は、その事件は中心メンバーの一人に因縁のある内容で……。
 と、推理パートあり、と思ったら中盤でのどんでん返しありと、意欲的な創作。キャラ立ての妙もあり、全員、キャラにちゃんと乗って演技していたなあと思った。

 ただ、この演目の面白さは「キャラの面白さ」と「お話の仕組みの面白さ」であり、その2つが必ずしも「演劇の面白さ」ではないなあとも感じてしまった。

 たとえば劇中、幽霊というか怪物というか妖怪というか、そういう、ヤバいものが這いよってくる、というシーンがある。
 衣装や物語立ても相まって、なかなかに魅せるシーンにはなっているけれど、「演劇」……生身の体で演じるものとして、その怪物が、どうしても「あ、人間が演じているのなあ」と、どうしても思ってしまう。「主人公たちがしゃべっている間はなかなか襲ってこないなあ」とも。

やりたいことに対して、演劇が味方になってないなあと思ったのだった。

 怪物はがんばって、迫力たっぷり、狂気も振り切っていて、努力は十分だと思う。ただその演出というか。これは、誰がどう演じても「怖い/怖くさせたい」という思いより「何かが頑張ってもがいている」に見えてしまうんじゃないかな。

 全身見えてしまっているからじゃないかなあと思った。
 しかもそれが、結構長い時間だ。

 演劇は、どうしてもそうなる。

 設定上、「人間とは違う存在ですよ」という役があっても、全身、よく見て、長い時間観察されたら「あ、こりゃあ人間だ」と魔法が解けてしまうところがある。

 こういうものを怖く見せるコツとして、「よく見せない」というのがよくつかわれる手段だ。見せるとしてもごく一部。「手だけ」「声だけ」「衣装の一部だけ」……と、わずかな断片を示して、人間ではない存在を観客席の創造にゆだねる。

 見えないからこそ、見たいと思い、見えないところに、人は怖がることができる。演劇のテクである。

 怖いものです、よく見てください、と提示してしまうと、それはお化け屋敷を照明で照らしてしまうようなもので、演劇の行われている「現実」という舞台装置も相まって、怖くなくなってしまう。

 演劇の特性として、「よく見えてしまう」のだ。生身の体で演じられてしまうものは。映像作品であれば、見せたいところだけ見せて、見せたくないところは完璧にカメラの外に追いやることができるのだけど……。

 だから、演劇が得意とする「怖さ」とは、どういうものかを考えたほうが、この劇のやりたいことがもっと表現できたのではないかなあ。

 それは講評の時にも少しだけ触れたけど、関係性の中の、日常のやり取りから、ほんのわずかにこぼれる狂気の瞬間、みたいな……あー言葉にするとムズ。もともと僕もそんなにホラーとかは門外漢だから、うまく指摘できない……すみません……。

 終盤、狂気の主人公が、すべてを知った友達の首を絞める。
 ここも、どんなに鬼気迫る演技で首を絞めたとしても、「首を絞めた演技」に見えてしまうのは、それは演劇だからということもある。

 舞台中で人を殺す演技って、注意しなくてはならないのは、こう、「嘘度」といいますか、リアリティのレベルがグッと下がってしまうんですよ。どんなに、首を絞められ、もがいて、苦しい演技をしていたとしても。

 だから舞台上で劇的に死ぬ演技が入るような演劇って、「死」より「倒した感」とか「殺した感」に重きを置かれるようなジャンル――英雄が悪を殺しました! 正義の侍が悪代官を切りました! みたいな、リアリティレベルが高くないジャンルに使われる。

 リアリティレベルがある程度高いもので、人の死を描きたい場合――例えばチェーホフの『かもめ』とか『三人姉妹』とか、死はいつだって劇の外で起きる。銃声が鳴るとか、誰かが急に入ってきて死を主人公に伝えるとか。
 直接描かない、だけど、死を、生きている人のリアクションで、その重大さを観客と共感する……みたいな感じで表現される。のが、リアリティを落とさず、効果的だったりします。

 だから、あの首絞めシーンは、そのまま舞台からハケて、外で声だけとか、物音だけ聞こえるとか……。あるいは、あえて殺すシーンは書かず、何食わぬ顔して殺した後、その親や友達と普通に話したり、表面上死を悼んだりする顔しながら状況を淡々と説明しながら、不意にニヤニヤ笑うとか……そういう方が効果的だったのかなあ。

 今回の場合、ホラーには、どこかで、「本当にありえるかもしれない」という、ある程度のリアリティレベルがないと、ゾッと恐れられないところがあるんじゃないか。

 これが映像作品だったら十分成立するリアリティレベルだけど、演劇となるとだから、「キャラ」で「恐怖」を感じてもらうのは、どこか限界があった。
 人物造詣が、あくまで「キャラ」だったところが、全体的に厳しかった。つまり「この人はこうですよ」という、表面上の記号で造詣された演技だった。下手ではないし、すごく上手く、キャラクターを振り切っていたし、頑張っていたけれど、それでは観客の心を揺さぶるのは難しい。

 講評の時「私は冷静なキャラクターを演じていましたけれど、伝わりましたか?」という質問があった。
 冷静なキャラクターということは、確かに伝達された。とても、うまく、キャラを演じていた。だけどそれは「こういうキャラね」と情報が伝わっただけで、のめり込んでみるような共感だったり、人間の存在感は感じられなかった。

 人がそこにいる、とは、キャラの記号を振りつけしていくだけでは、難しいなあとおもうんですよ。

 そうだ! この劇に「35歳の、生徒にフレンドリーな男の教師」という役が出てて、講評の時にも少し触れましたが、この役を演じるのはとても難しいと思った。

 「同世代の、少し立場の違う男子生徒」のように見えてしまったのは、「大人なら穿かないよなあ」というズボンやベルトをしていたからだけではない。
「35歳の男性」は、あまり記号化されてないから、キャラとして演じるのは難しいからだったと思う。
 ジジイでもなければ子供では当然ない。若いという感じでもないし、中年……ってなると40代後半な感じにもなるし。

 35歳って、広く信じられる口調も髪型も服装もない。共通のコードがない。それだけ、世間一般のメディアで、登場人物になる回数が少ないのだ。35歳前後って。

 だから、もうそれは、「その人そのもの」になるしかない。

 そして、そこに「演劇」として演じがいのあるものになると思う。
 記号が通じないからこそ、何かをしなければ「伝達」するのも難しい。

 まだ記号化されてないようなものをどう演じるか。

 とにかく、よく見る。そして、そのしぐさ、動き、物言いを「どうしてそうなるのか」をよく考え、動機を作る。そうした細部と、その動機の積み重ねが、(近代的な)「人を演じる」ことにつながるんじゃあないかなあ。

 だからね、頑張ってほしかったのだ。35歳の男性教師を演じてくれた男子部員には……女子の超多い演劇部で数少ない俳優には。……と、ついなんかこう、高校時代の自分を思い出して、彼の演技について思いをはせてしまったなあ。

 全体的に、やりたいことは詰め切っていて、シーンシーンではホラーのいいツボをとらえているいい作品だと思いました。

 次は、演劇として美味しい、演劇という形式が味方になるような研究を進めて、やりたいことを表現し続けていただければなーと思います。

⑥ 都立東『拝啓、十六の僕らへ』 

 こちら生徒創作。クレジットには名前+東高校演劇部とあり、みんなで作り上げた作品なのだろう。

 現代の、コロナの中の高校の合唱部の話。様々な生徒たちがこの世界の中で、淡々と、そして、ギリギリの中生きていく。
 幼少期からピアノを習い続けている者、歌い手としてネットでバズっていたが顔出しをして以降アンチコメに翻弄されている者、なんとなくと真剣の間を漂うように合唱部に居る者などなど。
 それらの人物たちの背後に、登場人物たちではない、無数の声たちが舞台の奥に流れていて――。という感じ。

 講評では、「演出がポストモダンを志向しようとしているに対し、個々の演技はモダンに至っていない」と言ってしまい、すごく……キョトンとされたなあ。すごいキョトンだったなあ。そうなるだろうなあとは思いながらも。

 見た後、どう考えた物か……と、一人伝わりづらいことを言って考えに浸ってしまっていたなあ。

 何か、野心的なことをやろうとしていた志向が見えて。こう……、審査員として演技を評価する軸として「ちゃんと人間を表現が出来ていたか」を見ているのだけど、そういう見られ方とは違う演技体もある。

 それは、演じられるべき人物の不在による言葉の表出する、という手法で、「いないけど、いるかもしれない、居るのかいないのか、どちらかわからない人(キャラクター)を、いるのかいないのかよくわからないままやる」というのが「近代よりさらに先行った感じの考え方」、ポストモダンという考え方で作られたやり方のひとつだなっ、と。

 わかり難いと思うんですが、このやり方をやると「リアリティとか身体性とかの制約から解放された、詩的跳躍、あるいは文脈を超越した純粋な言葉や問題意識、論理に寄らない感覚、わけのわからなさを舞台上に表現できる」という手法で――あんのう、このへん、自分もなんだかよくわからないなあと思いながら話してます――この考え方を使うと、舞台に登場できるような「人間(ないしはキャラ)」を描くだけでは伝えられないような、人間以上、人間の知覚を超えた、具体的ではあれない何かを、それでも「演劇」で表現できるというか。

 その考え方を、この劇の演出の断片に感じる。特に、この劇では不意に、誰だかわからない人がコロナについて語ったり喋ったりするんだけど、その挿入にさっきいった考え方が使われているんだなあと感じた。

 じゃあ、この劇、なんかとても難しい考え方で作られているのかな、と思いきや、主軸となるお話はものすごくシンプルなお話。

 シンプルだからだめっていうのではなく、それらはきちんと、近代(モダン)の考え方、つまり「人間を人間として表現する」を頑張ってやろうとしていたなあと感じた。ところどころ、劇の都合、話を先に進めるために、粗雑になっていたところが目立ったけれど。

 しかし、巧みな舞台転換、舞台の配置、同時進行の手法で、きわめて技巧的にオムニバスストーリーが展開されていて、さらにワンシーン、ワンシーン、よく考えて、考えて、考えた結果がわずかな断片に出ていた。

 それは部分的には成功しているところもあれば、上手く行ってないところもあったと思う。
 でも、いいとおもった。随所にちゃんと考えを通わそうとしている。それは見える。

 それこそが重要なことで、観客に伝わるかどうかなんて――これいうのは本当おかしいんだけど、考えることの価値にくらべたら、観客の快・不快なんて、優先順位はそれより下だと思うんです。

 劇をやることで、稽古することで、考えて、自分ではない他人について考えて、考えることが、そして、一緒に考えてもらえるように、快・不快、面白い面白くないを超えて、外へ巻き込むことが最上なんじゃないかと思っている。

 さてそこで、途中で挿入される無数の声について。
 キャラクターではない人物が「自分の過去から現在について」の語りや、「コロナ」についての語りが挿入される。時に緩いリズムに乗りながら、時にただ、突然現れて、正面を向きながら、というシーンが、どうしても気になった。

 これが……、すごく悩む。意図もわかるし、なにか切実なもの。そしてキャラクターたちを取り巻く空気として、それを言葉にして、それが背景にあることの表現になっている。

 ただどうにも、そこで語られる「過去から現在」「コロナのエピソード」……や、十全に練られて、あるいは取材をしたのもわからないでもない。極端な偏りのある伝達ではなく、この時代をつかんだ言葉にはなっていたと思うけれど、でもそれでも、コロナ禍の言葉たちを真正面を向いて、不意に挿入という異化(これもまたカッコいい舞台の批評用語の一つで、「違和感持たせて観客に印象強くさせて考えさせる技」みたいな意味)にはなっていたとしても、受取り難い印象があった。

 やはり、あまりにもコロナ禍の言葉たちがストレートに過ぎないかという点。
 それを、こういう手法で挿入することが、なんていうんだろうか。
 あまりにもそれを見せたい、それを「考えさせたい」人の手――「16歳の人に挨拶がしたい、もう16歳ではない人たち」の手が色濃く強く出てはいなかったか。

 わるい見方をすれば、主軸となる合唱部の演劇パートが、前フリかのようにも見えてしまう。演出として、そういう見せ方になってしまっていいのかどうか。感情移入に待ったをかける、まさに「異化」であるとはいえ。

 物語の主軸パートののみの話で考えれば、どこから物語を始めるべきかを考える必要があったかもしれない。
 今の始まり方では「合唱部」が主体となる話に見えて、そこから「ピアノをずっと習っていた人の話」に移るいい前フリになっていたとは言い難い。

 あれでは「合唱部はどうなるんだろう」で見てしまって、「ピアノの人」の話はずっと傍流の話に見えてしまう。

 序盤の展開を「合唱部の人がピアノの人をいかに勧誘するか」の話ではなく「ピアノの人が合唱部に入部する」という話の印象に見せたほうが、観客にとって見やすい。

 そうした場合、序盤の構成、いったい何から見せればいいか。どのエピソードからスタートすればいいかを考えることができると思う。

 あとは、ピアノの指のマイム――うーん講評では、あまり有効ではないのではないかとと感じ、いろいろ言ってしまったが、あれから一週間ずっと考えているけど、対案が出てこない。
 「ピアノが上手い人」を舞台でどうしても表現したいとき、どうすればいいか……。わからん。どうしても「嘘」っぽく見えてしまう。でも嘘だしなあ。嘘だけど、この劇の場合、どうだろう。うーん。どうだろう。どうだろう? いや、いい、許容できるとおもう。でもうーん。うーん!

 自分の劇団でも「机をピアノに見立てて演奏する」というシーンを作って演出したことがあった。
 それはキャラクターが「自分にとってピアノはあくまでフリでしかないことに気づいた≒でもいいや楽しいから遊びで私はピアノを弾く!」というようなシーンだったから、マイムピアノでやって成立させていた気がする。

 だから僕だったらどうしても、指先を見せないようにするかなあ。大道具とか人の立ち位置の都合で隠れてしまうところでマイムさせるとか、後ろ向くとか……。
 でもそれだと、前向きに弾いているところとか表現できない、グギギ……。

 このシーンで、ピアノを弾かせる姿を見せることは、どういうことなのか、なぜ指を動かさなければならないか。そのあたりをさらにシビアに分解して考えてもよかったんではないかなあと、すごく……高度な注文を……抱かせるくらいに、よく考えられていたと思うんですこの劇は。

 ただその、主軸になる合唱部パートを構成する考え方と、演出の組み合わせ、かみ合わせがどこかよくなく、そこの接続の細部の精度というというところで齟齬が生じていたんじゃないかなあ。俳優一人一人、部員一人一人のモダンの考え方に至っていないところに、ポストモダン的考え方で全体が構成されている不均衡、さらにその演出の方向性に、山本の個人的な相容れなさを感じてしまったんですよね。

 そういう風に、言葉を発していいのかどうか。恣意的に、特にコロナ関連の言葉を今、発せさせていいのかどうか。発せたとして、真正面に客席に向けての語り。それでいいのかどうか。

 ……と、最後になんか難しい事いいましたけれど、全体で見ると場転の展開、シーンの技巧的なところはとてもいいと思っておりました。
 なにより、自分たちを超えたところ、外に向かって何か表現しようとしていたところも素晴らしく、そのために、ひとつひとつ自分たちの手でキャラクターを理解して動かそうとしていた事はいいなあと思いました。

 本当……や、上記のようなことを、講評でものすごく……自分で悩みながら、訳の分からない顔をしたまま、しゃべってしまい、これは講評になっていたのかなあ。
 なんだか申し訳ない気持ち。
 興奮したり、訳の分からないことを口走ったり、眼を血走らせながら話したり……なんだか申し訳なかったです。

 このブログを書くにあたって、「この審査員、おかしなことを言っている」というツッコミを受けるためにも書いているところがあります。

 審査員って、本当……今回は僕の他に二名、計3名の方で構成されていたので、とてもありがたかったですけれど。
 これが本当に怖いというのは、高校生の人、本当によく聞いてくれるではないですか。正解がないはずなのに。私の言葉を、すごくよく聞いてくれる。顧問の先生方もうなづいてくれる。

 それは審査員という立場があり、権威がそうさせているんだよなあと。

 これは、やばい。

 これは、本当に、権威の毒が回ってしまう。気持ち良くなってしまう。自分の正義や意見が、これほどまで一方的に通ってしまう場というのは。

 こういう空間に、ハラスメントの萌芽があると思うんです。

 だから、これ、自分のためにも講評で言ったことや、考えたことを言うことを世の中に文章としてしたためて、「ツッコミ可能」な状態にしておきたい……という自分の自衛のために、自分を律するために、これらの感想を書いてます。

 正直、はたして自分は都立東の講評をしたとき、正しい態度であれたかどうか。
 劇を見た後、なんかずっと考えこんじゃって、整理してない言葉を言って、迷わせてしまった気がして申し訳ない。あの場にいた高校生のためになった言葉、態度になっていたかどうか。
 改めて文章に起こして纏めようとしても、こんな感じの、まとまらなさだし。見た後ずっと考えているんだけどなあ。

 なので、本当……紅葉川の上演の審査員批判の言葉ではないけれど、講評の言葉に、人を中毒にさせてしまいえないので、本当に本当に、「何言ってんだお前は、てやんでえ!」という気持ちで聞いていただけたらと思います。
「てやんでえ」という精神が演劇を作るうえでスーパー大事だと思っておりますので、本当、てやんでえと。はい。思っていただければ幸いです。

 えーとそんなわけで、締まらないですか、こんな感じです。次は今回の全体の感想とかまた機会あればかきまーす。

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