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演劇以前の演劇の話 【第2回】「物を置く」

 演劇の稽古をするときに、ここに物を置きっぱなしにしていいかどうか、結構重要なのだった。
 また演劇の稽古場の話になるのだけれど、僕が借りる稽古場は公民館的なところが多く、そこに、基本的には物を置きっぱなしにはできない。

 置きっぱなしにできないということはどういうことかと言うと、稽古が終わったらそこで使った道具や置いた物を、いちいち片付けなければならないという事だ。
 無かったことにしなくてはならない。
 そこで演劇の稽古をしていたという痕跡を、何もかも失くさないといけない。
 だからもし、舞台に椅子やヌッピョラリを置きたいなあと思っても、置いていいのはその日、その時間限りのことであり、稽古場として使っていた公民館の一室は原状復帰しなければならない。

 椅子だったら、まあ大体公民館にあったりするからいいけど、これがヌッピョラリだったら公民館にあるわけがないので、いちいち持っていき、置き、稽古が終わったら、その都度、持ち帰ることになる。
 ヌッピョラリを置いたままにはできない。
 稽古が終わればヌッピョラリをリュックサックに詰め……もし巨大なヌッピョラリだったら分割し、小分けにして演出助手や主宰、俳優数名で協力して持ち帰り帰宅。また稽古があるときになったらみんなでヌッピョラリを持ってくる……こんなのは演劇をやっている人ならば、誰もが思い当たる「あるある」であろう。
 ヌッピョラリが異様に重い場合がある。そんなとき、「なんでヌッピョラリなんか置こうと思ったんだ」「お客さんサービスになるかと思ってついヌッピョラリを置こうなんて言ったのが安易だった」「ヌッピョラリなんて置こうと思わなきゃよかった」と、劇団主宰は後悔する。自転車で稽古場に行くときなんかは、もうね、背負ったり、紐に括ったりして肩に食い込んだりしてさ。ついには、「演劇なんてするんじゃなかった」と思う時だってあるんだ。

 稽古場に物を置くことができる劇団になりたいなあと、思うことがある。規模の大きい商業劇団とかになったら固定のスタジオを使い放題なんだろうなあ。物が置けたら、昨日がそのまま今日のまま、場所が継続される。場所に稽古が積み重ねられる感じにあこがれがある。

 だがその、劇団が物を置くことができるかどうかを分かつのは、演劇以前の、お金とか、権力とか、もっと違う力の何かな気がする。

 なぜ、物を、自由勝手に置きっぱなしにしてはいけないのか。
 それはそこが「公的な空間」だから、というのがもっともらしい答えになるのか。
 この街の大半は公の空間であり、物を自由に置いていいというわがままが許されるのは、私的な空間のみだ。だから、物を置くという自由は、私的な空間でのみ、あるいは公共空間を、お金を払って日を跨いで借りあげて、かりそめの私的空間に仕立てることで、ようやく許される事なのだろう。

 というか、演劇は、「公的な空間」で勝手にやったら迷惑なのか、基本的には、多分。

 じゃあ「私的な空間」にだけ、演劇はあれるのか? それ以外はないのか。例えば、生き物が誰もいない、誰の所有権も及ばない森の奥で、朽木が倒れるような、音がしてるんだかしてないんだかよくわからない一人芝居をするのは、許される? OK? そこに椅子置いていいの? 物を置いたら、そこは森ではなくて、「私的な空間」になるの? 

 いま、僕の住んでいる街は、私的空間ではない場所は、ほぼ、公的空間で塗りつぶされている。生物絶無の森の奥のような、「私的でも、公的でもない、よくわからない場所」は、ない。
 というかそういう場所には最近、「トゲのようなオブジェ」が公によって先回りして置かれるようになっている。そこで、勝手に座ったり、寝たり、居たりという、「私的な行動」をしないでほしいという祈りが、置かれたトゲに込められている。物を置くどころか、人間がそこに「居る」と言う事すら、しないでほしいと、そのトゲには祈られている。
 その祈りの結果、僕らは、公共空間から、姿を消している。演劇どころか、公共空間に私的に長期間「居る」ということも、公は許さないっぽい。公の祈りとしては、「人にそこに居てほしくない」と言う事なのか。ただそこに置いてあるような、役に立たない、不要な物や人間は、そこに在ることを許さない、ということか。

 許されなくても、それ、そこで、演劇をやろうとすると、どうなるんだろうなあ。

「フリンジ」という形式になるのかなあと思った。
 演劇におけるフリンジというのは、なんか意味がいろいろあるみたいだが、要するに「勝手に好きに何かやる」みたいな形式だと理解している。俗な意味で言えば、大きなイベントがあったとしたら、その周辺で勝手に上演をやってしまう、みたいな事だと思うんだけど。

 これはいわば、公から場所を盗みとる、「勢い」みたいなもので、公共空間を一時的に私的空間に染めるという、あれだ、スプラトゥーンというゲームで、インクをぬらーっと一時的にぶちまけるじゃないですか。その瞬間だけそこはナワバリとなって、その瞬間だけ、ヒトがイカになれる。

 ヒトがイカに、なるんだよ。
 イカになるとどうなるか。
 大ジャンプができるのよ。

 フリンジってそういう事だと思う。インクをぶちまけることで、そう、空間を一時的に異化(いか)させて、ヒトがイカであることを許す。そういう空間を、勢いで作っちまうみたいな。

 そういう、インクみたいに、何か物を置けたらなあ。

 第一回豊岡演劇祭という催しに、僕の劇団は「フリンジ」として参加予定だった。前述の説明とはやや違い、演劇祭の事務局の方と一緒に連携し、場所や時間を調整しながら「フリンジ」するという形だったけれど。

 僕は、豊岡という知らない場所で、演劇をしたかった。そこに、何かを置きたかった。何かを置いて――とりあえず、椅子を一つ。それで、そこに、居てみたかった。トゲとは違うものを置き、演劇をすることで、公が思うこととは違う祈りを、好き勝手にささげてみたかったなあと思っていた。

 豊岡演劇祭は緊急事態宣言を受けて上演中止となり、そこに物を置きにいく事を、この夏に叶えることは、できなかった。今僕は、夏は暑いなあと思いながら、何ができるか。どこに、どうやって、なにが置けるかどうか。物を置くことができるかどうか。
 ぼんやりしながら、ぼんやりしている。

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