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正気を保つためにも日向坂の映画の感想を書かねばなるまい、と思った。

 このnoteを書いている山本という人物は小劇場出身の脚本家であり、劇団も主宰し演劇もやっていたのだが、現在、コロナを言い訳に表立って創作ができておらず、創作とは無縁の労働をずっとしている人として暮らしている。お金がないので自炊し飯を食べていて、それが最近特に美味しく感じる。夜になると眠くなり、よく寝れている。精神的な病状は一切ない。
 正気ではないなと思った。
 なので、日向坂46というアイドルグループのドキュメンタリー映画『3年目のデビュー』の感想を書こうと思った。こうして正気をなくしても毎日普通な顔をしていられるのは、日向坂46という集団アイドルを応援しているからかなあとも思う。
 日向坂を応援するようになった経緯はこちらの記事を参照にどうぞ↓

https://note.com/honsukesan/n/n6f6b9154711c

 また、長いよって方は以下が要約です。

・この文章を書いている山本は、正気を失っている。
・「正史」っぽいなと思った。「正史」とは、誰か(権力者)の意志が入ってる正当な歴史書の意。
・予告編の『46分間の予告編』のほうが「作品」って感じする。
・ドキュメンタリーにとって美味しいはずのスキャンダラスな事件や描写が避けられているなと感じた。
・観客を変えようと思わないまま、知らない人に知らせたいことを知らせるような映像って「広報」なんじやないか。
・泣いてても笑おうとする「意志」を持った人たちがいた。
・泣いてても笑う人たちを、「作品」であることを諦めてでも、安心して観客に届けたかったんじゃないか、監督は。
・「作品」だったら、山本は映画館に行けなかったのかもなあ。
・「宮田」に課金したいなあ。

 シネリーブル池袋に8月8日と、8月23日に、2回見た(23日はポストカードをもらったよ)。2回見たので、多少批判的な事も書いていいのではないかと思って、好きなことを、書きます。書くことで、失った正気を少しずつ、取り戻したい。

 下記の画像以降、一切のネタバレを気にせず書きます。
 映画『3年目のデビュー』他、TVで放映された『46分の予告編』の内容についてや、余談で『けやき坂46ストーリー ~ひなたのほうへ~「宮田愛萌」』についても書いてます。こちらも一切ネタバレを気にせず書いてますのでご了承のほどを。

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 〇「正史」と「意志」

 映画を見た直後に思ったのは「正史みたいだなあ」と思った。

 正史というのは「正当な歴史書」のこと。主に中国の歴代王朝が公認した書物のことを言う。王朝が認めた「正しい歴史」。大きな存在……「権力」が「こういう歴史だった」と認めたものを見た感じ。
「正史」は、しばしば「都合の悪い事実は排除されてる」っていう言われ方をする。
 や、このドキュメンタリーが真実が描かれていない、と言いいたいわけではない。そうではなくて、「これを正当としますよ」という意志を感じたのだった。

 ……意志? 誰のだろう? 書いててふとそれが気になった。メンバー? ドキュメンタリーを作った監督? プロデュースしている人物? この映画は、誰の意志によって作られたんだろうか。
 そもそも、アイドルグループの、日向坂46の、最終的な意思決定は、誰がしてるんだろう。

 そりゃあ団体結成当初は、運営団体……プロデューサーとか、会社が意思決定をやってるんだと思う。アイドルになることを望んだ1万余の少女たちは、少数の大人たちの手で選ばれ、ある意志の元、選択された。
 映画にも少しだけ出てきた「今野」という男性の人物が中心なのかなあ。映画内では2回ほど登場し、ライブの演出的なダメ出しと、あと紅白出場を告げる役回りとして出てきたけれど。
 だが、なんだろうなあ、映画内で「今野」は、それほど強く何かを選択していたり、決断しているようには見えないというか。そもそも、当たり前だけれど、メンバーに焦点があたっている映画なんだから、周辺の大人がどうかかわっているかは描かれていなくて当たり前なんだけれど。
 いったい、アイドルグループは、誰の意志で自らを決定しているのだろうか?

〇ゼロから1になった瞬間が分からない

 映画は、インタビューから始まる。そこから、日向坂が「ひらがなけやき坂」と呼ばれていた時代はどんなものだったのか。その経緯がさらりと紹介される。が、そのあたりは結構駈け足で紹介されていた。映画のウエイトとしては、日向坂に改名してからの顛末に比重が置かれている。

 ただその、最初のゼロから1になるところ……「ひらがなけやき坂」が、当初どういう感じだったのかが、わからなかった。
 具体的に言えば、このグループが生まれるきっかけになった始祖の一人「長濱」と、後に集められた1期生が、どのような関りだったのか。映画ではほとんど描かれない。

 もともとこの団体は、「長濱」という人の特殊な事情のため集められた団体。詳しくは調べればわかるので省くが、その「調べてもわからない」部分が垣間見えるのかなと映画には期待したが、断片的にしか分からない。
 こういう所がすごく「正史」っぽい。正史は極めて断片的で、事実がただ記載される。

 かつて特殊な事情でアイドルになった「長濱」という人がいました。1期生がオーディションで選ばれ、集まりました。1期生は「長濱」の引き立て役かかのような目で見られていました。だが努力してライブし人気をえていきましたが、「長濱」はもう一つの団体の兼任して忙しくて大変でした。ある日長濱はもう一つの団体の選任になり、「ひらがなけやき坂」から去りました……。

 という、事実が、映像とともに紹介される。調べればわかるような上記の文章以上の情報が、映画からは提示されなかったように僕からは見えた。
 ドキュメンタリー作家として、ここの「長濱と1期生の最初の出会い」と「苦悩」と「活躍、交流」「別れ」は、描き所と思ってしまうんじゃないかなあと思ったけれど、監督はそこを強く表現しなかった。カメラを向けていなくて素材がなかったのか。それとも、そこはそれほど強く見せないよという「意志」があったのか。
 だとすれば、それは何の意志か。

(※と書いたけど、「別れ」に相当するシーン……「長濱」が日向坂としての初ライブを見た後楽屋に挨拶しに来て、欅坂を、そしてアイドル業の引退を皆に告げたシーンは、深く心に残ったなあ。息をのみ、顔を覆う「渡邊」が、特に心がえぐられたべみほ。一つのアイドルグループが出現し、一人のアイドルが去っていく。運命が交錯した瞬間が垣間見れたのは、なんかすごかったなあ。)

〇『46分間の予告編』と「どうしましょう」ついて

 実は、「長濱」と「1期生」が出会ったくだりは、この映画の予告編として作られたTV版の『46分間の予告編』で、わりとしっかりと描かれているシーンがあった。
 1期生が初めて芸能の仕事をしたというプロフ写真? の撮影日、「長濱」がそこに尋ねてきて、メンバーと初対面するというシーン。
 「半年くらい先にアイドルになっていた長濱」と、「今日アイドルになったひらがな1期生たち」の最初の出会い。泣く人もいれば、喜ぶ人もいて。「長濱」は、戸惑いながらも、笑顔で初対面を果たす。

 印象に残ったのは「佐々木(久)」のふるまいだった。今でこそ「佐々木(久)」は、キャプテンとして、最年長の大人としてのふるまいが目立つけれど、この予告編のシーンで初めて「長濱」と挨拶した時、「佐々木(久)」はこう発言する。

「アイドルと話しちゃったー。どうしましょう」

「どうしましょう、って口にするひと、現実に居るんだあ」という感想と共に、「佐々木(久)」の最初の一歩はこんな感じだったんだなあと思った。
今でこそ「佐々木(久)」は絶対的なキャプテンとして大活躍しているメンバーだけれど、当時は自分もアイドルだという事を実感していない。当然、チームを率いるキャプテンであるという自覚も。自分の責任でそこに立っているという事も。「意志」も、まだなかった。それがよく伝わった。

 この「予告編」はよくできていて、率直に言えば映画版よりドキュメンタリーとしてのまとまりがよく感じた。映画版より「作品」になっている気がしたのだった。何が違うかというと、「見た後とみる前で世界を見る目が変わった」という事。

 観客に、世界の見方の改変をたくらんだものを、私は「作品」と呼びたい。

〇「立てこもり事件」がスルーされていた事

 映画版ではばっさりカットされていた重大な事件も、予告編は採用していた。それが「衣裳部屋立てこもり事件」だ。
 1期生がライブをする中、サプライズで「増員決定(2期生の募集)」の告知を本番前に知ってしまい、メンバーが衣裳部屋に立てこもったという、ファンの中ではよく知られている事件である。
 予告編の中、立てこもり事件の直後なのか、メンバーの一人の「影山」に手振れするカメラが向けられる。「見ちゃった?」と声をかけるスタッフ。「影山」はいう。

影山
「見ちゃだめですよね、今」
「どうしましょう。」
「無理……絶対無理……」

 「どうしましょう、ってって口にするひと、現実に居るんだあー」という感想とともに、「メンバーが増える」という事が、アイドルにとってこんなにショッキングな事だったのかということが伝わってくる。

齊藤
「これがアイドルの世界だなあって思いましたね。すぐ、追加メンバー募集やって、フォーメーションが変わって、卒業していって、の繰り返しが、第三者からみたアイドルじゃないですか。その世界だなって、思いました」

 と「齊藤」が当時を振り返ってインタビューで発言する。低く美しい声で語られるその言葉の重みが、気楽にアイドルを楽しんでいた観客の僕の認識を改めさせる。誰かが「加入」するということは、誰かが「卒業」していくこと。誰かが入ってくることは、誰かが去ることを促されるような。
 自分が何者かになれなければ、別の誰かがやってきて、その場所を明け渡さねばならないような。そんな厳しい世界に彼女らは居るという事。
 人が増えることが、喜びではいられない世界なんだなあという事が、言葉から、そしてこの「作品」から、ひしひしと伝わったのだった。

〇たくさんのナゼー

 ドキュメンタリー作家だったら、こうした「美味しい」と思えてしまうようなこの事件を、映画版は採用しなかった。ここのところが一切、なかったことになっている。
 そこに僕はなんらかの「意志」を感じる。
 なぜ、この映画ではこの事件をカットしたのか。

 他にも、このドキュメンタリーを一片のドラマとして見たら、途中で私には様々な「どうしてそこは描かないのか?」と、ハテナのあのサインが不意に浮かんだのだった。
 例えば、

・「1期生」と「2期生」は、どう出会った、どんな関係で、どう関わりを持って行ったのか。この辺りは予告編にも映画版にも描かれない。

・「佐々木(久)」が、どうリーダーシップをとっていったのか。徐々になのか、なにか舵取りを任せられる事件があったのか。
 「長濱」を軸とする団体で、いわば半年後輩の「佐々木(久)」は、どう「長濱」と接していたのか。

・2期生が合流後、「長濱」が兼任解除のため離脱する。
 どう去ったのか。最後にどんな声をかけたのか。これも映画は描いていない。ナレーションと字幕で処理されていた。

・「2期生」の「小坂」が日向坂のセンターになった。その時「1期生」は、どう感じ、どう思い、どう支えたのか。思う所はなかったのか。
 
 その辺は描かれなかった。
 突然、みんなが仲良くなっている。
 突然、「佐々木(久)」が、皆を引っ張り、鼓舞し、「悔しくないの」と気炎を上げる存在になっている。
 みんな、「小坂」をセンターだと認めている。
 いつの間にか、チームワークの素晴らしい団体になっている。
 ナゼー? 何があったのか? 1期は2期を最初どう見ていたのか。どう出会ったのか。

 そういった部分を描かないで、「この集団はチームワークがいい」「どんな困難もチームワークで乗り切った」と映画では描く。

 このあたり、ネガティブな意味で「正史」っぽい。
 ぽつん、と、点で、歴史が記述される。
 そうした点を線に、そして面に、立体に、無理にでも誘導するのが、ドキュメンタリー作品の役割ではないか。

〇 ネガティブさを避けようとする「意志」

 「子細なところに長々と映画の尺を使えなかったんだ」といえばそれまでだけど、そういった、込み入った部分を描かない。素材がなかったのか。なかったとして、なら、例えばメンバーだけでなく、離脱した現在の「長濱」にインタビューすることもしなかったのはなぜだろう。
 どういった「意志」なのだろう。その「意志」とはなにか。

 ネガティブな部分を、極力見せないようにしたいのかな、と思った。
 こういったドキュメンタリーはしばしばスキャンダラスな部分を前面に押し出して、ドラマチックに表現されがちなことがある。ドキュメンタリーが物語的な盛り上がりを無意識にか、意識的にか求めてしまい、大げさな表現にするのはよくあることだ。
 「正史」でも、時にそういうことはおこりうる。世界初の「正史」である「史記」でそうだ。史記の著者の司馬遷はけっこうやっちゃってる。有名な『鴻門の会』の逸話や『孔子と南氏との密会』とか、そのころの講談師(的な、話好きおじいちゃん)の演目をそのまま載せただろというくらい、過剰なドラマチックさがある(誰も見ていない密会のシーンで「環佩玉聲璆然(腰飾りの宝石が触れ合って音が鳴った)」って誰が聞いてたんだよ、みたいなね)。

 そういうのやめよう、過剰に泣いたり、怒ったり、感情が急変しているところを、どーんと、ドラマチックに見せるのではなくて。
 あくまでも楽しく、前向きで、へこむところがあっても、チームワークのよい仲の良い団体で、頑張って努力して活躍している団体ですよ。
 そういう部分を見せたいと……思ったのではないかなあ。

〇「広報」を「作品」とは呼ばない

 ただなあ、「それはもう、知ってるよ」と思ってしまうのだった。

 たとえこのアイドルグループを知らない人であっても、アイドルというものは表向きは、楽しく前向きで、チームワークよく、努力している。そんなことは、知らなくたって、みんな知ってるところではないか。
 すでに知られているものを、再確認するようにするものは、それは「挨拶」と呼ぶものだし、仮に観客が知らなかったとして、ただ知らせたいものを知らせる、観客の変化に期待せず、ただ知ってもらうおうとするのは、「広報」と呼ぶべきものではないのか。

 この映画は、ともすれば「挨拶」と「広報」と捉えられてしまうんじゃないかなと思った。
「正史」にもそういう部分がある。この「正史」を編んだ(もしくは認めた)王朝は、国民みなさんご存じの通り、こういう成り立ちでとなっているって事にします、と。「確認」と、「広報」のために正史は記述される。

 「歴史」は、そう記述されてよいのだろうか。

 ドキュメンタリーを名乗るのなら、もう一つ踏み込んでもよかったのではないか。少なくとも、「46分の予告編」ではその片鱗があった気がしたんだよなあ。

〇泣いてても笑う人たち

 といいつつ、見ててグッと来たところは結構あった。

「柿崎」が事情でグループを卒業する。戸惑うメンバー。だが、「加藤」はそのことをカメラに向けられ尋ねられるも、泣きながら、笑い、柿崎の門出を祝福する。
 「柿崎」の相方的な存在であると、映画の中で紹介される「高瀬」は、涙を見せることなく、笑顔で「柿崎」の選択を肯定する。「柿崎」が最後にファンの前で挨拶する会(ファン歴の浅い私にはこの会がなんなのかよくわからなかったが)にて、メンバーががんばって笑顔で「柿崎」を送る中、「佐々木(久)」だけ、崩れるように涙してしまう。それでも次のシーンで、花を抱えた「柿崎」を、「佐々木(久)」はナチュラルな笑顔で声をかける。

 「井口」が自らの失態でグループを離れるとき、「井口」の別れの言葉を聞いたメンバーは、「井口」に駆け寄り、抱き着き、笑う。大いに笑う。その後方では、泣いているメンバーもいる。でも、メンバーは笑う。笑いながら泣く。

 この2つのシーン。
 日向坂の人々にとって、笑うことは、抗うことや戦いとかじゃなくて。それでも笑うのだ。ただ単に。泣くのだ。でも最後には、頑張って笑うのだ。車輪がきしむように、音を立てて、どこかに傷を負いながらも、前に進むよう、笑うのだ。

〇「作品」であることを諦めてでも描きたかったこと

 笑う人たち。アイドルたち。たとえ、どんなに胸が張り裂けそうでも。
 この映画の監督は、これを描きたかったのではないか。そのために、過度にスキャンダラスで、ネガティブなところはあえて出さなかったのではないか。ドキュメンタリーとしてのいくつかの重要な何かをさし置いてでも、泣きながら、笑う人たち。優しく、強く笑う人たちを、観客席をゆるがせたり、ざわつかせることなく、安心して見せたかった。

 それが、コロナ禍の中、映画館に足を運ぶ人たちに対しての、監督の意志だったのではないか。

 日向坂のメンバーの、いつだって笑顔であろうとする「意志」を、「映画作品」であることはあきらめてでも見せたかったのではないか。
 それは、少数の権力を持った大人たちの思惑では、到底持ちえなかった「意志」ではないか。

 彼女たちが最後に見つけ出した『青春の馬』という楽曲に見出した、自分たちのアイドルとしての存在意義も、そうした部分だったのではないかと思った。

〇「作品」を見ることができなかった「私」

 山本は今、正気を保てない渦中にいる。
 脚本の仕事絶えてしまったけれど、人を頼って労働する口を得て、生活はできている。
 飯もおいしく食べれていて、よく眠れる。舞台で作った借金も、あと3か月くらいこの生活をしていればギリ返せるだろう。その後の生活は見えない中、まったく不慣れな労働を、明日もする。明後日もする。

 そんな今の僕は、多分「作品」を見に、映画館には行けなかった気がする。いや、行くべきなのか。私に作家という矜持があるなら、今この状況こそ、世界を変える意志を持つ「作品」を頼みにするべきではないのか。

 でも、だめだった。なんか今、みれない、そういうの。
 
 見れたのは、私の基準ではとうてい「作品」とは呼べない、女性アイドルの記録。ある種の商業広報の映像。私が仇と思っている、商業主義の中生まれたもの。

 でも、僕は、そういったものでなければ、映画館にすらいけなかった。見に行けなかった。生きることができなかった。
「作品」を見には、映画館に、というか、外に出ることすらできなかった。

 そのことが、私にとっては、受け入れがたい事実である一方、僕はそれでも、映画館にいけてよかった、労働先以外の外に出られてよかったなあ、と思ったのだった。

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(写真は映画館限定のオリジナルソーダ。注文するとき名前を言うのが恥ずかしく、無言で指をさして頼んだ)

〇余談

 ここからは余談。
 映画は、「宮田」が足りない。圧倒的に足りない。
「宮田」……宮田愛萌というのはメンバーの一人であり、2期生の最年長であるのだが、ほんとう……足りない。こういうドキュメンタリーでは、カメラを向けられにくい存在だったんだろうか?
 なので、足りない宮田成分は、日向坂の最初のシングル(『キュン』)のタイプCに収録されている『けやき坂46ストーリー ~ひなたのほうへ~「宮田愛萌」』の映像作品で補う事を、僕は強く推したい。

https://www.youtube.com/watch?v=asMJZbSBiN0
↑こちらはネットにあった予告編(公式)

 ショートドキュメンタリーというか、メンバーごとにインタビューと、メンバーのイメージシーンと、ドキュメンタリーパートで構成されている、10分程度の映像だけれど、私は、特に「宮田」のこれは『作品』だなーと思ったのだった。
 そんなわけで、ただ見たものを今から書いて説明します。
 何が描かれているかというと、「宮田が、泣いて笑う」。

宮田
「私は2期生で最年長。だからってわけじゃないけど、みんなの“共感”になりたい。」

『ひなたのほうへ』では、インタビューや、「宮田」の独白によるイメージシーン他、2期生で歌う初の楽曲のフォーメーション発表のドキュメンタリー映像があり、その発表の直後に「宮田」にカメラが向けられる。

 フォーメーションというのは不思議なもので、別に序列というわけではないのだけれど、フロントであること、センターであることのほうがより良いとされる。アイドルもファンも、その前列後列の位置については、まるでアイドル自身の評価であるかのようでもあり、さりとて、気にしすぎてもよくない……とても敏感で繊細な問題なのだった。

 「宮田」は後列だった。
 カメラが向けられる。笑顔で答える宮田。

「でも私は、自分の事だけじゃなくて、周りの人のことも考えなきゃいけないから……」

 笑顔で質問に答えていた宮田。
 たが突然、顔が崩れて、手で覆い、宮田は後ろを向く。

「何で泣いちゃう……! ……無理……。」

 泣く。
 泣いてしまう自分を叱るように、自分で自分を「何で泣いちゃう」と口にしながら、泣く。
 そして、

「……悔しい」

 呻くように出てくる言葉。「悔しい」。
 「宮田」から悔しい、という言葉が出てくるのが意外だった。そういう部分を一切見せないキャラクターだと思っていたんですよ。感情が崩れて最初に出てくる言葉が「悔しい」だった。その、陰のある言葉、普段なら表に出さない感情を、「宮田」が持っているという事が、驚きでもあったり。

「……けど、」

 でも「宮田」は、プロとして、自分をすぐに、笑顔にする。笑顔を作る。笑顔を暗い海底から引きずりだす。がんばる。また顔がゆがむ。でもがんばって、カメラを向けられているから。笑顔をこちらに「〇や」ってくれる。

「……みんなの前では、周りが見えるお姉さんでいたいから」

 って言い、その後はずっと笑顔で、インタビューに答えるんですよ。
 完璧にかわいらしい笑顔で。

「もっといっぱい頑張りたいなって。(中略)
(みんな)戸惑うことも多いだろうし。そういう時に、後ろで私がちゃんと支えられたら、いいじゃないですか。(中略)
……最年長なんですよ。だから、お姉さんでいたいんです」

 これを見た後だと、「宮田」を見る目が変わるよなあと思う。
 ファンがよく知る「宮田」は、周りを立てて、一歩後ろに下がって、みんなのためを思っているんだけれど、その根底に「悔しい」がある人だった。
 そうした「悔しさ」を、何重にも笑顔で覆って隠して。みんなのために、メンバーのために、「宮田」は後列にいる。後列から、みんなを支えている。

 この「作品」を見た後だと、「宮田」を見る目が変わると思う。そして、より強く、応援したくなる。まだ「宮田」は、楽曲でフロントメンバーに選ばれたことはない。だけどファンはきっと、後列にいる宮田を見逃さないだろう。そして祈ると思う。「僕は見ているぞ」と。

 こういう風に観客を変化させるのは、「広報」ではできない仕事だよなあと思うんですよ。

 いやー、いやー……いいよなあ。こういうの、いいよなあ……。
 あー、課金したい。課金したい……。

 ……ていう。以上、余談でした。

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