死ぬ前に一度くらいは日向坂46について話そうと思った。
ツイッターにツリー形式でつぶやいた、「それほど興味のなかった深夜ラジオや日向坂46というアイドルにどうやってハマったか」という文章をまとめました。
一万字近くあって、読みにくくて申し訳なかった。テニオハの修正や補足などを加えてありますが、「ツイッターでつぶやきながら考えた、その速度感」を味わっていただきたく。修正はそんなに入れないようにします(が、結構加えました。読み返すと、ツイッターで読んだ方がやっぱりライブ感がいい感じな部分もあるので、よければそっちも見てやってください→山本のTwitter)
また、長いよって方には、下記が要約です。
そんなわけで、以下がツイートした内容です。
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〇2020年7月22日
私、山本は今、死に近い。
具体的に言うと、今貯金が6万9千円で、25日には家賃の五万円を振り込まねばならず、また電気代水道代もまだだ。あと、2019年にやったお芝居の未払いもまだある。死ぬだろう。給付金が、6月には振り込まれると思ってしまったのがいけなかったのだ。だから6月7月を映像の企画案と脚本執筆にあててしまって働かなかったのがダメだった。まあでも、自分の責任だ。
なので脚本家として最後に何か、ちゃんと語らなきゃなあと思い、日向坂46の話をしておこうと思う。
というか「全く興味のない領域に、自分がどう没入したのか」を考えていきたい。
〇2020年、コロナの中で
3月の末頃。コロナが始まって、人々が嘘みたいに外出できなくなって、仕事もバイトもなくなり、夏ごろにやろうとしていた、映像作家と一緒に同じ脚本で映画と舞台を同じ学生キャストでやる、という企画がすべて流れたころ、ある集団女性アイドルグループに山本はハマりだした。
日向坂46(ひなたざかフォーティシックス)という。
認知したきっかけは、オードリーのラジオ番組(オードリーのオールナイトニッポン)だった。
日向坂の話をするために、まずはオードリーのラジオをなぜ聞いていたかを、いや、なぜ深夜芸人ラジオを聞くようになったのか、から考え始めたい。
(日向坂46というアイドルグループと、オードリーという芸人の関係は『日向坂であいましょう』というアイドル番組の共演者というあれで、自分がハマった動機に密接にかかわるののです)
〇今まで自分がハマったものは何か
私は深夜の芸人ラジオばかり聞いている。
あまりに聞いていたので、のちには深夜ラジオのコーナーをモチーフにした舞台(ジエン社第11回公演『夜組』→https://elegirl.net/jiensha/works/no11yorugumi)も作った。
山本は飽き性なのか、舞台の題材にすると興味がさっと冷めるが、芸人さんのラジオだけは以降もずっと聞いている。中でもオードリーは毎週聞いている。
そもそもなんで聞き出したのか。2013年くらいの時点では、ラジオもアイドルも全く興味はなかった。笑いは好きだったが、劇場に行ってまで好きでもなかったし、DVDを買うわけでもなかった。
いつだって、私が興味のあったものは、止まっているコンテンツだった。私が好きなものは、『月刊漫画ガロ』とか「三国志」とか。それらはすでに止まっていて、こっちから能動的に掘り起こさざるを得ないものだった。
好きなもの、ハマるものというのはそういうものだと思っていた。
〇2011年、震災とラジオ
さらにさかのぼって、2011年。震災のあった3月11日。
私は「うわー」とツイッターにつぶやいた。震災があったからだ。一人暮らしの3畳間の部屋で震災にあって揺れている最中だった。
ややあって揺れが収まった。テレビをつけた。港が水に沈む光景があった。原発が爆発した。「逃げ遅れた」と思った。死んだなあ、と。それでも生にすがるように、情報が欲しくてテレビのほかにユーチューブも見た。その中に5分ほどの音声動画……違法アップロードされたラジオの切り取りが、いくつかあった。伊集院さんのラジオだった。
正確にその時に、それを聞いていたかどうかもあやふやだけども。ラジオで、震災の3日後、伊集院さんの深夜のラジオが休止をするという、その告知とメッセージの3分、聞いた。絞り出すような声だった。
今思えば、芸人深夜ラジオを意識的に聞くこととなったきっかけは、そこからではなかったか。
他の人(パーソナリティー)が、震災後ラジオでどういう風に言っていたのか気になった。オードリーは震災明け一発目のラジオが、漫才だった。ただただ漫才だった。どんな内容かは忘れたし、今でも検索すれば違法アップロードされている音声もあるだろうけど。2011年、僕はそれを聞いた。たしかに、深夜、漫才を聞いた。リアタイしたわけではなく、ユーチューブでの違法アップロード物だっただろうけど。
それから、ユーチューブの違法アップロードされている芸人ラジオを意識的に検索して聞くようになった。特に有吉弘行がゲストで出ていたり、逆に誰かをゲストに迎えるラジオは集中的に聞いていた。2011年以降のものもあれば、それ以前の、世界が変わる前のものもあった。しばらく違法視聴は続き、点、点、点、で聞き続けていた。
そんなふうに、芸人が深夜にラジオにいる、という事は、僕の身体に下地としてじわじわしみ込んでいく。
〇2014年 違法アップロードのラジオにのめり込む
そこから2014年くらいか。
ある日、1年に一度くらいしか会わない劇作家の知り合いに「アルコ&ピースのラジオを聞け」と布教され、何の気なしにラジオを聴く。最初の一、二回の違和感は今でも覚えている。
「これ、面白いのか?」と。
なにか面白いっぽいのだ。だが、なんかよくわからない。戸惑いがあった。戸惑ったけど、でも翌週も聞いた。翌々週も聞いた。その次の週から投稿もし始めた。次の週も聞く。その次の週も聞く。メールが読まれる。叫び声をあげる。聞く。書く。読まれる。雄たけびを上げる。聞く。書く。書く。書く。読まれる。ノベルティが届く。書く。フリートークなんか聞いてない。書く。書く。書く。書く。かくかくかくかく……。
そうして、すっかり「ラジオを聴いて、ネタ投稿をひたすらする人」に山本はなった。さらにほかのラジオも聞く。伊集院、オードリー、有吉に手を出しつつ、さらに過去のラジオも違法動画でまとまって上がっているものを聞く。ケンドーコバヤシのテメオコというラジオがまるっと上がっており、聞き込んだ。くりいむしちゅーのオールナイトニッポンも違法動画で全部聞く。完全に違法視聴者だった。僕がどこかでラジオ好きと名乗ってはいけないのは、この罪が裁かれてないからだと思う。いずれ天罰が下るだろう。
こうして、「それほど興味のない領域」だったラジオに、ずぶずぶに足を踏み入れることになったのは、2011年の震災のなか聞いた声、違法なものたち、そして、2011年以降にも継続して週1で声を届け続けている人々によるものだった。
三国志やガロとちがって、自分が掘り進めたものではなくて、何者かの継続した行為を、とにかく享受するというか。
その人たちが、週1で、常に新しいものを作り続けていたところに、ある日、線路が切り替わって、そのレールに乗っかった。そんな印象がある。
〇「たぶん、好きにはならないだろうな」という感じ
ここで覚えているのは、アルコ&ピースのannを初めて聞いた時の違和感だった。「たぶん、好きにはならないだろうな」という、感じ。それはアルコ&ピースが悪いってわけじゃなくて、深夜ラジオの、あの感じだ。自分の知らない共通の了解で笑っている感じ。まだ、自分が中の人じゃない感じ。疎外されてる感じ。自分は前後の歴史を知らんのだなあという負い目、そこに、ぬるっと違和感があった。
その違和感を超えてまで自分がハマった理由は、2011年に「点」で聞いていた、あのころ、震災の時の伊集院さんの休止メッセージや、オードリーのラジオ漫才が伏線になっていたのかなあと思う。いや、理由をつけすぎなのかなー。
違和感があったのは強く覚えていて。けっして、ウェルカムなラジオではなかったし。僕もおいそれとハマったわけではなかったけれど。
〇2020年でもラジオを聞いている理由
そして、2020年の現在で聞いているラジオが、オードリーと、ハライチのターン、有吉snd。伊集院さんは時々。アルコ&ピースはなぜか最近、聞けてないのは自分でも不思議。ネタ投稿はすっかり辞めてしまった。リアルタイムで聞き続けているのはオードリーだけかもしれない。なぜなのか、理由はわからない
いや、「理由はわからない」はダメだ。そこの理由が分からないと、日向坂46にたどり着けない。長々と語っておいて……。
でも何でだろうなあ。なんでオードリーを聞き続けるんだろう。アルコ&ピースは相変わらず好きなのに、最近聞き逃しているのはなぜなんだろうなあ……。ちょっとツイートがとまっちゃったな。勢いで日向坂の話をつぶやこうと思ったのに。安心感か? いや……違う。なんだ……なんだ……?
〇2012年、車にはねられた話、死の話
別の話。2012年ごろ、千川のビーチブというお笑い専門の劇場に行く途中、がっつり車にはねられた。飛んだんだよ。地面に頭からたたきつけられて。
でも、無傷だった。ライブが始まるからと、運転手には挨拶もそこそこに、劇場に向かってお笑いを見たんだけど、漫才見ながら不意に「あ、俺死んだのか?」と思った。死んだのかなあと思いながら、夜にはオードリーのラジオを聞いていたのも覚えている。
僕がオードリーのラジオを聞き続けているのは、死んだからか?
もっといえば、2011年、原発が爆発するニュース中継を見たときにも思った。死んだのか? 逃げ遅れたのか? そんな中聞いたのがオードリーだった……というのは、少し創作が過ぎるかなあ。
死が、オードリーを聞かせているような気がしてならないし、死が、自分を日向坂に向かわせているような気もしてならない。
オードリーはもしかすると、死ぬかもしれないと思ってラジオをしてるのかなあとふと。……そんなことないか。推測もいいところだ。でもそう考えると、死ぬかもしれない人が、死を見せないで、生きて、しゃべっているところに惹かれているのかもしれない。(というのは、マエケン……オードリーの先輩である前田健さんが亡くなった時のラジオのトークが、ずっと強く印象に残っていて……と、この辺り、上手くまとまらないのでまた後で考えます)
全部一方的な、祈りみたいな推測だけど。
〇2018年、知らないアイドルの話を聞く
で、そんなオードリーのラジオに、じわじわと知らないアイドルの話が、2018年くらいからかなあ、増えてきた。オードリーはアイドル番組のMCをしてるらしい。
もしかしたらそれまでも、アイドルの話はしてたのか……? 例えばオードリーは2017年に深夜のアイドル番組のMC(『AKB チーム8のブンブン!エイト大放送』)もやっていたし、や、もっといえばキャンパスナイトフジ(2009~10)とか、やってたんだよなあ。でもアイドルの話題、そんなにしてたのか。印象がない。
で、とうとうラジオに、そのアイドル達がゲストにも来る。
最初の印象は「なんかたくさん人がいて、たくさんしゃべっているな」と思った。
違和感。いくらオードリーが番組で共演して面白がっていたとしても、たぶん、このアイドルたちを好きにはならないんだろうなと、その時は思った。それが、オードリーannの、日向坂の改名前の「けやき坂」のゲスト回だった。
それ以降も、オードリーはたびたびそのアイドルグループの話をする。すごく楽しそうだ。僕は全く関心がない。ただその話の切り口がよいなあと思った。若林が「ロケでアイドルに指令を出して春日をドッキリにはめる回で、指令以上のことをやるアイドルたちに驚いた」と語る話が印象に残る。気になる。気になるが、そこまで気にならない。
でもなぜか気になる。
〇アイドルなんか好きになるわけがない
そのころ、山本は借金返済のため脚本家ですらなくなりひたすら労働をし、労働をやめ、新しい舞台を作り、舞台が終わり、コロナがやってきていたころだった。すべての計画がくずれ、労働もコロナのため雇ってもらえず、ずっと家にいた。
動画をただ見ていた。作品を見る気になれず、漫才動画や古いラジオの違法動画ばかり見ていた。
ふと、若林の言っていた「指令以上やるアイドルの企画」が気になり、検索する。すぐ違法動画が出てきた。見た。おもしろい。確かに面白い。
でも、好きにはならないんだろうなと思った。
アイドルなんて、好きになるわけないじゃないか。俺は誰だ。俺は、おれだぞう。天下の泥沼、ガロ者だぞう。……無能の人! 小規模な失敗! 我こそはつげ、義春なり! アイドルは蛭子能収、ただ一人だ!
……その時見た動画は特定のアイドル個人の活躍を切り取ってまとめたもので、だからその番組の全容はわからない。山本はさらなる違法動画を求めて検索を重ねる。おもしろい。違和感は残るけど。なんだろう、見てて恥ずかしくない。アイドルじゃなくて、企画がいいからか。
その番組は『ひらがな推し』。現在では『日向坂であいましょう』と名前を変えてテレビ東京で深夜にやっている。オードリーがMCをしている番組だ。違法動画を見たその日、たまたま放映日だったので最新話を見たのだった。知らない女性がスタジオのひな壇にたくさん座っている。オードリーが司会している。MCが何かふる。アイドルがなんかしゃべる。
面白い。
〇見てて恥ずかしくない、ということ
や、面白い、じゃない。面白いって言ったけど、いまのなし。……違う違う。もっと面白いものがこの世にはある。ベケットとかさあ、チェーホフとかさあ。……面白いわけないじゃないか。女性アイドルなんだから。いかにMCがオードリーとて。ただ、まあー、見てて恥ずかしくないなとは思った。だから、それで、なんだ、検索した。違法動画ないかーと。
コロナで家にいる間、ずっと見た。全部見た。初回から全部見た。違法動画のおかげである。まだ、アイドルにはまったわけではない。ただ番組が面白い、や、見てて恥ずかしくないだけだ。だけど見てて、「顔と名前を一致させたいな」と思った。ので、二周目に突入した。wikiを参考にしながら見た。今思えばなぜ「顔と名前を一致させたい」と思ったのかわからない。いや、そこを「わからない」にしてはいけないな……。
一人、すごく気になる人が、出現したからではなかったかなあ。それが「齊藤」である。
〇「齊藤」を認識する。
女性の顔を覚えるのは苦行だった。山本は本当、きれいな女性に興味ないんだなと思っていた、それまでは。全く区別つかないや、と思っていたけど、だんだん「あ、この人は齊藤だな」とか、「あ、また出た齊藤だ」「これは齊藤の、声だ!」とか、わかるようになる。
……この時点では、全然ファンでも何でもなかったはずだ。ただ「齊藤」を知り、「齊藤」が何かしゃべると面白いぞ、と思い、「おっ、また齊藤が出てきたぞ」と……。
こうして仕事もしないで、山本はひたすら「齊藤」の動画をあさることになった。ネットは広い。「齊藤」好きのファンが、「かわいいところまとめ」などアップロードしている。かわいいところはいいんだ! 俺は、ただ、面白いと思ってるだけだ! でも見る。知らない番組にも出ていた。『欅って書けない』という。
そこで改めて日向坂46という団体が、「当初は「けやき坂46」という団体であったこと」「欅坂46という団体の、アンダー(?)という立ち位置」「いろいろあっていろいろあった」「ドキュメンタリー近日公開(3月当時)」などいろいろ知る。1期生、2期生、そして欅坂46という団体との関係性など。
「めんどうくせえな」
山本は当時、そう思った。知らないよ。アイドルの複雑な歴史……なんだ知らない用語たくさん出てきたぞ。【特例加入】【アンダーグループ】【選抜】【アンダーであり別グループ】【兼任】【兼任解除に伴う選任】……。
「知らねえよ」
山本はぶつぶつ言いながら、それでも検索を止めることなく、いろいろ知っていく。
なぜそこで、検索する手を休めなかったのか。なぜそこで「集団女性アイドルにおける”センター”とは」「坂道とは」「そもそもその先轍となった乃木坂の目指した方向性とは」……という概念を、知ることを厭わなかったのか。
なーんか「三国志っぽい」って思ったんだよねえ。
〇突然ですが、三国志がなぜ面白いのか。
三国志は、小学生時代にはまった。
もともと父親が歴史小説が好きな人で、歴史小説を知っているという事が格好良くも思えたし、本もたくさんあった。三国志に挑戦しようと、小学三年生の時、モンキーパンチが表紙絵を描いた児童書の三国志があり、それを読んだのがスタートだったなあ。
三国志の面白いところは何か。「人がたくさん出てくる」「人が、物語を盛り上げるためではなく、その人の不注意や寿命のせいで死ぬ」ところに、嘘がないな、と思った。子供アニメが恥ずかしいと思っていたところに、主人公がピンチになっても「どうせ死なない」という点を恥ずかしく思っていたのだった。
三国志は、盛り上がる前に死ぬ人が多い。ライバルを倒さず病死ってなんだよ。そこに緊張感がある。物語のためではなく、一人一人が、一人一人として生きている。主人公格だからって、天は贔屓したりせず、病気になったらあっさり死ぬ。一人一人が、一人一人として、そこにいる。
〇アイドルと「恥ずかしくなさ」と、齊藤の面白さ
「齊藤」が、そして日向坂の人たちが面白いのは、「一人一人が、一人一人として、悩んだり苦悩したりしてる」。
そこに「恥ずかしくなさ」を感じたのだった。アイドルとして、誰かに言われたキャラや格を纏って動かされてるんじゃなく、期待されてない自分だからこそ、動かなければならなかったこと。
「齊藤」というメンバーにまず目についたのは、アイドルなんだろうし、そういう(美しい)容姿もあるんだろうけれど、それ以上に、突出した(アイドルらしからぬ)「齊藤」の部分を、誰に言われるでもなく自分でやってしまっているというか、あふれ出てしまっているというか。
その、自分自身の、アイドルらしからぬ部分のあふれ出方を、オードリーをはじめとした番組いスタッフが面白がっているなあと思った。
そして他のメンバーも見ていくと、「アイドルなんだろうけど」って感じの容姿があるのに、それ以上の「アイドルらしからぬ」何者かであろうことを、自分で選んで出している感じが各々見えてきた。
プロデュースされてないというか。場と、ルールはもらってるけど、勝ち方は自分で決めてっていうか、勝ち方を教わる暇がなかった人たち。
それは日向坂という団体が「明確にこうしようと戦略があって集められたわけじゃなく、集められたはいいが、運営がどうしていいかわからない」という特殊なスタートをしてたこともある、だなんて資料を見ればわかることを言うが、そんな感じ。
誰からも期待されてない以上、自分で走り出さねばならない。
〇アイドルのアンチだった、にもかかわらず
いままで僕が集団の女性アイドルというものに抵抗や違和感、もっといえば、「男性のプロデュースという名の力で女性から搾取したものを、他の男性に分配している」みたいな偏見があった。
私は、アイドルアンチだった。嫌悪感があった。
のに、これだからわからない。アンチから、ファンになったのだ。
アンチですら、楽曲をツタヤし、雑誌を買い、番組を欠かさず見るようになった。ひとえに、メンバーの力とも、それを支えるスタッフの力ともいえる。アンチに物を買わせて、応援までさせるのだ。
〇こんなにこんな好きに、なっていいのかどうか
日向坂にいえば、プロデュースをし作詞をしている人物の影響が、極端に薄い気がする。調べたら、改名後デビューした時の楽曲をとっさの判断で急に変えるなどして、やはり主導権は握っているらしいのだが。
一人一人が、一本の欅から、勝手に生えて育って、勝手に色づいていく。誰かに色を付けさせられたわけではなくて。ほっておかれて、誰からも必要とされないという大切な時間を、自分たちがどうすればいいかを考えたり、失敗したりするために遣った。だから、「恥ずかしくなく」みえる。
誰かに、何かをさせられて、自分の意志も責任もなく舞台に立たせれることほど、つらいものはないなって思う。環境のせいで、そうさせられてしまう事が、私には違和感がある。誰からも愛されない格好良さが私は好きで、誰からも愛されなさを知っている人が、僕には愛おしい。
〇アイドルにハマる「私」と「僕」
ただ「私」は一方で、「僕」が日向坂にはまっていくのを、まだ良しと思っていないのは、新潟のことのほかにもいろいろある。「本当の意味で、いい作品を作れるのか。作ろうとする意識はあるのかな」と、「私」は思う。楽曲のかっこよさ、強さ、作品としての美が、今の日向坂にあるかどうか。
何十年後にアイドル志望者がそのオーディションの時に、今の日向坂の歌を歌ってみたいと思うかどうか。作品として強い楽曲、代表歌が、いまだ作れていないのではないか。と、「私」は思う。「僕」はどうおもうよ?
「僕」は、ただメンバーが楽しく、面白く、かわいくなる曲であれば全然いいなあと思う。湯水のごとく金使う。日向坂の曲はPVと共に聞くのが本当にいい。脳が溶けます。最近、死を思うじゃないですか。そんなときに『キツネ』を聞くんです。死が遠くなって、脚本は明日書けばいいやっておもうやん……。
アイドルを好きになってから、「私」と「僕」の乖離がすごい。
いまだに「私」は、アイドルが好きになった違和感から逃げられない。意識は一つだから、そりゃあ、顔と名前は全員一致した。4月には全員の名前がわかるようになった。どういうわけか「河田」だけ、最後まで覚えられなかったのが不思議だ。
でも「僕」は楽しい。ずーっと楽曲を聞き、ブログを読み、まとめサイトを見続けている。あと数日で生活が破綻するというのに。
「私」は、このコロナの中で死を思い、「僕」はアイドルを好きになって死を忘れている。こうやって両方が手を取り、日向坂の番組を見つつ、僕は没入し、私は「どうすれば、こんなに好きになっちゃったかを、恥ずかしくなく人に伝えられるかどうか」を考えている。
「私」はまだどこか、恥ずかしい。「僕」は堂々としている。
〇「全く関心がなかった」人が、振り向く理由。
創作をするうえで、ものすごく重要な事として、「全く関心がなかった/むしろアンチだった」人を、好きにさせるということがある。日向坂の場合、「作品で」ではなく、アイドルとしてのふるまい、生き方、演じ方、でそうなっているのだけれど。
そこに、私が今後創作していくうえで、ずっと悩んでいる事への解の一つがあるような気がする。全く関心がない人に、面白がってもらうためには、ハマってもらうためには、どうしたらいいのか。もともと関心があるような人にだけに向けて、創作をし続けていいのか、身内にだけ面白くていいのか。関心を超えた向こう側にいる人に届くためには、どうしたらいいか。
それは政治にも言えることで、反対意見の人を、どう自分の意見に納得してくれるか。賛成してくれるかを考えることは、世界を変える手段を考えることでもある。
前提にまず「死」が近いこと、危機感を持っている事が、お互いに変化する前提なのかなあ。
山本はずーっと死が近い。金銭的、社会的にだけど。37歳で、ほぼ無職。40歳以上のフリーランスには、一切仕事は回ってこないらしいので、あと3年でなんらかの何かにならなければ、死ぬ。死にかけながら、山本はアイドルを好きになった。
こうした死が近い人は、今すごく多いんじゃないか。学生さんも、若い人も、両親とうまくいってない人とか。
日向坂のメンバーも、アイドルとしての「死」が、いつだって近かったんじゃないか。
コロナで、みんな、死が近い。
権力を握っておきながら何もしてない高齢の男性くらいじゃないか、死なないと思っているのは、今。
その、死の近い人に、どう寄り添うか。どう姿を見せるか。どんな作品を見せるか。どう、作品を見せていくか。
日向坂の人たちは、「自分で決めて、走りだす姿」を、見せざるを得ないところからスタートし、私はそれを目撃した。
〇走りだす瞬間を、私は見ている
走り出して以後はどうなるのか。トップスピードを保つのか、坂道を登り切ったら、走るのを辞めるのか。それとも、死ぬまで加速し続け、走り続けるのか。
その姿を、私も毎日追っている。毎日見ている。
それにしても、僕が好きになったものの中で、これほど毎日情報が更新されるメディアはなかった。いままで僕が好きになったものは、僕が好きになって、本を探して、研究して、時に自分で創作し、自分で盛り上げなければいけなかったのに、現行の商業アイドルはすごい。毎日情報が更新される。毎日コンテンツがある
……いや、毎日、メンバーのブログが読めるんだぞ? 三国志でいえば、毎日曹植が7歩歩いて詩を吟じてくれたり、毎週中国で朱然の墓が出土して副葬品が紹介されて三国志民俗研究が進んだり、毎月甘寧が城を落として一番乗りしてくれるような感じだぞ?
何もしないで、ただ消費するだけでファンを……おひさまを名乗れるというね。こんな……いいのか? なにもせず、ファンになっていいのかってくらいあれだ。戸惑いがあるのよ。
知らない領域に新たに僕が行く、その理由の根本に死があって、その場所から手を引いてくれるところに、彼女たちがいた。誰に言われるでもなく、自ら走り出す瞬間の人たちがそこにいた。その走り方をみながら、気が付けば違う一歩を踏み出しているのかもしれない。
まあ、その一歩の踏みしめ先が、沼なのかもしれないのだけれども。
〇余談
ここからは余談。
「おひさま」としての活動として、脚本の打ち合わせで不意にキャスティングの話になったとき、「最近……日向坂っていうアイドルグループが、演技もうまくてねぇ」という話をサブリミナル的に入れている。
「映画ねー、小坂って子がこないだ映画出てたけど他にも演技上手いメンバー多くて」「脚本のイメージキャストっていうか、ま、外見としゃべり方はね、丹生ちゃんっていうのがいましてね、日向坂に」「丹生ちゃんいいですよね演技できそうで」「丹生ちゃんいいんですよ」「丹生ちゃん」「ニブチャン」……
これが僕の「おひさま」としての活動です。
そして、アイドルの話をすると、「推しは誰ですか」と聞かれる。そんな、無粋じゃないですか、誰が好きとかべみほ。そんな特定の一人を推すとかじゃないんですよ日向坂はべみほ。そもそも、推すって概念がこう、なんていうんですか? 前時代的なものと思うんですよねえべみほ。
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