見出し画像

演劇以前の演劇の話 【第3回】「体調悪い」

「なーんか体調わるいんだよねぇ」
 という言葉が、演劇の稽古場から消えてしまったなあと思った。これは演劇の現場だけではないだろう。職場だったり、町内会の集会や商店街の店先、老人ホーム、あるいはデート現場にだって、この言葉が出現することがあった。大体、出会って冒頭に言う。話しやすい相手に、時候の挨拶のように、体調の悪さを、ぼんやりと言っていた。

 今、この言葉を口にすることはできない。少しでも体調が悪い場合は、人と会ってはいけないからだ。少なくとも演劇の現場では、体調の悪さを表明することはあってはならない。

 このコラムを読む未来の読者の方はピンとこないかもしれないけれど、今――2021年の9月というのは、日本全国で疫病が流行っていた頃だ。詳しくは未来の時代には実装されているであろう、スマート脳髄のマザー海馬にジーンリンク(遺伝子接続)し、当時の状況の資料情報因子ペプチドに神経を流してもらうとして。そう、それ以前には、こんな言葉を口にするシチュエーションと言うのが、確かにあったのだ。

「なんかだるいというか、こう、調子よくないんだよねぇ」
 こういうことを言いながら、稽古場に来ることがあった。自分の体調が悪い事、コンディションの調整がよくなく、ベストではないという状況を、聞かれもしていないのに周囲に投げかける言葉。
 未来の方にとっては、意味不明な言葉に思えるだろう。どういう動機でこんな言葉を口にしているのか、と。

 動機を説明させてもらえば、
「体調が悪い、と言うことにしておいて、今からする仕事や練習の結果が、あまりいい結果ではないかもしれないが、それは自分のせいではなく、不可抗力の体調の悪さから来るものであり、自分には責任がない。悪いのは全て病気のせいであり、ふがいない結果をだすことは、自分のせいではない、という事を、前もって周囲に知ってもらい、自分の成す愚かしい失敗やダメであることに、私の責任が少ない――ない、という事を、皆さんにあらかじめ知っておいてほしいんです。だから、つまり、なんというか……優しくしてほしいんです」
 とまあ、こういう動機で、こういうことを言うんです。

 え? と未来の方は思うかもしれない。
「意味は、分かりました。しかしそんな動機を持つ意味が分からない。練習や人と会って何かを成すとき、時に失敗やうまくいかなさがあるのは当たり前で、そこにまず責任を感じたり劣等感を感じる必要がまずないし、またその責任を放棄しては、失策も含めての人生なのだから、あなたの人生の選択の主体の尊厳を放棄することにつながらないか。さらにその、何かのうまくいかなさを個人の責任ではなく、病気や体調のせいである、という事を周囲に認識してもらう必要性が、全く理解できないのですが」
 ……そんな風に思っているのではないでしょうか。未来の方は。
 でもですね、稽古場で、あるいは仕事場で、デートの朝で、何か失敗してしまったら、いや、絶対に失敗するのだ、上手くいかないのだ。その上手くいかない事の責任がこれから降りかかってくるかと思うと、たまらなくつらいのです。もう本当につらい。自分の出来なさ、ダメさを、他人の目を通して自分が再確認するのは、本当につらいのです。

・・・・・・・・

 少しでも体調が悪いなら、そもそも稽古場に来てはいけない。疫病が感染する可能性がある体調が悪いなら、不急に人と会うべきではない。体調は万全でなくてはならない。人と会う時は、ベストな状態ではなくてはならない。
 そんなことは、本来ならば疫病が流行る以前の世界でもそうだった。でも、疫病が流行る前は、必ずしもベストな体調でなくても人と出会う事、人と何か仕事をなすことは、どこか許されていた。

 いや、だめな言葉なんです。
「なんか昨日、寝不足で、体調悪いのに酒も飲んじゃって、頭痛いんだよなあー」とか言って稽古したり、人と仕事したりするのは、本当周囲に対して甘えであり、プロの態度ではない。
 プロならば、大人ならば、君子ならば、人と仕事するときは自分の体を仕上げ、体調を万全とし、いいわけを持ち込まず、堂々と胸を張って人と会わなくては。そうでなければ、人と集うという一期一会の機会に失礼にあたる。

 そんなことはわかってる。わかってるんです。未来の方。でも、当時は、日常的になんとなく出てしまっていた言葉だったんです。

「なんか、体調悪くて、」という言葉で始まる演劇の稽古がなくなる。
「なーんかだるいんだよねぇ」と口にするダメな人がいない演劇の稽古場は、緊張感と、自己責任と、そして金銭の有無とかそういう意味ではなくて、「プロ」としての自覚のある強い人たちが集う場所になっている。
 体調の悪さを口にしない人たちが、2021年の今、演劇を作っている。
 それは、良い事なのかもしれない。疫病を経て、更新されているところなのかもしれない。稽古場に体調万全で来なくてはならない。そんなことが未来では当たり前になっているのだろう。

 でも、かつてはあった。「体調悪いんだよなあ」と周囲に言い訳しながら、やっと現場にきて、ゆるゆると作られていた演劇と言うものが。

 私も今、こんな中でも演劇の準備をしている。こんな中でも演劇をすることを決めたのだった。決めた以上「体調わるくて、なんか口が臭いんだよ、今日ー」という言葉は、絶対に稽古場では言わない。そう決めた。これは、そうしないといけないからだ。そうでないといけないからだ。これは、更新しないといけないところなのだ。
 
 たとえ、僕の表現のルーツが、そうしたダメな感じ、体調の悪い感じ、ダメさをだらしなく表明してしまうだるさ、だるさからくる緩さ、緩さからくるうまくいかなさ、諦念、それでもそこに、ただ居てしまう、それを許してほしいと願う、だらしない祈りだったとしても。

 それらを更新しなければいけない。そうでなければ、演劇ができないのだ。

 演劇以前に、そういう生き方は、もうできないのかもしれない。未来では。それは喜ばしい事になっている事なのかもしれない。人と仕事をするときの態度が、疫病によって、ちゃんとするようになり、社会全体でレベルが上がった。
 だから未来ではきっと、よい社会になっているのだと思う。良い方向に行っている。それは私たちが今、考え方や態度を更新しているからだ。

 と同時に、私は私の中の、大事なものを捨てつつある。疫病の中でも演劇をしたい、という事をやるのならば、「体調悪い」とつい言ってしまうだらしなさという、ずっと僕が大切にしてきたものを、捨てなければいけない。

 そこまでして演劇をやりたいのですか、と未来の方は思うかもしれない。
 そこまでして演劇をやることで、未来に何か残せるんじゃないかなあと思っています。いつだって体調が悪い感じで、だらだらして、それでも何か、ぶつぶつ言っている人から発せられるどうしようもなさが、確かにここにあったという事を、演劇をすることで、未来の方を通じて、こう……、さらに未来へ伝言いただけるんじゃないかなあと、そう思っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?