見出し画像

1-8 売り場明日リバース 単数と複数の限界

要塞の抜け道のように汚れた階段を休憩室に向かうために上るんだよ。いくつかの面で組み立てられるこの店舗の1階が食品売り場、2階が日用品売り場、3階が客の入ることがない聖域なんだな。大学生でない僕にはもう一緒に休みに行くような友達はいないのだ。

僕は自動販売機のメロンソーダが放出されるボタンを押したよ。紙コップに氷の粒が流れ落ちるのに併せて、毒のような鮮やかな緑色の液が勢いよく発散されるんだ、店は奇跡の集合体であるよね。僕はパイプ椅子に座るんだよ。外は鳩たちの観察に適したさわやかな良い天気なんだよ。

「今学生だっけ」僕に話しかけてきたおじさんがいるよ。

この人物は副店長を務めている者で、僕がこの場所でずっと休憩時間を共有していた大学院に進学した同級生と同じ苗字の持ち主でもあるよ。彼もお休みの時間だったんだね。

「今学生じゃないんですよ」僕は答えたよ。

「学生じゃないのか!」彼は応じたよ。

「この前卒業したので」

「ひとり暮らしか」

「ひとり暮らしなんです」

「働いているのはここだけか」

僕の生活に関して核心を突く類の質問だよね。

「もうすぐ別のお店でも働くことになりそうなんですけど」僕は話したよ。「この前面接に行ったので」

「もうすぐ別のお店でも働くのか」彼は応じたよ。「そうだよなあ、うちだけだったら生活できないもんなあ」

正社員でない者は特別な契約を結ばない限り、正社員の半分程度の労働時間しかお店にいられないんだ。僕が働ける時間は、たとえば食品売り場の主任の半分に満たないんだよ。パートタイムだから。ほかの店員たちの多くがそうなんだ。この店と同程度の時間働くおばさんなどは多くいる。その点、副店長はこの店舗に長時間いられるし、また、いなければならない。

自分と相手がいて、自分と共有しているこの場所以外に、相手の居場所が別のところで確立されているんだよ。一度に見られる面は1つだけで、対象からちょっと離れれば2つや3つ見ることができるかもしれないけど、可視の面よりも不可視の面が多いのである。世界は一面だけではないからなんだ、見方によっては一面になるだけでね。

「ほかの店って、どういうお店なの」副店長はさらに言ってきたよ。

「あっちのほうの」僕は具体的に店舗名を述べたよ。

「おお、そっちか」彼は頷いたよ。

「あっちでは青果のほうの担当になるかもしれないんですけど」僕は追加で教えてあげたよ。

「青果か」彼は繰り返したよ。「じゃあうちでの部門とちょっと違うなあ。食品のドライだからなあ」

「そうなんですよね」

「いろんな所でやるのもいいかもしれないしな。大体どこの店も仕事は同じようなもんだからな、店員の仕事っていうのはな」彼は言ったよ。「向こうも、うちでやってるような若い子をとれるようならありがたい話だよな」

「どうなんですかね」

「いや、それはそうだよ。若い子を採用してもちゃんと働いてくれるとは限らないからな。すぐ辞める子も多いからな。来なくなる子とかな。ちゃんとした子を採れるならいいことだよ」

採用の話を持ち出している副店長だよ。僕が見ていないこの店の部分を見ている、見てきたのだろう。そういえば僕がもう1つの店に働こうと面接しに行ったときも会ったのは副店長だった。

「もうすぐ働くの」この店の副店長は質問を重ねるんだよ。

「来月くらいからだと思います」僕は答えたよ。

「こっちのシフトはそのままで?」

「そうですね」

「向こうは、青果ってことは、午前中働くってことか?」彼は考えるように発したよ。

「そういう感じになると思うんですけど」

「そうだよな。青果だったら朝の8時に始業とかになっちゃうもんな」彼は頷いていたよ。「じゃあそれで、向こうで午前中働いて、そのあと少し休んで、うちで夕方に来るわけか」

「そうですね。勤務日が同じ場合は」僕は肯定するよ。

「ちょうどいいといえばちょうどいいのか」

「ほんとはこっちで仕事終わってから、向こうに夜ついて、それから深夜で朝まで働くのもいいかなと思ったんですけど。あっちは24時間営業なので」

「なるほどな。でも大変だろう。それは」彼は意見したよ。「こっちで働き終わってから向こうに行くのは」

「向こうが青果で働く人が少ないみたいなので」

僕はその後も副店長と話をしていたよ。休憩時間が彼と重なるとこのように会話が生じることがあるのかもしれないな、今後も。僕は紙コップに残った、薄緑色がかかった小さな氷を流し台に、紙コップをごみ箱に捨てるのだったよ。この店の僕の居場所である1階の食品売り場に戻るんだ。

たくさんの要素を内包しているスーパーのなるべく多くをわかっていたい気持ちだよ。僕はまだ果物や野菜の売り場を整える役割を担ったことがない。取り巻く環境は広大で、身体を1つしか持たない僕が全てを目にすることをできないのは大前提である。

ほかの目の対象としての僕も。僕は表面しか見せていない。見るためには、本気で見ようと努めて工夫しなければならないんだよ。見る気がなければ見えるはずがない。別面に言及した副店長は別面に気づいたからなのだ。

隠れているものが多い、そのように感じるのは見ようとしているものが多いから。僕は見る者として場に臨みたいんだよね。見るか見ないか、見えるか見えないか、見せるか見せないか。一部は構造の問題で、一部は意志の問題で、一部は能力の問題。ここが非固定の塊であることを僕は再認識する。刻々と覆しのときが迫っているのは確かなんだよね。その覆しの種類を把握しきれていないだけで。


【本質のテキスト1「売り場明日リバース EX面」に続きます】


1-EX 売り場明日リバース 現実と仮想の世界

世界が転じたよ。この店に音楽が流れている。数年前に世を席巻した有名な曲で人間の声は含まれていない。終わると別の趣の旋律が始まった。

僕が知っていた店ではなくなってしまった。今までそんな場所ではなかったのに。響き渡る店内放送といえば店長などによる宣伝、サービスカウンターのおばさんなどによる迷子のお知らせなどだった。

急だ。僕が最後に出勤したのは昨日。そして昨日はいつも通りだったよ。事前に誰も僕に教えてくれなかった。パスタなどの十字路で僕は主任の姿を見つけたよ。

「音楽が流れるようになったんですか」僕は質問したよ。

「今日からね」彼は回答したよ。

僕は主任から離れたよ。店舗でバックグラウンドミュージックを発生させるのは客の購買意欲を高めるからだと僕は過去に書物で読んだことがあった。至ってありふれた環境構築だよ。あらゆるお店に曲は満ちている。

スイッチが入れられた。鳴らないから鳴るに変化しただけの単純な出来事なんだよ。事前に考えられなかった自らを悔しく思うよ。なぜ考えられなかったのか。その厚みを持つ面との交点を持たなかったからだ。

まず輪郭をつかまないと話が始まらない。電源、期限、人間。一筆書きでは示せない複雑な図形の売り場なんだ。面と面が合わさって別の面になり、面と面がぶつかって箱を生成する。まだ僕が気づいていない過多な面で圧迫される。

紙が僕の手で捲られるように売り場が何かの手で捲られる。紙が僕の手で捲られるように僕が何かの手で捲られる。止まっていたように感じられたよ。でも、無から有へ有から無へ、覆る。反転して反転して反転して表か裏なのかわからなくなり、しかしはっきりしているのは以前とは違うということ。

次は何が覆るのだろう。最後には、店から僕がいなくなる。店もなくなる。その前に店はどうなる。においかな。臭くない売り場が明日から臭くなる。そういう事件もあった。あのときは大変だった。今日は臭くない。臭くないよね。読み手に僕が届けることはない。悪臭も旋律もない。

なぜならここはテキストだから。拡大し続ける多面体の分解を通じて抽出された言葉、それらを緻密に組み立て直した僕は時空を超越したうえでテキストの僕という新たな面を押し付ける。ここが僕の世界だよ。読み手が自らの目の焦点と僕が残した字を移動させる。収まらぬひっくり返しと上書きする理解。上下、左右、前後、遠くのほうへ。じっとしているうちに天地は逆さまになったりならなかったり。この形は何だろう、いくつあるのだろう。座標に配置された万物の変わりが変わらずを、変わらずを変わりが引き立て合う。

僕には声が聞こえる。品物の位置を知りたくて僕を呼ぶ客の声。言葉以外のたくさんの動きと静まりを全身で受け止める。光、色、風、硬さと柔らかさ、温かさと冷たさ。ありのままの本当の現実世界はテキストで構成されていないのだろう、それらをどれほど見つめても文章の整列は浮かび上がってこずどれほど解いても文字の欠片は転がり落ちてこない。言葉なき景色のなんと美しいことか。ところが言語化せねば僕ではないのだ。

接客対応しないといけない。ここも僕の世界だよ。覆る僕が確かにいる。でも覆らない僕もいる。大丈夫だよ。立脚するフロアを案内のために一緒に歩いていける。カレー粉はこちらに、いちごジャムはそちらに、ほたての缶詰はあちらに。

【“覆しのテキスト”「売り場明日リバース」が完結しました】


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?