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1-6 売り場明日リバース 混沌と秩序の魔界

代わりに僕たちの売り場にやってきた新しい主任は、これまでの主任と同じ程度の年齢にも見えるけど体つきはやや細く背丈は少し低く眼鏡をかけている男で、殺人事件のテレビドラマなら犯人役でも被害者役でもありえそうな普通の容貌である。

「学生?」主任は僕に尋ねたよ。

「今月までは学生なんですけど、4年生で卒業したので、もう学生じゃなくなるんですよね」僕は説明したよ。

「じゃあまだいるんだ」

「そうですね」

「よろしくね」主任は言ったよ。

新年度の始まりだよ。出勤の日、店に着いた僕はまだ始業までに時間があるので飲み物を買おうと客として売り場を歩くんだよ。労働の前に買い物を済ませる労働者はこの店で多いよ。効率的な動きだよね。

今日はなんだか若者の姿が多いね。母親、父親と思われる人物とともに店内を歩いている。18歳くらいの女子だが、手に提げた半透明のレジ袋からまな板、フライパン、ごみ箱などがはみ出しているのが視認できるよ。1階の食品売り場ではなく家電製品や衣料品など日用雑貨を揃える2階で購入したものだ。

大学へ進学した若者が、これからの暮らしで使う物品を買い集めているんだよ。地方から引っ越してきたんだ。親が運転する車でこの街に訪れ、荷物を載せて子の住むアパートまで運び一緒に配置するのだろう。この店舗で物品を買うということは僕が通っていたあの大学に入学したのかな。僕も4年前そうだった。

大学生でなくなった自分の感じ取りを正直に明かすなら2つあるよ。1つは解放。講義室から出たんだ。学校による縛りの消滅を意識しないわけにはいかない。僕をポジティブな気分にさせるよ。

そしてもう1つが僕をネガティブな気分にさせるものだが、閉塞なんだよ。飛び出たはいいが、こちらの空間のほうが広大かどうかはまた別問題だよ。

携帯機器を開いてニュースを覗く。僕と同い年の動物の動向と動作を動画で見られるんだ。示されている文字は「各地で入社式」。僕は卒業式を休んでも入社式は休まないのだろう。

「飲料を手伝ってほしいんだよね」主任は僕に声を掛けたよ。

「飲料ですか」

「人がいないんだよ」

僕は飲料売り場に向かったよ。1階の売り場にはバナナやキャベツなど青果、かまぼこや納豆などチルド食品などの部門があるわけだが、僕が所属するドライ食品の部門の内にはやや独立した専門領域として飲料と菓子が存在する。

それらに僕が関与することは普段はないよ。補助する場合はあるけどね。たとえば夏の間は暑いので、お茶や水、スポーツドリンクをはじめペットボトルに入った飲み物が盛んに店から持ち出されていくため、よく僕たちは飲料コーナーに回される。しかし今は春だよ。

「飲料の手伝いに行けって言われたんですけど」僕は飲み物売り場の支配者であるおじさんに話しかけたよ。

「今バイトの子誰もいないんだよ」彼は答えたよ。

「そうなんですか」

「新しいシフトになると土曜日誰もいなくなるんだよ」彼は情報を足したよ。「今のままだと俺1人だけになる」

「そうなんですか」僕は現行の飲料メンバー全員を思い浮かべたよ、2人が大学院進学、1人が就職、1人が留年だったかな。頼れるあの彼も土曜チームから外れた。

「台車を運ぶから」彼は言ったよ。

飲み物の支配者と僕はバックヤードに向かったよ。僕たちの背丈ほどの箱の形をした台車には、大型のペットボトル6本、または8本が詰められた段ボール箱を、一概には言えないが6×4か5くらい積み置くことができるかな。

この台車が倒れたり、あるいは4つ車輪が人間の足を轢いたりしてしまうと恐ろしいので、安全のためこの車は2人で運ぼうと店が従業員に要請するようになったんだよ、前後に1人ずつ配置するやり方でね。

飲み物の支配者が台車を引っ張り、僕は台車を押すのだったよ。店を去ったおばさん従業員から聞いたけれど、正社員は転勤を重ねて各店舗で経験を積む一方、非正規の働き手は1つの店への貢献を何十年もの間継続するためその者のほうが店を牛耳ってしまいがちで、この禿頭も実質的にはリーダーと言えよう。

ただこの飲み物の支配者は決してずっとその最高位に君臨していたわけではない。以前はチルド食品部門で朝から昼にかけてキムチやわかめなどを並べていたらしく、さらにその前はドライ食品の一般部門で昼から夜にかけてスパゲッティや小麦粉などを並べていたらしい。

「このお茶、あっちにも出てるから時々チェックして」彼は僕に指示を出したよ。

僕はその緑茶のペットボトルを見たよ。飲料コーナーは商品の種類が少ないのが特徴で、1種類の商品だけで多くの空間を占有する。たとえばふりかけは1種類の商品だけでこんなにスペースを確保しないよ。大ざっぱで単調な造りなんだ。ここは異世界だ。

飲料商品は重い。非力な者にはきついだろう。僕は若い男というカテゴリーでは力持ちではないが人間というカテゴリーでは力持ち。僕に宿ったパワーの偏差値は前者では50くらい、後者では64くらいかな。知らない。

「飲料どんな感じ?」主任がバックヤードで、僕を見つけて話しかけたよ。

「やっぱり多いですね」僕は答えたよ。「なんか、土曜日誰もいないとかって」

「そうそう、誰もいないんだよ。バイトの子が」彼は頷いたよ。「だから、基本的に土曜日は、飲料お願いするからさ」

「そうなるんですか」僕は少し驚いたよ。

この前までコーラを売っていた場所にあるのは果汁が何パーセントなのか知らないみかん味の清涼飲料水だよ。置き場所を決めるのも飲み物の支配者の役目である。決定権を持つ人は1人でいいんだよ。

「箱は全部空けちゃわないで」飲み物の支配者はイライラした口調で僕に言うよ。「箱のも残しておいて」

「箱?」

彼の主張は、飲料商品の用意の仕方を2パターンにしておくべきというものである。缶ジュースなら、缶1本ずつのいわゆるばら売りの状態のものと、4×6の24缶が詰められたいわゆる箱売りの状態のもの、両者を備えておと。それが、僕が全ての箱を展開したために彼は気分を害しているのである。

「前は箱は『ないならないでいい』って言われてましたけどね」僕も伝達したよ。

前の主任のときはそうだったのである。彼は飲料売り場について、あるときそのように言っていたんだよ、箱状態のものを用意しておく必要はないと。

「やり方が違うだろうけど」彼は怯んだように言ったよ。

閉店のころ、僕は疲弊しきっていたよ。重いものをどれだけ運んだんだろう。本当に誰も働き手がいないんだね。労働力不足だよ。だからこの店にとって僕が残ってくれてよかったんじゃないですか。僕が卒業後に別の企業に正社員として就職していたら今日このおじさんは1人ぼっちだった。

「辞めたいと思いますか」彼は僕に質問したよ。

「まだ辞めないですけど」僕は答えたよ。

「俺が辞めるよ」彼は言ったよ。

「そうですか」僕のほうが先に辞めるよ!

【本質のテキスト1「売り場明日リバース」の「7面 安定と動揺の視界」に続きます】


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