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1-5 売り場明日リバース 強者と弱者の各界

大学の卒業式があとひと月もしないうちにあるみたいだよ。きっと大切な儀式なんだよね。僕は、僕自身は行かなくてもいいと思っているよ。開始時刻が朝早いからね。

催しはキャンパスから半日歩いて着ける巨大な建物で開かれ、そこなら僕たちの学年全員である1600人くらいを収容できる。卒業できないのは80人くらいなのかな。

僕が卒業できそうなのは良かったよ。この前の教育実習も無事に終わったしね。僕は一時期大学の卒業を危ぶまれていた。なにしろ1年生後半に受けた講義の数は0。あの頃の僕が通っていたのはスーパーだけだったよ。

僕の同級生の中には現在も僕が今年卒業できないと思っている者もいくらかいるみたいだけど、踏まえるべき点だが、僕は不登校の時期があっただけで不登校じゃない時期は真面目な学生だったからな。国語専修の中では僕は最も賢い部類だよね、卒業論文も優秀賞を頂いた。

卒業はするよ。しかし繰り返し述べるが、卒業式には行かないよ。入学した4年前も入学式に行かなかった。正確に言うと式自体が存在しなかった。黒い津波が建物と街を滅ぼしたくさんの人を死なせたあの震災の直後の時期だったから、開かれなかったんだ。今度僕たちの卒業式が開かれるのと同じ建物で開かれる予定だったらしい。

一方でちらし寿司。ディスカウントスーパーの食品売り場だよ。訪れる者に季節を感じさせないといけない。数週間前まで餅を置いていた場所だったが様変わりし、ちらし寿司を簡単に作るための具材が並ぶ。透明な酢が入った瓶、黄色い錦糸卵、黒い刻み海苔なども。

「お酢って、この種類しか置いてないですか?」若い女が僕に話しかけてきたよ。

「あっちのほうにもっとありますよ」

「黒酢とか、なんかブルーベリーの味のお酢とかってあります?」

「あっちのほうに」僕は言って、一緒に歩いて案内してあげるんだよ。

ありがちなことだからね。見えている面が全部なのか一部なのか疑問を持つ。お店の品物には標準の置き場所と特別な置き場所があるのである。今は女子の健やかな成長を願い祝うためのお祭りの日が近いので、そのときに食べるちらし寿司関連の品物のいくらかがこのスペシャルエリアに置かれているに過ぎず、ちゃんとそれぞれに本来の売り場は設けられているんだよ。でもまあ、わからないよね。

「こちらですね」僕は手で示したよ。

「ああ、ありますね。お酢いろいろ」彼女は理解したようだったよ。「ありがとうございます」

店という言葉は見せるという言葉が原義らしい。見えるところと見えないところがあるからね。努めさえすれば全ての景色を目にできるのかと言えばそういうわけでもないのが難しい。僕は僕が着ているエプロンと同じ色のエプロンを着ている主任とすれ違ったよ。

「あっちの特設のほうの酢少なくなってたから」彼は僕に指示するんだよ。「あっちに持ってっちゃってくれる?」

僕は主任とはそれなりに良好な関係を4年間築いてきた、というのが的確なのかはわからないが、要するにそんなに悪い関係ではない、というか、仲の良し悪しを表現できるほど関わり合っているわけではないけどな。

主任は労働者としての僕を高く評価している。食品売り場において、彼によれば、最も品物を並べるのが速いのは主任だが、彼に次いで速いのが僕らしい。その見方はけっこう正しいと思うよ。

さあ、見るがいい! 僕が段ボール箱からガムテープを剥がし、商品を取り出して並べる速さを。ほほいのほいで、さっさっさと。どうだ、あっという間である。成し遂げるために必要な要素は何か? 適応と意欲である。

僕は4年前からこの店にいるので先輩たちを見てきたわけだよ。かつてを振り返り今実感できるのは、彼らは素早く品物を並べるつもりがなかったということである。禁断の黒魔術に浸食されたようにのろかった。僕が12本の酢の瓶を並べるうちに彼らなら4本も並べていないだろう。

その理由には彼らがその必要に迫られていなかったという背景が挙げられる。昔はもうちょっと大学生の労働者の数が多かった。今僕と同い年の学生はドライ食品部門には僕を含め3人だが、僕が1年生のときの4年生はそれの倍以上はいた。

ゆえに1人ひとりに求められる仕事量が現在よりも少なく、学生パートタイマー各々の人材としての質の向上に店全体として無頓着で、かつそれで何の問題もなかったのだ。そして今店を支える僕は学生アルバイトとしては歴代最強の1人と言えるまでに能力開花した。

僕から見ても主任は段ボール箱を分解するのが速い。人が滑らかに箱を壊す姿は美しい。熟練者の卓越した仕事ぶりを目にすると自分が無力なまま生かされている家畜に思えてくることがあるよね。

そんな食品売り場の主任が別の店舗に異動することになったと知らせる貼り紙が、従業員用通路の壁の掲示板にそっと貼られたよ。僕の大学の卒業式から1週間くらい前にそうなるみたい。

「見た? 異動の」同じ学生アルバイトの者が僕に話しかけるんだよ。

「うん」僕は頷くよ。

「いなくなっちゃうんだね」彼は言及したよ。

「そうみたいだね」社員の異動は今までも見てきたよ。「仲間が増えたり去ったりね」

「どうなるんだろうね」彼は言ったよ。「ところで卒業したらシフトどうする?」

「たぶん同じ感じになるんじゃないかな、週4とかで。どんな感じになりそう?」

「週3くらいかな」彼も答えたよ。

「労働時間が減っちゃうんだね」

「勉強とかの時間が増えちゃうからね」彼は説明したよ。

彼は大学院に進学するんだ。僕は恥ずかしい。主任はいる時間がなくなり、同級生もいる時間が減る。僕はい続けるんだ。

本当はここから離れるのが正しい。レジで働くおばさんたちは僕が何年前から在籍しているかなんて覚えていなくてきっと僕の卒業がまだだと勘違いしているだろう。

僕たち学生は主任が別の店舗に移ることについて主任自身と話し合うことはないように思われたよ。彼の最後の日にバックヤードで主任とおばさんが話しているのを聞くんだよ。「レジ」「土曜日」「シフト」という単語が聞こえるよ。やがて終業になったよ。

「お疲れさまです」僕は空中に挨拶するよ。

「お疲れ」彼も空中に挨拶を返すんだよ。

卒業でも入学でもなくて異動なんだよ。主任は大学に通ったことが1度もなかった。休みの日はパチンコに行く。ボウリングが得意らしい。3年前に娘さんが生まれた。

【本質のテキスト1「売り場明日リバース 6面 」に続きます】


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