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【ココロコラム】犯人探しはほどほどに

長い人生には、信じられないほど不運が続くことがあります。そんなときは、おおいに落ち込みますし、もう自分はダメだとも思います。そして、落ち込んだ気分でいるから、ふだんの実力が出せず、さらなる不運を呼び込む悪循環になってしまうこともよくあります。

このようなときに、「こうなったのは誰かのせいだ」という「犯人探し」をしてしまうことがあります。人間心理の防衛機制として無理もないことなのですが、なるべく避けたほうが、よい結果を生むことが多いようです。

「犯人」として多いのは、親か配偶者(恋人)です。とくに親に関しては、「自分がこうなったのは親が悪い」と感じている人がたくさんおられます。実際、親にひどい虐待を受けた人など、親を許せといっても、とても無理だという人もたくさんおられるでしょう。

しかし、そこまでではない場合でも、親を犯人と感じてしまいやすいものです。なにしろ、自分を育てた人であり、育てる過程では、必ず何かしら問題があるものだからです。犯人ではないことのほうが少ないと言えるでしょう。

私は理想的な育てられ方をした、と胸を張って語れる人はそんなにいません。親も普通の人間ですから、どこかしら欠陥はあるものです。多かれ少なかれ、子供の自分が育つ過程で、親に傷つけられるのはやむを得ないことです。

そう思って、ある程度大人になったら、親を許す作業が必要になります。「自分がこうなったのは親が悪い」と思っていたのでは、過去を変えることができない以上、前に進む意欲を失ってしまうからです。

親からひどい虐待を受けた場合のように、とても親を許せない場合でも、それでも「犯人探し」はいずれはできるだけやめたほうがよいと思います。というのも、犯人がいて、自分はその犠牲者という意識があると、犯人に対する恨みをはらすのが先行してしまい、未来に向けての生産的な活動がしにくくなるからです。過去の恨みを晴らしたい気持ちは無理もないのですが、大切なのは自分の未来です。

「こうなったのは親が悪い」それは真実かもしれません。が、真実を追求したところで、あまりいい結果を生みません。問題はいかにして、現在の状態を変えていくかです。自分を今の状態にした犯人を追及するより、現状をよりよくする努力に労力を当てるのが大切です。

また、自分は犠牲者だという意識には、他の問題もあります。それは、無意識のうちに、自分を助けてくれる救済者を求めてしまう点です。苦しいとき、自分だけではどうしようもないとき、誰かに頼りたくなるのは当然です。また、問題を自分だけて抱え込まず、誰かに力を借りようとする勇気もまた大切なことです。

しかし、自分が犠牲者であるという意識が強くなりすぎると、その反動として、「今の自分をリセットして、幸福な地点に一気に連れていってくれる救済者が必ずいるはずだ」という非現実的な思いにとらわれてしまいやすいのです。

これは、特に対異性関係で問題になります。自分を幸せにしてくれる救済者か、そうでなければ自分をダメにする犯人で、自分はその犠牲者という構図を、知らないうちに作りがちになってしまいます。そして、これがかえって異性関係がうまくいかない原因になってしまいます。

実際には、異性関係はそんなに割り切れるものではありませんから、対人関係で感じなくてもいい失望感などを味わってしまう恐れがあります。

また、犠牲者だという意識が強くなりすぎると、問題を自ら解決しようという意志も薄れていってしまいます。「いつか必ず理想の異性が現れて自分を何とかしてくれる。だから今は何もしなくて待っていればいい」という考えになりやすいのです。これは、その場しのぎにはなりますが、長い目で見ると、かえってマイナスな考え方です。なにか行動をしないと、いい結果を生まないのはいうまでもありません。

もちろん、自分だけでは解決できない問題もあります。問題が大きすぎてどうしていいかわからないこともあります。じっと救いを待つ以外に、何もできないと感じる時期があるのも仕方ないと思います。

しかし、救済者がもしいてくれたとしても、それはたとえていえば浮き輪のようなものです。溺れかけたときは、わらでもつかみたいもの。浮き輪があれば、しがみつくのは当然です。そして、しばらくそのままじっとしている以外、何もできないでしょう。

ずっとそのままでは、自分の行きたい方向には行けません。かえっておかしな方向に流されて、岸から離れていってしまうこともあります。そのときになって、「なぜ岸に連れて行ってくれない!」と浮き輪に噛みついても、浮き輪に穴が開いて、かえって前より深いところで溺れてしまうだけです。

たとえ浮き輪があっても、岸に向かいたければ、自分で足を動かして水をかくしかないのです。泳げないとしても、そんな力は出ないとしても、そこは必死になる以外にないのです。

また、「犯人探し」の犯人として、「社会が悪い」というのもよくあります。これも、当たっているのかもしれませんが、ではどうすればいいのかというところで行き詰まってしまい、無力感が先行してしまいます。理想的な社会など最初からないので、現実といかに折り合っていくかを自分なりに考える方が大切です。

「犯人探し」は、ついついやってしまうことがあります。しかし、ほどほどのところでやめておくのが賢明です。犯人を責めるより、どうやったら自分はよくなれるかを考えた方が、ずっと建設的ですし、未来につながる行動を取りやすいからです。

(精神科医・西村鋭介)

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