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母がいた-8

今日、久しぶりに朝までお酒を飲んだ。一晩酷使した眼球に朝日が刺さって少し痛かった。仕事に向かう人たちや空港に向かうたちに囲まれて、朝の地下鉄に乗って帰宅。あの時の「僕はこれから眠ります。すみませんね」みたいな気分がちょっと好きだったりする。

僕はお酒が好きだ。晩酌はしないし、そんなに飲む機会は多くないけれど、お酒を飲んでいるときの難しいことを考えなくて済むあの感覚が好きだ。すぐに真っ赤になるくらい弱っちいが、二日酔いになったり吐くまで酔ったりすることはない。楽しくふわふわして、ぐっすり眠れば翌日には元気になっている。

この飲み方は、母に教わった。「自分の限界を先に知ることで、立ち回りがわかるのだ」と常々言っていた母の言葉は本当だった。母はとにかく酒が強く、よく「ザルを超えてワクだよあれは」と言われていた。いつも酔い潰れた人の介抱をしていたし、最後冷静に全員の帰宅までサポートするのは母だった。

なんでそんなに強いの?と聞いたことがある。母は関節がくにゃくにゃになった人を立ち上がらせながら、「自分より酔ってる人がいると冷静になる」と言っていた。

母が本当に酩酊しているのを見たのは、中学生の頃だった。母の職場の飲み会に僕も呼ばれ、お酒を飲み慣れている大人たちの中でりんごジュースを飲んでいた。大人の空間にドキドキした記憶がある。

その日は母の抱えていた厄介な問題がやっと片付いた日で、母も気が緩んでいたのだろう。かぱかぱと濃いめのお酒を煽り、ろれつがまわらないくらいになっている。僕は普段母を残して先に帰ることが多かったが、その日は母が心配で最後まで残ることにした。

おーい、と声をかけると「はい!ふみちゃんです!酔いちくれです!」と酒焼けした声で陽気な返事が返ってくる。元気で良いと思います。

それから、さらにお酒を飲んで珍しく会計や帰りの道順などが意識から抜け落ちた母を介抱し、なんとかタクシーに乗せることに成功した。

タクシーのドアが閉まる前、母を見送るゾンビ集団のような酔っ払いたちから「マネ!マネー!(当時マネージャー業をやっていたのでマネと呼ばれていた)」「生きてー!」と言われて「さらばだ諸君!明日も生きようね!」とか言っていた気がする。大変元気で良いと思います。

帰りのタクシーの中で、「今日は本当によく飲んどったねー。明日に響かん?大丈夫?」などと聞いていたら、「今日はだいすけがおったけんね、気が緩んだとよ。明日にはふみちゃん復活やけん大丈夫」とへひへひ笑っていた。

そうか、母には自分が潰れても介抱をしてくれる人がいることが珍しかったのか。じゃあ今日は楽しく飲めたのかな、よかったな、と思っていると「だいすけがお酒飲めるようになったら、連れていきたい店がたくさんある」とお店の名前を次々に口にしていた。ろれつが回ってなくてよく聞き取れなかったし、そのお店の名前は全部忘れてしまったので、母がどんな店でどんな話をしていたのか、聞きに行く機会をなくしてしまった。

僕が成人する前に母は他界して、結局一緒にお酒を飲むことは一度もないままだった。それだけは今でも本当に惜しい。一緒に飲みたかった。お酒を飲むと普段よりも饒舌になる母と、いろいろな話がしたかった。母が気兼ねなく酔っぱらって、好きなことを話して、好きに酔い潰れて、それを介抱しながら連れて帰りたいとずっと思っていたのに。このことを考えると、いつもちょっと寂しい気持ちになる。

とはいえ、そこはさすがの母。本人が不在でも、周りの人たちの記憶の中に母は色濃く残っていた。家族や母の知人とお酒を飲んでいると、知らなかった母の話が毎回出てくる。ヤクザの事務所で若衆に対して大立ち回りをした話や、中洲(福岡の歓楽街)で一目置かれる存在だった話、怖いものが苦手なのに見栄を張ってお化け屋敷に入って子供のように泣いた話など、他界して15年経った今でも、毎回初めて聞く話が出てくる。

たくさんの人に話を聞いていて気付いたが、母の話をしているとき、決まってその人は本当に楽しそうな顔をしている。母の大好きだったお酒と一緒に、大好きだった母の話を笑顔で語る。それがすごく誇らしい。まだまだ僕の知らない母がたくさんいるのだろう。そんな話を聞いているとき、僕は母から10年15年越しの手紙を受け取っているような気分になる。誰も母のことを忘れていないし、僕と同じようにたくさんの人の中で母は楽しい記憶として生き続けている。

これからもたまに母の手紙を受け取りながら、そばにいない寂しい気持ちを少しだけ抱えながら、僕はお酒を飲んでいく。ちょっとぬるくなったビールを飲みながら、今日もそんなことを考えていた。

お酒を愛して
酒飲みに愛されて
たくさんの思い出を
たくさんの人に残していった
そんな、母がいた。

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