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母がいた-18

今日、県外から来られた方にお土産でクッキーをもらった。西光亭のくるみクッキー。粉砂糖の中から小さく丸いクッキーを拾い口の中に入れると、ほろほろとくずれてクルミの香ばしさと甘さの広がる優しいクッキーだった。びっくりするくらいコーヒーによく合うお味。ごちそうさまでした。


藤岡ちささんの描かれるイラストは暖かくて素敵。

これまでも何度か触れてきたが、母は大の甘いもの好き。その中にはもちろんクッキーも含まれていた。今日は、母だけのクッキーについて書こうと思う。

物心ついたころには、我が家ではおやつの区分がされていた。どういうことかというと、ダイニングテーブルの上に置かれたバツ丸くんの箱に入っているお菓子は子ども用、戸棚の中に置かれたお煎餅のカンカンに入っているお菓子は母用、という具合に分けられていたのだ。僕は学校から帰ってくると、バツ丸くんの箱から駄菓子やブルボンプチシリーズを手に取って自室に入りお菓子を食べていた。おやつといえばいつもそんな感じ。

小学生低学年のある時、お母さんはどんなお菓子を食べているんだろう、と気になって戸棚の中にあるカンカンを覗いてみたことがある。なんとなく同じものが入っているんだろうなあと思っていた僕は、度肝を抜かれた。

そこにはめくるめく高級お菓子キングダムが築き上げられていたのだ。イチゴジュレの乗ったクッキーにココナツパウダーのちりばめられたビスケット、海外のチョコレートに、千疋屋の焼き菓子、見たこともないようなオシャレな飴などが入っていた。僕はサスペンスドラマで死体を発見した家政婦のように一歩二歩あとずさる。今まで母はこんな高級お菓子を占有していたのか。これは由々しき事態だ。本人が帰宅し次第身柄を拘束し尋問を開始しなくては。

僕は酢だこさん太郎をちゅぱちゅぱ噛みながら母の帰りを待った。それはそれとして酢だこさん太郎とわさびのり太郎めちゃくちゃ美味いよね。今でも見かけたらまとめて買う。こないだ宅飲みのおつまみとして買っていったら後からきたフィリピンの男性に全部食われたのちょっと悲しかったんだよな。いや気に入ってくれたならいいけど。

話がそれた。夜になり母が帰宅すると、僕は母に詰め寄った。「あのカンカン何なん!めちゃくちゃ美味しそうなお菓子ばっかっちゃけど!」と荒ぶる僕に、母は目線をそらしながら「おっ、おお、大人だから!大人のお菓子だし!だいすけにはまだ早いかと思って!!」と苦しい言い訳をした。目が泳いでいる。バタフライ並みの豪快な泳ぎだ。

当時まだ格差という言葉を知らなかった僕は、それでもなんとかその意味を伝えようと「なんかこう、差が!差がある!違いすぎる!」とまくしたてた。我が家というフランス領内でのお菓子貴族(母)が占有する財産に対する暴動の勃発である。お菓子フランス革命だ。

その話を聞きつけた姉も暴徒と化し、我が家では一触即発の空気が流れたが、それらは父の「まあ君らの稼いだお金ではないからね」という冷静な言葉で一瞬にして鎮火した。

しかし格差を自覚した我々貧民層もこのまま黙っているわけにはいかない。貴族とまではいかないまでも、ブルジョワジーくらいまでは上り詰めたいのだ。そこで僕と姉は密談に密談を重ね(仏間で相談しただけだが)、母のいない間に少しずつ貴族お菓子をくすねてしまおうという計画を立てた。

ある日の午後、僕と姉は戸棚を開け、お煎餅のカンカンを覗きこむ。そこには高級お菓子がこれでもかと鎮座していた。その中で、個包装で数が多く比較的減ったことが分かりにくいであろうチョコレートをひとつずつ抜き取り、ふたりで食べた。

おい。嘘だろ。うますぎる。5円チョコとチロルチョコしかしらなかった僕に衝撃走る。何だこのミルクのコクとまろやかさは。そして後から追いかけてくるほのかな苦みとバニラの香り。これが貴族お菓子の実力なのか?

姉と僕は顔を見合わせ、「やばい」「だめじゃんこんなの」と語彙を失い呆然とする。僕らはこの時うすうす気づいていた。これはやめられなくなってしまう、と。

それからというもの、僕と姉は母の目を盗んでは少しずつ、けれど確実にお菓子をくすねていった。各々の部屋で舌鼓を打ち、アイコンタクトで「あれがやばかった」などの情報交換を行った。

そうして1か月ほどが過ぎたころだろうか。夕飯を終え、家族でテレビを見ていた時のこと。母がテレビから視線を移さずに静かに言った。

「あんたたちさ。」

瞬間、僕と姉の背中に冷たいものが走る。この口調は静かに強く、でも確かに怒りを湛えている母の口調だ。姉は目をそらし、僕は唾をのんだ。

「ほかのお菓子はまだいいんよ。けどさ、どっちか、クッキー食べたよね」

僕だ。イチゴジュレの乗ったクッキーを今日食べた。あの艶やかな赤いジュレの魅力に勝てず、食べてしまった。これはもう隠しきれない。隠したところでより状況が悪くなることは明白だった。僕は黙って震える右手をスッとあげ、「ごめんなさい、すごく」と謝罪した。だが恐ろしすぎて母の顔は見られない。数秒の沈黙の後、母は口を開く。

「これで、最後。もう、次は、ない。いいね」

心臓がきゅっとなる。生殺与奪の権を握られている。動けない。何か発言を間違えれば即死だった。

「はい、約束します……」

そう言い終えるとふっと空気が軽くなり、母はテレビの内容に話を戻す。どうぶつ奇想天外が流れていて、画面の中では、二頭の子どもシマウマがライオンに食べられていた。僕と姉は同時に「もうやめよう」と硬く決心したのだった。

それ以降、僕らは戸棚のカンカンをあさることをしなくなったが、母も気の毒に思ったのか定期的にバツ丸くんの箱に貴族お菓子の配給が行われた。しかし一度も、これは絶対に言いきれるが、一度もクッキーが入ることはなかった。めちゃくちゃクッキー好きだったんだな、母。

そんな話を、いただきもののくるみクッキーをたべながら思い出した。今は食べたくなればちょっと良いクッキーも気軽に買えるようになった。ただ、今でもイチゴジュレの乗ったクッキーを見ると、ほかのクッキーよりも美味しそうに見えて少し笑ってしまう。

クッキーをこよなく愛し
クッキーのこととなれば
我が子にも睨みをきかせる
そんな、母がいた。

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