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母がいた-24

昨夜観たホラー映画が、自分には合わなかった。ホラー映画が大好きという記事を書いておきながらアレだが、僕はあまり楽しめなかった。要素をあげるとキリがないのでここでは割愛するけれど、映画レビューアプリで初めての星1をつけてしまうくらいには相性の悪い映画だった。

唐突だが、僕は鑑賞したホラー映画の感想をTwitterに投稿するようにしている。その映画のポスターなどと一緒に、ここが楽しかった、ここが良くてね、という「ふんわりした前向きな感想」を添えてシュポっとインターネットに放流するのだ。誰かがホラー映画を選ぶ時の軽い参考になればいいな、くらいの気持ちで。

その時に気を付けていることがある。ネガティブな表現を使わないことだ。昨日観たホラー映画の感想も、その制限をなくせば「つまんなかった」「うるさくて不快だった」「結局何を描きたいのかわからない」「冗長だった」などの言葉で片付いてしまうと思う。

でもどうだろう、そう書いてしまうことで、本来この映画を楽しめていたはずの人がネガティブな先入観をもって観た結果、粗探しのような鑑賞体験をしてしまうかもしれない。実際、今回の映画はただ僕に合わなかっただけで、映画レビューを見ると星5つの評価をしている人だってたくさんいる。僕はそうなれたかもしれない人の体験を潰すのがイヤなのだ。

とはいえ、大大大前提として、僕は僕一人の発言で誰かの印象や心の根っこが大きく変わるとは思っていない。そこには、母から教わった事が関わっている。


中学1年生くらいのころ、僕はなんとも斜に構えた生意気キッズだった。わかったふうに何かを批判することで、自分の自尊心を保っているタイプ。ああ思い出すだけでキツいし恥ずかしい。でも事実なので書く。

確か当時放送されていたドラマか何かを家族で観ていて、僕はその日、斜に構えたいマンになっていたのか偉そうな調子で「ここがつまらない」とか「こういうところが浅くて薄い」とか言っていた。やめとけ。まあ、とにかく、そういうことを言っていたのだ。

すると母から「あんたこれ観てて楽しい?」と聞かれた。素っ気なく「いや別に」と答える僕に、母は体をひねりこっちを見ながら言った。

「だいすけがこのドラマを悪く言っても、お母さんとお姉ちゃんは楽しく観るし、このドラマに対する気持ちも変わらんのよね。結局悪く言っただいすけへの印象が悪くなるだけで。それってものすごく損じゃない?誰も得しないことじゃん。だったら一回、そういう風に言うの、やめてみようよ」

僕は顔から火が出るかと思った。とてつもなく恥ずかしかった。当時の僕は、自分の言葉で誰かを操ったり、心のありようを変えたり出来ると思い込んでいたのだと思う。それもネガティブなやり方で、ネガティブな方向に。母はそれを簡単に見抜いていて、それでも優しく僕を諭してくれていた。

その夜、母と二人で話をした。めちゃくちゃ恥ずかしかったけど気付けて良かったこと、これからどう変わっていけば良いかなどの相談だった。そこで母は僕に「人を変えることは基本的にできないし、もし相手が変わったとしてもそれは自分一人の力ではなくて、あくまでその変化の一端を担ったに過ぎない」という話をした。その考え方は今も僕の中に残っていて、そのうえで、一端を担えるのであれば前向きな方向に変えられれば良いな、と思っている。

それと、「思春期だから仕方ないけど、斜に構えてるのべつに格好良くないからやめなね」とも言われた。はずかしい。ああ恥ずかしい!!!もう2度としません!!

まあそんなお顔真っ赤になるくらい恥ずかしい経験を経て、僕は最初に書いたように「ふんわりした前向きな感想」を添えて映画をおすすめするに至った。もちろんこれは映画に限った話ではなくて、生活の全般に言えることだとも思っている。ネガティブな印象を持っても「僕にとってはそう」だっただけで、ほかの人がどう思うかはわからない、ということを忘れずにいたい。仕事や批評として求められている時でない限り、わざわざネガティブなことをいう必要はないんだな、という話。

そんな話を、昨日観た映画について考えながら思い出した。忘れないうちに書けて良かった。また書きます。

思春期の息子を見抜き
大切なことを教えてくれた
そんな、母がいた。

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