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差別と向き合うには倫理の際まで追求しなければならない

ホン・ソンスの『ヘイトをとめるレッスン』を読んだ。本では、ヘイトが表現の自由を密接に関わっていて、“ダメ”とされる表現の境界線が引きずらいことが説明されていた。何でも表現の自由だと片されてしまうのは、そもそも「表現の自由」という言葉の意味が広義的であるが故な気もしてきた…。「表現」って言葉にしたり行動したり人の共有することも含まれると思っていて、それを「自由」と形容するのは難しい。どう思うかは個人の自由だけど、それを表現した瞬間、第三者が巻き込まれるリスクもある。

差別を規制するのに、前後の文脈、差別する側とされる側に権力構造があるか、実際の暴力や危険に直結するかなど、差別を規制する基準がある程度あるとしても、差別はなくなるわけでもない。ヘイトを規制するだけだと差別する側は「表現できる言葉を制限された」と被害者のように思うことが多く感じる(よく“ホモ”“レズ”呼びに関してこういう構図が見られる)。ダメと言われるとしたくなる人間の性質なのか、差別する側にどうアプローチするかは永遠の課題だなぁ〜。

世の中では、(差別は論外であることは前提として)差別する側はなぜそれがダメなのかわからないことが多い気がする。例えば、同性婚が法律で認められない理由が何か、同性愛者である私(ここでは被差別者として)が納得できる答えを得たことがない。特に多い「出生率が下がる」という理由も、よく考えるとそもそも同性愛者が異性と結婚することはほぼ0に近いし、同性愛者からと言って子供が授かることは不可能ではない。同性・異性愛者に関わらず、子供が欲しい人・望まない人など、個人によって様々であり、政府が個人に子供を授かるかどうかのコントロールをすることは不可能なのでは?もし反対側が「出生率が下がる」「伝統を守りたい」などの理由から認めたくないのであれば、それは納得のいく理由ではない。

「同性愛者は気持ち悪い」「浮気はだめ」「セックスばかりする女は淫らだ」などの意見が飛び交う時、一つずつ倫理の際まで考えなければならない。世の中では浮気が悪とされているけど、それはなぜなのか。なぜパートナー以外とセックスしてはいけないのか。悪とされるものの中にも、悪とされる納得のいく理由がなければ、もしかしたらその人の持つ前提は意味を持たないものになるのかもしれない。私たちが差別に向き合うということは、自分の偏見や社会の持つ前提と向き合うことにもつながるのかも?

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