金銭の話 (feat.Osamu Dazai)

小学生の頃、お小遣い帳をつけていた。お小遣いは毎月500円。駄菓子屋さんに行き、友達とお菓子を買って、そして家に帰るとお小遣い帳をつけていた。

親曰く「シブチンやな」というくらいチマチマと使ったお金を書いていて、小学生の自分は「私は倹約家だし、お金を無駄遣いしないんだ」という謎のセルフイメージを持っていた。

三つ子の魂百まで、というが、どうも残念なことにこの素晴らしき倹約家精神は今の私からは消えてしまっているようだ。

とにかく、今日だって髪が切りたくなって、でも、髪を伸ばそうと思っているから切るところなんて全然ないのに美容室に行ってどういうわけか一万円近く払っている。

「ダメダメ、この間少し遠くへ旅行したんだから、節約しなきゃ!」と思いながら、天丼が食べたくなって天丼を食べている。

「そういえば、Wiredの新刊買ってない!」と突然思い出して本屋にいそいそ入り、ついでにポール・オースターの未翻訳のペーパーバックを見つけて、英語だから読めるかどうかも分からんのに、手にとってワクワクしながらレジに向かい、「ID払いでお願いします」と告げると電子決済の端末が光り始めて、スマホをかざすとシュン!と魔法みたいに一瞬でお金が飛ぶ音がする。

派手な浪費ではない。天丼くらい食べたって責められるものじゃない。いや、むしろわざわざそれを論うなんて逆に節約家思考なのではないか?

いやいや、この流動性をどんどん高めようとする気運の中、頼れるものはお金だけ。そんな時代なのだから、本当の吝嗇にならねば。天丼食っても良くね?じゃない、ダメなんだ。

思いつめているうちに、かの有名な文豪も「なぜか手元にお金が残らん、不思議だ」と言っていたのを思い出した。

さて、では稀代の作家でありエッセイストの太宰氏の結論を一部引用すると

或る先輩が、いつか、かうおつしやつた事がある。
「自分の收入を忘れてゐるやうな人でなくちやお金が殘らぬ。」
 してみると、金錢に淡泊な人に、かへつてたくさんお金がたまるものかも知れない。いつもお金にこだはつて、けちけちしてゐる人にはかへつてお金が殘らぬものらしい。
 純粹に文章を創る事だけを樂しみ、稿料をもらふ事なんぞてんで考へてゐないやうな文人にだけ、たくさんの貯金が出來るものかも知れない。

ということで、「執着してるから逆に貯まらないのだ、と人は言っていたなぁ」である。

唐突に人伝の話で終わってしまうあたり、この「金銭にまつわる話」のそこの無さを感じる。

「純粋に楽しめばいいのかもなぁ」という結論は、すでにお金が無いという切迫感で頭の中が赤色に染まってしまっている私には呑気なことを言わないでくれ!という気持ちがする。それに、欲しいものだってあるんだ!と叫びそうになる。

けれど、その欲しいものってなんなんだろう。それを手に入れてどうしたいんだろう。私が本当に欲しかったのは、書籍くらいじゃ無いか。

お金には淡白な方がいい。

金銭には分離の力がある。誰かが言っていてその通りだと思った。魔性のものだ。それに、「英語を極めよ、ファイナンシャルを極めよ、ITを極めよ、さすれば年収1000万円に到達できる。もし極められないとしたら、頭も要領も悪いあなたが悪いのさ」と言われるより、「お金のことは気にしすぎず、楽しく日々の活動に打ち込むと良いのか知らん」という結びはずっといい。

頭にへばりつく生活への不安。それでも、とらわれすぎないようにしたい、ところです。

最後まで読んでくれてありがとう。