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坪内祐三『日記から 50人、50の「その時」』試し読みページ公開!



毎日新聞で2005年4月から2006年4月まで毎週連載として綴られた「日記から 50人、50の「その時」」が、約20年の時を経て、ついに単行本となります。
50回にわたる連載では夏目漱石、三島由紀夫、植草甚一、永井荷風らの50人の日記を元に、その時代や人物を縦横無尽にひもときます。
個人の記録は、社会の記憶──日記を愛する坪内さんだからこそ書けた「これぞ! 坪内祐三」の評論エッセイ堂々の書籍化!

 この連載を始めるに当たって、私は、いくつかのしばり、すなわちルールを作った。
 一回一回の分量は短いから、そういうしばりを作ることによって、それぞれの回を連環的につなげていこうと考えた。
 それから私は、自分になんらかのしばりを課することが好きなのだ。特に連載の場合、そうしないと厭きてしまうのだ。
「50人、50の『その時』」というタイトルがそのしばりだった。

(「連載を終えて」より)


目次


社会の変動を鋭く感知
夏目漱石 明治四十二(一九〇九)年四月九日  12

「人間の裸の顔」という劇
三島由紀夫 昭和三十四(一九五九)年四月十日  15

快進撃の中のB25来襲
靑野季吉 昭和十七(一九四二)年四月十八日 18

「新人類」の不条理小説
志賀直哉 明治四十三(一九一〇)年四月二十四日 21

流血の惨事になった「お祭」
野上彌生子 昭和二十七(一九五二)年五月一日 24

老文学者が迷った末に......
森田草平 昭和二十三(一九四八)年五月十日 27

変革の時代、真摯に走って
高野悦子 昭和四十四(一九六九)年五月十三日 30

空襲下で書いた信仰論
柳田國男 昭和二十(一九四五)年五月二十三日 33

消息を絶った小林秀雄
中島健蔵 昭和三(一九二八)年五月二十八日 36

北へ西へ流離漂泊の旅
山田風太郎 昭和二十(一九四五)年六月五日 39

ハガティ事件にみた「醜さ」
江藤淳 昭和三十五(一九六〇)年六月十日 42

遠く離れていった桜桃忌
木山捷平 昭和二十四(一九四九)年六月十八日 45

自信失わせた「太陽の季節」
阿部昭 昭和三十(一九五五)年六月二十一日 48

大辞典を「冥土の土産」に
尾崎紅葉 明治三十六(一九〇三)年六月三十日 51

戦局への関心と「書き方」
伊藤整 昭和十九(一九四四)年七月十日 54

退学青年の「我々の時代」
大宅壮一 大正六(一九一七)年七月二十一日 57

江の島にいた「60年の若者」
浮谷東次郎 昭和三十五(一九六〇)年七月二十七日 60

「日本の文学」をめぐる事件
高見順 昭和三十八(一九六三)年七月三十日 63

東京音頭をめぐる世代差
森銑三 昭和八(一九三三)年八月三日 66

身近に触れた「時局の流れ」
神谷美恵子 昭和二十(一九四五)年八月十二日 69

終戦直後の「皇軍」の混乱
大佛次郎 昭和二十(一九四五)年八月二十日 72

官業精神と初の「空の旅」
竹内好 昭和三十七(一九六二)年八月二十六日 75

震災の不安心理とデマ
岸田劉生 大正十二(一九二三)年九月一日 78

殉死への「当世風」の反応
内田魯庵 大正元(一九一二)年九月十四日 81

戦中派の複雑な天皇観
山口瞳 昭和六十三(一九八八)年九月十八日 84

最後の夏の不思議な記録
武田百合子 昭和五十一(一九七六)年九月二十一日 87

「革命と反体制」への関心
大岡昇平 昭和五十五(一九八〇)年十月四日 90

東京五輪でテレビ漬けに
吉野秀雄 昭和三十九(一九六四)年十月十日 93

文化シーンに躍り出る
植草甚一 昭和四十五(一九七〇)年十月十九日 96

異郷で知る「戦局」の行方
徳永康元 昭和十五(一九四〇)年十月二十四日 99

上京に求めた「希望の影」
石川啄木 明治三十五(一九〇二)年十月三十日 102

私小説家のテレビ出演
外村繁 昭和三十五(一九六〇)年十一月九日 105

生活のため本を売る算段
黒田三郎 昭和二十三(一九四八)年十一月十日 108

「心の不安」と過去への態度
内田百閒 大正六(一九一七)年十一月二十三日 111

三島事件への複雑な感想
佐藤榮作 昭和四十五(一九七〇)年十一月二十五日 114

開戦に際会した反戦作家
秋田雨雀 昭和十六(一九四一)年十二月四日 117

巣鴨での日々と「義憤」
笹川良一 昭和二十(一九四五)年十二月十一日 120

レジスト青年の就職試験
深代惇郎 昭和二十七(一九五二)年十二月十四日 123

総合雑誌黄金時代の年末
木佐木勝 大正八(一九一九)年十二月二十五日 126

ドサ廻りの旅先での正月
古川ロッパ 昭和二十三(一九四八)年一月八日 129

大震災後の余震と流言
岡本綺堂 大正十三(一九二四)年一月十五日 132

郊外への移住、そして散歩
遠藤周作 昭和四十五(一九七〇)年一月二十五日 135

カフェで飲んだ本格「珈琲」
小泉信三 明治四十五(一九一二)年二月一日 138

虚無的「革命」の中の知識人
中井英夫 昭和二十一(一九四六)年二月四日 141

帝国憲法発布の日の暗殺
依田學海 明治二十二(一八八九)年二月十一日 144

海軍病院の日常と硫黄島
野口冨士男 昭和二十(一九四五)年二月十五日 147

浅草通いから「カツ丼」へ
永井荷風 昭和三十四(一九五九)年三月一日 150

大空襲という「世紀の喜劇」
添田知道 昭和二十(一九四五)年三月十二日 153

神社統廃合が損なったもの
南方熊楠 明治四十三(一九一〇)年三月十九日 156

文学青年から受けた刺激
樋口一葉 明治二十六(一八九三)年三月二十五日 159

荷風とロッパの「2・26」―連載を終えて 162

人間の裸の顔」という劇 三島由紀夫

昭和三十四(一九五九)年四月十日 
嵐は忽ち晴れ、六月の日照りになつた。
一時半起床。庭で素振りをしてから、馬車行列の模様をテレヴィジョンで見る。

『決定版 三島由紀夫全集30』(新潮社)

 馬車行列というのは、もちろん、当時の皇太子明仁親王と正田美智子の御成婚のパレードのことである。
 結婚の儀や固めの盃事、朝見の儀などを終え、宮内庁玄関から新居となる東宮仮御所までの馬車行列がスタートしたのは同日の午後二時三十分だった。
 その姿を一目見ようと沿道に集まった人の数は五十三万人(警視庁調べ)にも及んだ。
 三島のようにその様子をテレビ中継で見た人は千五百万人にものぼった(それまで高価な貴重品であったテレビは、この御成婚パレードを機に二百万台を突破した)。
 パレードが始まって七分後、馬車列が二重橋を過ぎ皇居前広場を出て祝田橋方面へ右折し終わった時、事件が起きた。
「突然一人の若者が走り出て、その手が投げた白い石ころが、画面に明瞭な抛物線をゑがくと見る間に、若者はステップに片足をかけて、馬車にのしかかり、妃殿下は驚愕のあまり身を反らせた。忽ち、警官たちに若者は引き離され、路上に組み伏せられた」(「裸体と衣装―日記」より)
 馬車行列はそのまま、何事もなかったかのように、同じ歩度で進んでいったが、三島は、若い両殿下の表情の変化を見のがさなかった。「両殿下の笑顔は硬く、内心の不安がありありと浮かんでゐた」
 そして彼はこう言葉を続けている。
「これを見たときの私の昂奮は非常なものだつた。劇はこのやうな起り方はしない。これは事実の領域であつて、伏線もなければ、対話も聞かれない。しかし天皇制反対論者だといふこの十九歳の貧しい不幸な若者が、金色燦然たる馬車に足をかけて、両殿下の顔と向ひ合つたとき、そこではまぎれもなく、人間と人間が向ひ合つたのだ。馬車の装飾や従者の制服の金モールなどよりも、この瞬間のはうが、はるかに燦然たる瞬間だつた」
 何の伏線も対話もなかったけれど、むしろそれゆえ、「この『相見る』瞬間の怖しさ」こそは真に劇的なものであったと三島は言う。
「社会的な仮面のすべてをかなぐり捨てて、裸の人間の顔と人間の顔が、人間の恐怖と人間の悪意が、何の虚飾もなしに向ひ合つたのだ。皇太子は生れてから、このやうな人間の裸の顔を見たことははじめてであつたらう。と同時に、自分の裸の顔を、恐怖の一瞬の表情を、人に見られたこともはじめてであつたらう」
 この頃三島由紀夫は、退屈な戦後をニヒリスティックに描く野心作『鏡子の家』を執筆中だった。
 しかしその執筆はなかなかはかどらなかった。四月七日、「ここ数週間の、憂鬱きはまりない遅々たるロック・クライミングの果てに、『鏡子の家』はやうやく七百枚に達した」。そして御成婚を間にはさんで、四月十八日、「朝まで七枚みつちり書いて、『鏡子の家』は七百三十二枚に達した」。
 完成した『鏡子の家』の世評はかんばしくなかった。その失敗によって三島由紀夫は変わっていったと言われている。

二〇〇五年四月十日掲載

遠く離れていった桜桃忌 木山捷平

昭和二十四(一九四九)年六月十八日
明日「太宰追悼会」には上京出来ぬと亀井君に電報を打った。

『酔いざめ日記』(講談社)

 昭和二十三(一九四八)年六月十三日に東京三鷹の玉川上水に入水した太宰治とその愛人山崎富栄の水死体が発見されたのは同六月十九日のことだった。
 翌年から、その日を桜桃忌と称して太宰をしのぶ友人たちの会が開かれるようになった。
 太宰の親しい友人だった木山捷平も、最初の年はたまたま岡山に帰省していて顔を出せなかったものの、会の熱心な参加者だった。
 例えば、昭和二十六年六月十九日。「桜桃忌、中村屋にて、会費五百円也。出隆、山岸両氏が共産党の募金をやって会が白けてしまった」
 参加者の平均は、「桜桃忌(六周年忌)三鷹禅林寺。午前四時、会費五百円。村上菊一郎君と同道した。集るひと三十何人?」(昭和二十八年)、「桜桃忌(八回目)三鷹禅林寺にて、会費五百円。午後三時より。(中略)新築の講堂に集る人三十人?」(三十年)とあるように、毎年、三十~四十人だった。
 それが一変するのは昭和三十三年のことだ。
「桜桃忌に行く。高橋君と一緒に。女学生の参加者多し」。全参加者は九十人を超えた。没後十年に当たる年だったが、これほど参加者が増えた理由は、「『走れメロス』が高校の教科書に採用されたためでしょうか」と太宰の夫人は語ったという。
 こうして桜桃忌は友人たちの手を離れ、一つの社会現象となって行く。
 昭和三十九年六月十九日。
「太宰忌(桜桃忌)今年すでに十六回になる。今年生きていれば五十五歳になる。太宰の死後この会は年々盛会であるが、学生多し。(中略)司会亀井(勝一郎― 引用者注)で百人分ばかりの桜桃の入った折りづめが用意されていたが、二百余人の集会人であった。しかし太宰の友人は少しで淋しく、遠くになってしまった感じであった」
 これに懲りたのだろうか翌昭和四十年は、「桜桃忌(昨夕伊馬君より是非出席してくれと電話あり)、午後三時、会費七百円、禅林寺にて。欠席。新聞によれば友人外学生多数三百人集った。『斜陽』『人間失格』の本を手にした女性多し」、とある。
 さらにその次の年(昭和四十一年)の六月十九日。
「桜桃忌。三鷹禅林寺にて午後三時より。何となくこの日は落着かない嫌な日である。若い頃から、つまり無名時代からの友人の忌と思うと、その死などを考えるとやり切れない感じとは別に、年々歳々賑しくなっている。しみじみと追想する友人達は少く、学生が祭気分みたいな熱気あるものにしているかの如し」
 この日のことを描いたあるエッセイで、木山は、「寺の広間で行われた追悼会で、私は常連の故をもって弁当一箱をあてがわれたが、境内で立ちん坊している沢山の男女学生を見ていると、どうも上ってすみませんというような気がしてならなかった」と少し皮肉っぽく述べている。
 以後木山は桜桃忌に足を向けることはなかった。

二〇〇五年六月十九日掲載

江の島にいた「60年の若者」 浮谷東次郎

昭和三十五(一九六〇)年七月二十七日
昨夜十二時、ねむたくなったので、ラジオのスイッチを入れて十二時半にメザマシを合わせて横になった。ラジオは海岸の話、エロ話をしていた。

『オートバイと初恋と わが青春の遺産』(ちくま文庫)

 のちに日本屈指のカーレーサーとなり、二十三歳で事故死してしまう浮谷東次郎は、当時、名門都立両国高校の三年生だった。
 高校生最後の夏休み、彼は、志望を、それまでの東京大学からアメリカ留学へと変える。昭和三十五(一九六〇)年七月二十二日の日記で彼は、こう書いている。「ぼくの進むのは心理学である。心理学は米国が本場である。ただ単に、学問という点からも米国留学は非常に有意義である。それに見聞は広がり、見る眼は大きくなり、世の大勢を知れるのだ」
 いずれにせよ、その夏休み、彼は勉強に意欲をそそぐ。この夜も十二時半から勉強を再開するつもりでいた。ところが、ラジオから流れる「エロ話」を耳にしたら、「ぼくは、急に夜の江の島を考えた。よし、そのうちにこっそりと家を抜け出して行こう」。
 十八歳の青年として彼は、健全な性欲の持ち主だった。
 母親の美容院で働く秀子さんとデートをし、姉の誕生会で知り合った安井かずみさんという三つ年上の女性に心ひかれたりする。
 彼は、「女」のことが今まで以上に気になってきたのだ。
 ラジオを聞いて、浮谷青年は、その少し前に読んだある週刊誌の記事を思い出した。その記事によれば、夜の江の島に行けば女がひっかかり放題だというのだ。
 善は急げ。早速彼は行動に移す。
「オートバイのエンジンの唸りも快調、夜中の東京を一路江の島へと向かっている。だいたい、夜こっそり家を出るなんていうのは、十五分前までは生まれてからこのかた考えたこともなかったのだ」
 要するにラジオが悪いのだ、と彼は言う。「ちょうど、エロ番組をやっていて、夜の海岸で話し手の演ずるムーチャンとかいう男が、うまい工合にポチャポチャした女をせしめる──なんてのをくすぐったい工合に話をしていたのだ」
 彼はいわゆる「カミナリ族」ではなく、オトキチだった。つまり、「女の子をのせるなんてのはオートバイ乗りの恥だ」と考えていた。そういう彼が、ラジオの深夜放送や週刊誌のヨタ記事にのせられて夜の江の島に向かった。
「さすがは江の島だ。一時頃だというのに、どこの店もみな開いている。人はぐちゃぐちゃ、とにかくにぎやかで、想像以上」。「男も女もいっぱいいる。だが、物欲しそうに、手もちぶさたで、あっちをジロジロこっちをジロリ、パンツの上からひっかけたシャツのボタンをはめないで、わざわざ肩を振って、そのシャツをひろげて胸を見せて歩いているのは、皆男である」
 この日記の書かれた日附に注目してもらいたい。つまりこれは、あの六〇年安保のおよそひと月後の出来事なのだ。歴史をあとから振り返ると一九六〇年の若者は六〇年安保の若者たちに代表されてしまうが、浮谷東次郎が書き残してくれた、こういう夏の江の島の若者たちも数多くいたのだ。

二〇〇五年七月二十四日掲載


四六変型並製 168ページ  定価(本体1800円+税)
978-4-86011-491-6

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