安部公房の『人間そっくり』を読んでぐるぐるまわる。

概説書ばっかり読んでいると、ふいに小説が読みたくなります。
特に、NHKのクラッシック音楽番組なんか見てると「あ、物語性に乏しいな、私の日常」って思っちゃうんですよね。何なんだ?
たまたま所用で出かけることがあり、電車に乗るなら文庫本よね、ということで、積読タワーの中から割と読みやすそうな本を取りました。
安部公房の『人間そっくり』です。

『こんにちは火星人』というラジオ番組の脚本家のところに、火星人を自称する男がやってくる。その男は取扱注意だとの連絡を受け、脚本家は穏便に男を追い返そうと試みるのだが、男の言葉に振り回されて、次第に自分を見失っていく。
あらすじはそんな感じです。

1960年代のSFですけど、読んでいてカフカのような重苦しさを感じました。
主人公の脚本家が、書斎で男と会話している。メインはそれなんですが、二転三転する会話、冒頭の脚本家の後悔、一向に晴れない不穏な空気、重かったです。
年を取って死が近づいてくると、不穏な話を読む元気がなくなってくるので、小説は若いうちに読んだもん勝ちですね。私も今読めて良かったです。

それにしても、本当に久しぶりに小説を読んだので、最初、行ったり来たり堂々巡りのような曲がりくねったような文章に、めまいがしました。
最近読んでいた概説書が、いかにわかりやすく平易な文章で書かれていたか、ですね。
小説は別の人間の人生を追体験するもの、とよく言われますが、登場人物の人生を追体験する前に、文体という他者(作者)の個性(内面)に潜り込んでいくものでしたね、はい。
じゃあ、小説もわかりやすく平易な文章で書くべき? という意見が一部であることは知っていますが、それ、消費者意識ですよね? まあ読書も消費行動ですけど、自分に合わせた文体・内容を求め続けたら、自意識肥大しそうだなあ。
なので、ちょっと戸惑うような文体の本を読むことって、人生経験なんだなと、結論づけた次第です。

また、1960年代の作品なので、随所にあの時代が感じられますね。
のっけから自称・火星人男を「気違い」と言ったり、「分裂病」と言ったり、現代では使わない表記を平然とするあたり、昭和だなあと感じます。
また「結婚以来、14年、女房をなぐったのはわずかに3回」だとか、「日本人の平均は、2年に1.4回」だとか、こういうところからも、日本がDV天国だったことがうかがえます。酷いね。
小説は、どんなに時代性を消そうとしても、書かれた時代はつきまとうので、その時代の歴史史料的側面はあると思います。
なので、その時代を知らない人が読めば新しいし、SFであっても、時代小説とかファンタジーのようにも読める。
現代のなろう小説だって、すぐに「時代を感じる」ものになりますよね。
作家さんの中には、作品が古くなることを懸念して、時代性を極力排除しようとされる方もいらっしゃいますが、私は逆にその時代性を楽しみたい方なので。
ただ、そういう時代性から云々できるほどの教養はないので、何言うてんの? なんですが。
まあ文学を専攻していない人間にも読書する資格はあるので、ぼちぼち読んで生きましょう。








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