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「山月記」だけでない『中島敦』を読んで考えたこと

ひょんなことから、ちくま日本文学シリーズの『中島敦』を読みました。

ちくま日本文学のシリーズは、その作家の作品をまとめて一冊にして、しかも文庫本で読めるというすぐれものです。
分厚いハードカバーの全集は、図書館で借りるにしてもちょっと身構えてしまいますが、文庫なら手を出しやすいですよね。

中島敦といえば、国語の教科書にも載っている「山月記」。
実は私も、中国史小説を書いた人ぐらいの認識しかありませんでした。
なので、今回ある程度の作品数を読み、中島敦とはどういう作家だったのか考えていくことで、いくつかのことに気づきました。

李徴の敗因は「ひとりよがりだったから」なのか?

「山月記」だけではない中島敦……というタイトルの記事なのに、何はともあれ「山月記」でどういうこっちゃねん、ですが。
詩人を志した李徴が、夢破れて虎になる話……って、これをネタバレ判定はご容赦ください。

「山月記」が何で教科書に入っているかって、コンパクトにまとまった小説というのもあると思いますが、若者が挫折する話……というのもあると思うんですよね。
学校は「夢を持て。個性を磨け」と言う割に、突き落とす算段までしてる……それが教科書の「山月記」では? とまで勘ぐってしまう。

「山月記」の主人公・李徴は、詩人になるという夢を持ち、官僚として忖度しながら生きるのが嫌で、仕事を辞め、ひきこもり生活に入って詩作を続けるものの、芽は出ない。生活困窮から再び働き始めると、かつての仲間たちは既に出世して雲の上。いたたまれなくなって逃げだした先に待っていたのは、虎になるしかない道……。

いつの時代も、李徴予備軍はたくさんいます。
私も若いころは、李徴予備軍でした。小説とか書きたくてね。
でも、夢を追うだけの生き方は危険だから、夢は持ちつつ、現実とちゃんと向き合うことは大事だよと。
自分だけの世界に入るのではなく、みんな仲良く切磋琢磨しながら、元気に明るく前向きに、国家にとって都合のいい駒になりましょう?

凡人が「山月記」から受け取る感情はそんなものですが。
ただ、中島敦のほかの作品、例えば「弟子」や「李陵」を読むと、どうにもならない世の中の非常さに絶望しているような、そんな感覚が作品の根底にあるように思います。

「弟子」は孔子の弟子・子路の物語。
子路は、孔子の弟子の中でも愚直な善人で、曲がったことが苦手ゆえに苦難を呼ぶ羽目にもなるんですが、その子路に対する距離感が辛辣なんです。

一方「李陵」は、匈奴との戦に敗れて捕虜となった李陵の虚しさと、李陵に対する讒言をかばったために罪に問われる、司馬遷の苦悩が書かれています。
ですが、李陵も司馬遷も決して悪人などではなく、むしろ良識ある人物の中に入る方なのに、彼らの言動に対する作者の描き方が突き放すようなもので(特に司馬遷)。

子路や李陵、司馬遷の言動に甘さがあったり、性善説を頼みにして軽はずみすぎるという意見はもちろんあると思います。
正論がいつでも通るわけじゃない。
それがわかっているから、中島敦は彼らに同情を寄せて終わらないんですよね。
何が悪かったのか、どこがまずかったのか、どうすべきだったのか、キャラクターたちにどんどん突きつけ、だからお前は救われないのだと突き放し、そこまで世の中は都合よくないと知らしめる。

でもどんなに頑張っても、小説の中で指摘されるような部分を改善したとしても、李徴はやっぱり虎になったと思うんですよ。
李徴の後悔は、中島敦のそれではないかと。
中島敦も死後にブレイクした作家ですから、「山月記」を書いていたころの彼は、自分が教科書に載る作品を書いているなど知らないんですもん。
作家としての才能に恵まれて、努力もして、素晴らしい作品を書いていても、売れない。真面目だからこそ、自分の至らなさをどこまでも分析して批判する。

だから、「山月記」から何か人生訓のようなものを読んで欲しいと思うなら、「誰もが虎になりうる世の中だから、虎をも見捨てないような社会をつくろう」であって欲しいなと思います。自業自得とかじゃなくて。
そしてそれ以前に、「うまい文章は読む人の心を富ませる」であって欲しくはないですかね? 先生。

書かれた時代に作品世界は閉じ込められる

世の中の理不尽さは個人の努力ではどうにもならないのに、個人の責任に帰結してしまう無慈悲な世界。
中島敦の作品には、そういう世界観があるように思われます。
彼の生きた時代が戦前~戦中なので、仕方ないんですが。

なので、朝鮮半島における日本の植民地支配の矛盾を書いている「巡査の居る風景」(昭和4年の作品)を読みながら、読者が感じるハラハラ感と中島敦が書こうとしたハラハラ感には、多分相違があるんじゃないかと、そういう気がしてきました。
早い話が、中島敦は敗戦を知らないわけですよ。
我々は日本の植民地支配が失敗することを知っているから、当時の愚かな日本人にハラハラする。
でも中島敦は、植民地支配がずっと続くかもしれない前提で書いているかもしれないので、現地の方が受ける迫害にハラハラして書いている?

中島敦の作品は、普遍的な問題を描いているので、令和の今でも古びることなく面白く読めます。
ただ、行間に漂う空気のようなものは、書かれた当時のそれが閉じ込められているのだと思います。
それは、一周回って「戦前」の声が聞こえつつある昨今、より親近感があるそれに変わってきている気もします。残念ですが。

作家の全著作を読めば見えるものがある

私も普段は、気になる作家さんの作品全部を読もうとしても、なかなかそういうわけにはいきません。
好きな作品があって、その作品が好きであればあるほど、他の著作を読んでも、自分の好きな作品との違いが気になったりして、「やっぱりあっちの作品の方が面白いわ」と読むのをやめてしまったり……ということは、何度もやっています。
でもその読み方で、果たして好きな作品の本当の姿を追えているのか? という部分に、今回思い至りました。

全著作は無理でも、好きな作品の著者は追いかけてみる。
好みに合わないものでも、著者と対話するつもりで、とりあえず読んでみる。
そうすることで、著者の考えていることにより近づけるし、近づくことで個人的な発見もあるかもしれないし。

私も昔は「作家の個人的な考え方とかを知ってもなぁ……」というふうに考えていました。
でもそれって、小者は自分が小さいからこそ他者の頭の中も小さいと考える、そういうやつだったんですよね。
つまみ食いしかしない人間に、コース料理やお膳全体の奥深さはわからない、まさにそれでしょうかね。

ということで、この記事から「もうちょっと読書してみよう」と思っていただけたら幸いなのですが、いや、全然そう思っていただけそうな書き方をしていないので、いやはやそれは強欲すぎるというもので。
ひょっとしてこの記事が2022年ラストとなるやもしれません。ご一読いただきました皆様、ありがとうございました。よいお年をお迎えください。

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