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老いた親を見送る本を読んで、見送ることと死んでゆくことを考えた話。

たまたま手に取った二冊の本に、共通テーマがあることってありますよね。
そんなつもりなかったのに……と思っても、知らず知らずのうちに引き寄せている。
そんな二冊について、書きます。

『エリザベスの友達』

まずは、村田喜代子さんの『エリザベスの友達』。

表紙にお馬さんがいたので、手に取ったんですけどね(笑)
認知症になって有料老人ホームに入った母親を見守る娘たちのお話です。

この物語は成功例

何と言ってもこの物語は、「全てがうまく回った成功例」だと思います。
有料老人ホームの高い利用料が払える資金が、中高年(というかむしろ老齢)姉妹にある。
姉・満州美は半身不随の身でありながら、老人ホーム利用料の8割を捻出できるくらい、株の売買で利益を上げる能力と幸運に恵まれている。
妹・千里の経営する喫茶店が、人を雇っても利益が出るくらい繫盛していて、且つホーム利用料2割や姉と食べる食費を捻出できる。
母・初音の入居しているホームの介護士や看護師が良い人ばかりで、しかも退職する様子もない。
何か、夢のよう……。

有料老人ホームの入居利用料も、一時期よりは安くなったようですが、それでも年金生活者が気軽に入れるような価格ではなく、この小説を読んで庶民が夢見るのは危険だなと思いました。
「見学してみたら良い施設だった」としても、実際に入居するときに、見学時のスタッフさんがいるとは限らないのも現実だし。
なので、介護のノウハウ本のような読み方をしたら、マズイと思います。
それでも。
認知症になって死ぬのも悪くないかもしれないなあ……と、ちょっと思わせてしまう小説です。

現実にしみ出てくる過去

姉妹の母・初音さんは認知症の進んだお年寄りです。
若い頃(戦時中)は夫・俊作さんについて海を渡り、中国・天津の日本租界で華やかな生活を送っていました。
現代とのスイッチが切れて、まどろむ初音さんが夢見るのは、天津時代の楽しかった思い出ばかり。
満州事変の後の、しかも満州ではなく天津にいたおかげで、同じ天津に租界のあったイギリスやフランスの文化も吸収し、当時の日本女性としてはかなり恵まれた立場だったように描かれています。
この後の悲惨な歴史を知っているからこそ、美しい社交界模様が痛々しくて。

そんな過去の物語が、現代の時間軸の中にしみ出してくるんですが、初音さんの夢であるからこそ、突然転んで現実に戻ったりもする。
現実に戻っても、終始うとうとまどろんでいるので、苦痛も何もない。
ただ、夢見るのは、楽しかった頃。
初音さんの娘たちからすると、目の前にいる母親に呼びかけても返事がない、そんな現実はやるせないし、自分の未来を見せつけられているようにも捉えられます。
反面、認知症のお年寄りは意外と幸福ではないのか、そのようにも思えてきます。痛みも恐怖もなくて。
長年生きてきて、もう未来は残されていないのだから、過去の夢の中に生きてもいいよねえ。

歌の力

そんなお年寄りたちのホームに、『みみそらコーラス』という歌のボランティアがやってきます。
お年寄りの世代が戦中派だからこそ、満州や朝鮮半島の歌を歌ったり、軍歌を歌うことで、お年寄りたちの心に働きかける。
懐かしい歌を耳にすることで、お年寄りの夢と現実とのチャンネルが合わさり、生きる力が増してくる。そんな展開になります。

人が思い出す故郷は過ぎ去った時代なのだ。

『エリザベスの友達』村田喜代子著

多分、それわかる! という人、多いんじゃないでしょうか。思い出の曲を耳にした瞬間に、過去のあの時に帰るって。
我々は、地理上に生きているようでいて、時間軸上に生きているんですね。
その時間軸上の故郷を、瞬時に呼び寄せてくれるのが、歌なのだと。

歌の力により、過去の夢と現実がつながり、お年寄りたちが口ずさみ始める。独唱する人も、合いの手を入れる人も、掛け声を入れる人も出てくる。
ホールにいたお年寄りたちの間に、一体感のようなものもあらわれる。

お年寄りたちには確かに過去しかないかもしれないけれど、今を生きているより若い世代(中高年であっても)には、まだ「今」しかない。
歌は過去と今とをつないでくれるけれど、過去の中に生きる世代と今を生きるしかない世代とをも「今ここで」つなぐ。
それは、今を生きる世代にとっての「希望」ではないか、と思います。

友だちとは、すれ違ったすべての人

結局、タイトルの『エリザベスの友達』とは何なのか。
租界ネーム・サラだった初音さん、という事実から考えても、その人が長い人生の間ですれ違ってきた人すべてが「友達」なんだろうな、と感じました。
すれ違ったと言っても、物理的にすれ違っただけでなく、噂を聞いた、情報に触れた、今で言うとネットで見聞きしたインフルエンサーも、本人の記憶にとどまっているなら、すべて友達。
それは、過去の記憶の中で生きている人にとって、事実か否かはどうでもよくて、自分が友だちだと思えば友だちだし、空想であっても、誰にも迷惑をかけるものではない自分だけの世界の中であれば、歴史上の皇后を名乗ってもいい。
むしろ、空想できる世界、空想の友だちを持っていた方が、幸せなのではないか。そう思えてきました。

我々は現実の今に生きているので、空想の世界に浸っていると「嘘つき」「頭のおかしいヤツ」と蔑まれます。
でも、年を取って、死の恐怖に耐えながら日々を送るようになるなら、空想の世界は必要なものだし、それが豊かであればあるほど、幸福な最期を過ごせるのかな、とちょっと思いました。


『父ガルシア=マルケスの思い出 さようなら、ガボとメルセデス』

で、次に読んだのが、故ガルシア=マルケスの息子ロドリゴ・ガルシア氏による追想録です。

ノーベル文学賞作家の最期に立ち合うかのような

この本は、ガルシア=マルケスの具合が悪いらしい、というところから始まって、最後の日々を家族とどのようにすごしていったか、という追想録です。
文章は遺伝すると言われたりもしますが、ロドリゴ・ガルシア氏の文章から臨場感がむちゃくちゃ伝わってきて、読みながら、身内になったような気分を味わえます。
ロドリゴ氏も映画監督なので有名人なんですが、ノーベル文学賞作家の家族という立場は本当に大変なようで、父親がやばいというだけで本来なら家族はパニックになっても当然なんですけど、まずマスコミ対策を考えなきゃいけないという……。
8年の歳月を経て、地球の裏側で、またガルシア=マルケスのお見送りをさせていただいた気分ですね。
(ガルシア=マルケスが亡くなった当時、私はまだガルシア=マルケス作品を読んでなかったので、あらためてきちんとお見送りさせていただいたという感じなんですが)

忘れていく現実

『エリザベスの友達』を読んでて、認知症になっていくのもまんざら悪いことばかりじゃないかも……なんてちょっと思っていたんですが、ガルシア=マルケスの「忘れていく」苦痛を読んでいたら、そんなもんじゃないよ現実は、と突き付けられた感じがしました。
作家にとって「書けなくなっていく自分」って、もう存在意義を問わずにいられなくなることでしょうし。
生きていくことも死んでいくことも、ラクなことばかりじゃない。でもだかたこそ、支えてくれる人のいることがありがたい。いくら小説で稼いでも、人間は無力だ。そんなことを教えられた気がします。

個人的な感想

ちょっとここからは個人的な感想を。
ガルシア=マルケスって文章はめっちゃうまいと思うんですけど、ちょっと苦手な部分があるというか、要するに1927年生まれの男性ですから、セクハラが激しいんですよね。作品内でも。『エレンディラ』とか、虐待が激しくて読むの辛かったですし。
晩年もお世話をして下さる女性に軽口を叩いたりして、個人的には「エロおやじ……」と思ってしまった。
あの時代の男だから仕方ないのはわかる。でもしんどい。ちくしょうっ、という感じ。

なんでこんなことを書いたかというと、これからガルシア=マルケスを読む人がいた場合、現代の感覚とちょっとずれてるから注意してね、という部分と、だからといって作品を全否定するのはもったいないから、そこを加味して読んでね、という部分がありまして。
価値観の変動する時代にあっては仕方ないんですけど、文学って書かれたその時代性も含めて作品なので。
男性作家の作品って、だから読んでてむかつくこともたくさんあるんですけど、時代を知る歴史的側面からの考察が必要なんだよねえ、と。

しかし、こうやってガルシア=マルケスのことを考えていると、読まなきゃいけない気になりますね。『百年の孤独』を。まだ読んでないので。

個人的には『予告された殺人の記録』が面白かったので(男尊女卑だっ!と主張したい部分は多々ありますが)、これから読む方にはこちらをおすすめ。

こんな「おすすめ」とか言ってますけど、ガルシア=マルケスを初めて読んだのは2年前……。ぜんっぜんビギナーやん。

作家の最期を知ると、その人をもっと知りたくなり、残された作品を読むことで、自分との対話を埋めてゆく。
対話を深めれば、世界的な作家であっても、自分の心の中だけでは「友だち」でもありうる。
本は、時空を超えてそういうおつきあいのできるものなので、私はこれからも「読書っていいよ~」と言い続けます。

長い記事にお付き合いいただき、ありがとうございました。

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