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『タイタス・アンドロニカス』を読んだ。ぶっ飛んだ。

縁あって、シェイクスピアの『タイタス・アンドロニカス』を読んだ。

家族が図書館で借りてきたので、「おっ、シェイクスピアじゃん」と思って、ついでに手を出した。出しておったまげた。なんだ、こりゃ。

シェイクスピアと言えば『ハムレット』と『ロミオとジュリエット』くらいしか読んでいないし、舞台も特に観に行く方ではない……という程度の人間にとって、『タイタス・アンドロニカス』はすごかったです。

時は古代ローマ。
ゴート王国を攻めて、勝利の帰還を果たしたタイタス・アンドロニカス軍と、捕虜となったゴートの女王とその息子たち。
ローマ皇帝の前に一同が会して、はてさて……というところから始まるお話なんですけどね。(以下ネタバレあります)

なんかもう、すごかった。

すぐ人を殺すし。
すぐ感情的になるし。
手を切り落としたり、舌を切ったり、残虐さ、ハンパない。

女性の人権も、当然ながら、無茶苦茶軽い。
だから意思の軽んじられ方も、16世紀だから仕方ないとはいえ、ツッコミ入れずにはいられないくらい。

親から見た子ども(若者)の人権も軽い。
反論を全く許されず、釈明も命乞いもできず、口を封じられたまま殺されていく。
え? 今、ト書きであっさり殺されたの? と、確認してしまうくらい、気づいたら殺されてる。

古典文学って、そういう時代性・歴史性込みで読むことで、文学史としての立ち位置と、歴史の中の社会性も読めるので、素人が教養もなしに読むと、大抵ずれた感想を書き散らすだけに終わります。
だから、私が『タイタス・アンドロニカス』について書くのは、絶対間違っていると思う。素人なので。
少なくとも、シェイクスピア全作品を読んで、ギリシャ、ローマからのヨーロッパ史を抑えて、英語文学史もおさらいしておかないと、スタート地点にも立てられませんわな。
それがわかっていて、書いちゃうんだけど。

『タイタス・アンドロニカス』は初期作品ということで、やっぱり時代性もあったのかなと思うわけで。
市民が芝居に何を求めるのか。
脚本なので、当然そこが中心になりますよね。
人間の本質がさほど変わらないのであれば、「安全な場所で、カタルシスを得たい」かと。
だから、ローマに征服されたゴート王国の王妃と息子たちが、征服者であるローマの勇将に復讐を願う。された方も今度は恨みに感じ、画策する。復讐の応酬。
と書くと、なあんだ、普通に物語の骨格を踏襲してるだけじゃん。
残虐なシーンが多くても、それは舞台上の話だから、観客は安全。

これって「フィクションは現実と違う」的な発想なのかな?

とはいえ、消される側の人間は、恨み文句の一つも言えない。
それってどういうことなんだろう。

というか、一番あれこれ言っているのが、黒人の使用人・エアロン(アーロン)。
彼が一番生き生きと描かれていますよね。
黒人という生まれ故に、最下層の立場に追いやられているエアロン(アーロン)だからこそ、なのか。
う~ん、それでも、エアロン(アーロン)のやってることには、全然賛同できないので、カタルシスどころではないんだけど。

個人的には、タイタスの娘・ラヴィニアの扱われ方の酷さが、気になります。
確かに、は? と思うような言動もあったよ、この娘。
恋人いたのに、皇帝から求愛されて、Noと言えないのは仕方ないとしても。
兄弟に守られて、無事恋人と結婚出来た後、自分がふった皇帝の妃となったゴートの女王になんか嫌味言ってるし。
悪し様に言った、その舌の根も乾かないうちに、同情を引こうとしてるし。
人間として未熟だなあとは思うよ。
でも、そこを引き算しても、あんまりじゃない? この娘の扱われ方は。
まず死んでるやろ? 物語上、延命させてるけど、あの状況は、普通なら死んでるし。
そんな状態のラヴィニアを前にして、叔父さんのマーカスは、自己陶酔の歌を歌ってるし。(個人の感想です)

カタルシス、どこが?
もやもやしか残らんわ。

16世紀の作品ということで、やっぱり人権意識の問題なんですかね。
物語の舞台が古代ローマだし、だから余計に人の命や尊厳が軽い。

ここまで書いて、ひょっとしてシェイクスピアが古代ローマの劇を書く感覚って、昭和に時代劇が流行ったみたいなもんなのかなぁ、と思ってしまった。
自分たちとは、直接利害関係のない社会を描くからこそ、わりと自由に好き勝手描ける。

つまり、町人はすぐに悪代官の一味に斬られる。
町娘はすぐに手籠めに合う。
街に巣くう悪い奴らを、仕事人や暴れん坊将軍や黄門様が懲らしめる。
めでたしめでたし。

今観ると、昭和の時代劇も「えええ???」になる。
それは、価値観の変化だから仕方がないんだけど。
それ以上に、同じ内容を現代設定で描くと途端に嘘くさくなるし、リアリティ追求型でいくと、泥臭くなりすぎて辛い。
エンターテインメントではなく社会派作品になり、器の小さい権力者からは疎まれますわな。哀しいことに。

物語作家って、人権の軽い時代であればなおのこと、書くことと書かざることの取捨選択が、人生を左右するんだろうな……と、物語を書けない人間が思うのだった。

だからやっぱり、書かれた当時の社会性とか、物語の舞台の時代性とか、加えて物語文学の歴史とか、いろいろ知った上で作品に触れた方が、絶対面白く読めるぜ! という結論に戻るのでした。
基本的な価値観が、今のそれと合わないのは当たり前。だって昔の作品だもん。
それでも昔の作品に触れることで、人類の歩いてきた道を知ることができるなら、読書の意味なんて無限なわけで。
これからの未来をどう生きていくか、考える上でも。

結局、本を読めば読んだだけ、自分の知らないことの多さにビビってしまうし、もっと知りたい、学びたい、でも残りの人生じゃ無理なんじゃないかと、頭を抱えてしまうわけです。
読書ってきりがないね。
だからこそ、面白いんだけど。
この面白さにはまったら、人生いくらあっても足りないので、頑張って長生きしたいと思います。

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