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カズオ・イシグロさんの『遠い山なみの光』を読みました。

ちょっと前に、カズオ・イシグロさんの新刊が面白い! というような記事が新聞に載っていて、ふ~んと思いながら、ミーハーな50代の本棚にささっていたことを思い出しました。『遠い山なみの光』。

本棚にささっていたけど読んでない。確かノーベル賞受賞の頃に、誰かが「『遠い山なみの光』いいよ」って言ってたので買った。でも最初の数ページで挫折してそのまま戻した。そのまま気づかないふりをしてた。みんなが「いいよ」って言う作家の作品が読めないことほど、惨めなことはない。

なのでまあ、リベンジですわな。リベンジで読んでみたら、面白かったというか、身につまされるというか、考えてしまうことも多々あり、読んで良かったです。(だいたいいつもコレ……)

物語としては、英国に住む悦子が、長崎に住んでいた若かりし頃に知り合った母娘との日々を回想する話。時代は、朝鮮戦争の頃。
登場する人たちはみんなあの戦争を経験していて、どん底から這い上がって懸命に生きていて、でも生きていく中でずれが生じていく。ほのかな希望にすがるしかない人間たちの姿が、描かれています。

カズオ・イシグロさんは長崎生まれですけど、やっぱり母語は英語なんだなあ……と、会話文を読みながら感じました。
日本が舞台で、登場人物の大半が日本人であっても、英語で書かれた小説。なので、戦後すぐの日本人が何を考えていたかを、英語圏の人たちに見られている感が、終始つきまとってました。
日本人って、わりと自分たちが世界からどう見られているかを、意識してなかったりするでしょう? 自分たちの意識として「見る側」しかなかったりしません? だから、この視線の痛さは、忘れちゃまずいなと思ったわけです。

『遠い山なみの光』に出てくる日本人は、あの時代の日本人だと思います。
終戦までの常識から逃れられない老人と、あれは間違いだったと考える若者。その対比を、戦勝国の人たちがどう読んだのか、気になります。
この時点で、私はこの小説を文学としてではなく、歴史としてとらえているところがどうかとも思うのですが。
緒方さんという主人公の舅のキャラが、あの時代に比較的安全な場所にいて終戦を迎えた成人男性の特徴をよく表しているので、祖父もこんな感じだったなぁ、と思った途端に、現実を意識せざるを得ないんですね。
敗戦は仕方なかった。敗因は武力が足りなかった、それだけだ。それですましちゃ、まずいじゃん。何も学んでないじゃん。それが世界中に広まって、恥ずかしいって思わないのもまずいじゃん。

と思ったところで、この作品のテーマでもある、人間同士のかみ合わなさ、分かり合えなさ、ずれといったものが、しみてくるんですね。
現実は不条理で、過去や未来にすがるしかない人もいれば、そういう人を批判的に見ながら、今の自分の生活を自慢したい人もいる。人生は思う通りにはならない。他者を批判していた自分も、いつその批判される立場になっているかわからない。

そう読んでくると、わかり合えないなあ……と思っていた現実の人間関係も、実は小説の世界そのものでは? となって、これは冷静に意識しないともったいないじゃないか、と思えてくるんですね。
小説って本当にすごい。

なんてことも、本文を読み終わって、解説まで読んだから、なるほどとなったわけで、専門家の解説って大事だなあ……と、学生時代に読み飛ばしていた自分を叱責したい。偉い先生に「この作品はこう読め」と言われてるようで、「はあ? そんなん自分の好きに読むわ」とか思ってたよ。今でもその傾向あるよ。でも、無教養ゆえに気づかないこととかあるよね。恥を知れ。

カズオ・イシグロ作品って、今からでも比較的追いかけやすい(文庫で出てるし、地域の図書館にもあるし)ので、ちょっと追いかけてみようかな。でもやっぱり『遠い山なみの光』に出てきた、あの昭和時代の日本人も気になるな。時間には限りがあるので、興味の向くままに追いかけるのが一番だよね。
ということで、ステイホームなGWには、やっぱり読書です。
自分の無知さを知るのに、読書ほど最適なものはないね。

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