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お精霊迎えで始まる京都の「お盆」 ――冥界を行き来した小野篁ゆかりの六道珍皇寺

文・ウェッジ書籍編集室

 お盆の時期には先祖の霊が「あの世」から帰って来るとされ、日本各地でさまざまな行事が行われます。とりわけ、京都にはお盆の前にお寺にお参りをし、精霊(しょうりょう)をお迎えするという独特の風習が残っています。そのひとつが「六道まいり」です。
 その舞台は六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)をはじめとする地元の寺ですが、コロナ禍に見舞われた今年は、先祖に会うばかりでなく、コロナの完全な終息を願う全国からの参詣者でにぎわうことでしょう。
 六道珍皇寺周辺は鳥辺野(とりべの)とも呼ばれ、あの世とこの世の分かれ道があるとされてきました。また、平安期の公卿・文人である小野篁(おののたかむら)が「あの世」と「この世」を行き来した伝説の舞台でもあります。
 ここでは、9月16日発売予定の『京都異界に秘められた古社寺の謎』(新谷尚紀 編、ウェッジ刊)の中から、京都の夏の風物詩とも呼べる「六道まいり」の舞台をみていきます。

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先祖の霊を迎え入れる「六道まいり」

 毎年8月、お盆前の時期になると、鴨川の東岸、東山山麓にある六道珍皇寺の参道と境内は大勢の参詣者でにぎわいます。

 参道の花屋で高野槇(こうやまき)を買った参詣者は、本堂で水塔婆(みずとうば/薄い木の板で作られた塔婆)に先祖の戒名を書いてもらい、「迎え鐘」をつき、石地蔵が並ぶ「賽(さい)の河原」で高野槇の葉を使って水回向(みずえこう/水塔婆に水をかけること)を行います。それが終わると、高野槇を各自の家に持ち帰ります。

 お盆の先祖供養に向けて、先祖の霊(精霊)を迎えるために行われる風習で、回向をした槇の葉にはしばしの里帰りのために冥界からやってきた精霊が乗り移っている、と信じられています。

「お盆の迎え火」のバリエーションにあたると考えられますが、六道珍皇寺のこの行事は「お精霊さん迎え」あるいは「六道まいり」などと呼ばれます。はじまったのは室町時代以降のようですが、現在では毎年8月7日から10日にかけて行われ、京都ならではのお盆習俗、京洛の夏の風物詩のひとつとなっています。

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処刑場のあった六条河原付近から見る鴨川。鴨川から東には鳥辺野と呼ばれる平安京の墓所があった

 六道珍皇寺でこうした風習が続いているのは、この寺のあるあたりが、平安時代にはあの世とこの世の境界、すなわち「六道の辻」であると考えられていたからです。六道とは、衆生(しゅじょう)が輪廻転生(りんねてんしょう)する地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道の6つの世界のことです。それが、寺号に「六道」が冠せられている所以(ゆえん)でもあります。

平安前期には創建されていた六道珍皇寺

 六道珍皇寺の草創については諸説があります。ひとまず寺の略縁起に沿って説明すると、開基は奈良・大安寺の住持を務めた慶俊(きょうしゅん)で、延暦年間(782~806年)に開創され、古くは愛宕(おたぎ)寺とも呼ばれました。ちなみに、京都盆地の東北部分は古くは愛宕郡と呼ばれ、珍皇寺付近は愛宕郡鳥部(とりべ)郷に属していました。

 ただし、開創者については空海とする説や、平安時代前期の公卿・小野篁(802~852年)とする説もあります。この他にも、東山の阿弥陀ヶ峰(鳥辺山)山麓一帯に住んでいた鳥辺氏が建立した宝皇寺(鳥部寺)の後身とする説、このあたりの豪族であった山代淡海(やましろのおうみ)らが承和3年(836)に国家鎮護所として建立したとする説など、珍皇寺の起源に関してはさまざまにいわれていますが、ともかく平安前期までには建立されていたようです。

 空海説があることが示唆するように、もとは真言宗に属し、平安・鎌倉時代には東寺の末寺として多くの寺領や広大な伽藍を有していましたが、中世には兵乱に巻き込まれて荒廃しました。

 南北朝時代の貞治(じょうじ)3年(1364)、近くにある禅刹・建仁寺の住持・聞溪良聰(もんけいりょうそう)によって再興され、建仁寺の末寺となりました。現在は臨済宗建仁寺派に属します。本尊は薬師如来坐像(平安時代)で、境内には閻魔堂(篁堂)、地蔵堂、鐘楼などがあります。また「珍皇寺」は、古くは「ちんこうじ」とも読まれていました。

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鴨川の東には、「この世」と「あの世」の境界とされる「六道の辻」と呼ばれる場所があり、六道珍皇寺はそこに建つ(京都市東山区)

閻魔に仕える小野篁の冥官伝説

 珍皇寺といえば、小野篁の伝説が有名です。篁は飛鳥時代に遣隋使として活躍した小野妹子(おののいもこ)らを輩出した小野氏の人で、日本一の書家とされる小野道風(おののとうふう)、日本一の美女とされる小野小町の祖父にあたります。

 嵯峨天皇に仕えた有能な公卿でしたが、優れた詩人としても知られ、『古今和歌集』には六首がとられています。遣唐副使にも任じられましたが、大使の藤原常嗣(つねつぐ)と仲違いし、嵯峨上皇の怒りに触れて隠岐に配流されるという辛酸も味わっています。「わたの原 八十島(やそしま)かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり舟」という『小倉百人一首』にとられた彼の和歌は、隠岐に流されるときに詠んだものと伝えられます。

 だが、しばらくして帰京を許されて、最終的には参議(宰相)にまでのぼりつめています。 篁はその不羈(ふき)な性格から「野狂」とも呼ばれていましたが、昼間は謹厳実直な官僚として朝廷に出仕しながら、夜になると冥界の閻魔庁につとめていた、という奇怪な伝説の持ち主でもあります。たとえば、『今昔物語集』には、つぎのような話が記されています(巻第20)。

 右大臣・藤原良相(よしみ)はかつて、若き日の篁の窮地を救ってあげたことがあったが、その良相が重い病のために亡くなり、冥府に下って閻魔王宮で裁かれることになったところ、驚いたことにそこに篁がいる。しかも篁が閻魔王に「この人は心正しい人なので、どうかお許しくださいますように」と言ってくれたおかげで、良相は冥府から戻され、生き返ることができた。

 この世に帰って元気になった良相は、参内のおりに篁と会ったので、ひそかに冥府でのことを訪ねた。すると篁は笑みを浮かべながら、「どうかあのことは決して口外しませんように……」という。良相は篁がほんとうに閻魔王宮の臣であることを知り、彼をいっそう恐れた。

 この話は自然と世間にもれ、篁は閻魔王宮の臣として現世と冥界のあいだを行き来する人なのだと、畏れ敬われるようになったのです。

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小野篁(『前賢故実』)。野相公、野宰相の異名があり、その反骨精神から「野狂」とも称された。『小倉百人一首』では参議篁(さんぎたかむら)

六道珍皇寺に残る「冥途通いの井戸」

 篁の冥官伝説は、『今昔物語集』だけでなく、大江匡房(おおえのまさふさ/1041~1111年)の談話を集めた『江談抄(ごうだんしょう)』や、鎌倉時代末に成立した仏教通史『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』などにも記されています。

 昼はすました顔で律令政府の忠実な官僚を務めながら、夜は冥界の王に仕えて亡者の極楽・地獄行きの沙汰を差配するという姿は、不気味でもあり、かつどこかユーモラスでもありますが、官僚らしからぬ篁の詩才や不羈奔放な性格がこのような怪しげな伝説を生んだと考えられます。

 すでに記したように、篁は六道珍皇寺とは縁が深く、彼を開基とする説は平安末期成立の辞書『以呂波字類抄(いろはじるいしょう)』にすでにみえていて、そこには彼の冥官伝説も言及されています。

 小野氏は平安遷都以前から山城国愛宕郡小野郷(京都市左京区)に土地を有していたとみられるので、その南側にあたる珍皇寺付近の土地は篁にとっても昔からなじみはあったはずであり、彼がこの地の寺院の檀越(だんおつ)になったとしても不思議ではありません。

 珍皇寺では、篁はこの寺の井戸から冥界に通ったと伝えられていて、本堂の背後にある庭には、彼が用いたと伝えられる「冥途通いの井戸」というのが現存しています。そして境内の閻魔堂には、篁の木像が閻魔王の像とともに並んでいます。

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『都名所図会』に描かれた六道珍皇寺。本堂裏には篁が冥土へ通ったと伝わる井戸があり、閻魔堂には閻魔大王像とともに小野篁像が合祀されている

――六道珍皇寺及び小野篁伝説については、『京都異界に秘められた古社寺の謎』(9月刊予定、ウェッジ刊)の中で京都の他の古社寺とともに詳しく触れており、ただいまネット書店で予約受付中です。ご予約はこちらから。



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