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ちょっとした自信の積み重ねで、人は生きられるんじゃないか 都甲幸治(翻訳家・大学教授)

小説家、エッセイスト、画家、音楽家、研究者、俳優、伝統文化の担い手など、各界でご活躍中の多彩な方々を筆者に迎え「思い出の旅」や「旅の楽しさ・すばらしさ」についてご寄稿いただきます。笑いあり、共感あり、旅好き必読のエッセイ連載です。(ひととき2021年6月号「そして旅へ」より)

 大学に入って初めての夏休み、僕はどうしようもなく旅に出たかった。でも先立つものがない。というわけで、ものすごく安くすむ青春18きっぷを買って、金沢の高校時代の友達の北くんを誘い東京から電車に乗り込んだ。5枚綴りの切符は当時も安くて、全部で1万円ぐらいだったかな。とはいえ、なにぶん初めてのことで失敗も多かった。当然座れると思っていたから、いざ電車が来てびっくりした。全然座席がない。休み中に旅をしたい、でもお金がない学生でぎゅうぎゅうの電車だから当たり前だ。仕方なく通路に新聞紙を厚く敷き、その上にデンとあぐらをかいて座り込んだ。もちろん名古屋に着く頃には体がバリバリだった。

 でも嬉しかった。夜明けとともに今まで見たこともない色の電車が視界に入る。それまで名古屋には縁がなかったから、その光景を見てものすごい達成感があった。その後は電車を乗り継ぎ、湖西線で北に向かった。急に気が向いて琵琶湖のほとりの駅で降り、なんとなく岸辺を散歩する。いかにも田舎の家という感じのところで洗濯物が風に揺れている。ただそれだけのことが嬉しかった。北陸本線に乗りかえ、すさまじい時間をかけてようやく金沢に着き、北くんの家に泊めてもらった。でもまだまだ先に行きたかった。

 それで今度は関西に向かい、夕方大阪に着いた。土地勘がないから、とりあえず通天閣かな、なんて思って歩いていると、知らないおじさんにウワーッと怒鳴られた。そこらの店でお好み焼きを食べようと思ったが、凄みのあるおじさん二人とちょうど向かい合う形で相席になってしまい、めちゃくちゃ緊張した。思っていたほどカプセルホテルは怖くはなくて、無事朝目覚め、そのまま西に向かう電車に乗り込んだ。

 福岡には祖父母がいた。両親に連れられての里帰りでは、何度も新幹線に乗っていた。でも鈍行で行くと全然違う。左側の窓の外は延々と海だ。やがて駅に着き、扉が開き、特に何人も乗り降りせず、また扉が閉まって、また海を見る。瀬戸内の風景は本当にゆったりしていて、なんとなく車内までぼんやり暖かく、この繰り返しがたまらなく気持ちいい。そうしているうちに、本当に福岡に着いた。

 自分たちの冒険の話をしたら祖父は大いに喜んでくれた。祖父は戦後ずっと国鉄マンだった。だから家の客間には新幹線の絵が描いてあるタイルが飾られていたし、踏切にちなんだ俳句の軸もかかっていた。そういうのを見ると、祖父が本当に鉄道が好きだったことがよくわかる。とにかく僕は、自分たちだけの力で九州まで来られたことが嬉しくて、出されたご馳走もとっても美味しくて、夢中になって手羽先の甘辛焼きをガツガツ食べた。すると祖父に、そんなに早く食べてはいけないと叱られた。

 あれから30年が経ち、祖父母は亡くなって久しい。それでもふとした時に、あの時の達成感や嬉しさを思い出す。そうした、ほんのちょっとした自信の積み重ねのおかげで、人は生きられるんじゃないか。

文=都甲幸治 イラストレーション=林田秀一

都甲幸治(とこう こうじ)/翻訳家、早稲田大学文学学術院教授。1969年、福岡県生まれ。著書に『狂喜の読み屋』(共和国)、訳書にチャールズ・ブコウスキー『勝手に生きろ!』(河出文庫)、ジュノ・ディアス『こうしてお前は彼女にフラれる』(新潮社)、ジャクリーン・ウッドソン『みんなとちがうきみだけど』などがある。

出典:ひととき2021年6月号


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