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織田信長の道 早島大祐(歴史学者)

小説家、エッセイスト、画家、音楽家、研究者、俳優、伝統文化の担い手など、各界でご活躍中の多彩な方々を筆者に迎え、「思い出の旅」や「旅の楽しさ・すばらしさ」についてご寄稿いただきます。笑いあり、共感あり、旅好き必読のエッセイ連載です。(ひととき2020年10月号「そして旅へ」より)

 学生時代にやっておいてよかったと思えることがいくつかあって、そのうちの1つが自転車での琵琶湖一周旅行である。大学にようやく合格した高揚感もあって、アルバイトで得たお金を注ぎこんで買った新車にまたがり、仲よくなった友人と大学1回生の5月に琵琶湖に向けて出発したのである。もう30年ほど前の話である。

 京都から山科を経て、滋賀県の大津に出る、そして時計回りに琵琶湖を巡る日帰りの小旅行―。大型車とのすれ違いにヒヤヒヤしつつも、気候がよかったこともあって旅は快適だった。

 ただ寄り道したため、一周の中間点ともいえる彦根に着いたのは午後2時で、このペースでは日没までに京都にたどり着けない。それからは、白い光線のように行き交う新幹線を時折横目にして湖東の東海道沿いを走らなければならなくなった。

 日没までに着かなければならない焦りを乗り越えて、なんとか夜9時には京都にたどり着くことができたものの、そのときに疲れを倍増させたのが沈みかけた太陽からの日差しだった。

 それから20年後、研究者になった私は、織田信長政権の道路行政に関心を持つことになった。

 永禄11年(1568年)に足利義昭を推戴して、入京を果たした信長は、東は三河国から西は京にいたる国々を実質的に統括する大大名となっていた。ところが、天正元年(1573年)に京都を治めていた義昭と袂を分かつと、信長は単独でこれらの広大な国々を治めなければならなくなった。そこで翌年から彼が着手したのが、分国内をスムーズに移動できる交通路の整備であり、具体的には主要道路の幅を、馬が対面通行できる約6メートルに拡幅したのである。

 その結果、織田信長の分国では兵士や軍事物資の輸送がスムーズに行え、織田政権の軍事力強化にもつながったわけだが、これを調べる時に読んだ史料の中に当時、キリスト教布教のために日本を訪れていた外国人宣教師による次の記述があった。

「彼は都から安土まで道路を作ったが(中略)両側には樹木が植えられており(中略)このような道路は、征服された諸国に、都合がつく限り建設された」

 道を広げるだけでも大規模な工事なのに、その上で街路樹も整備したとは、随分と念のいった作業である。

 この史料を読んだときの第一印象はこのようなものであったが、しばらくしてあのときの西日に苦しめられた経験が頭をよぎった。信長も岐阜・安土と京を往復するたびに西日には閉口していたのではないだろうか。織田信長の時代から400年以上がたっても、湖東の西日の厳しさはおそらく変わらなかったに違いない。

 言うまでもなく、道路整備は一大事業であり、多くの人や家臣たちに負担と犠牲を強いるものであった。そしてこのことが本能寺の変の一因となったのであるが、織田信長は西日の照り返しをも和らげる努力をしつつ、天下人への道を突き進んでいたのである。

文=早島大祐 イラストレーション=林田秀一

早島大祐(はやしま だいすけ):歴史学者。1971年、京都府生まれ。関西学院大学文学部教授。専門は日本中世史。『足軽の誕生 室町時代の光と影』(朝日新聞出版)、『明智光秀 牢人医師はなぜ謀反人となったか』(NHK出版)など著書多数。

出典:ひととき2020年10月号


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