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明治新政府の官僚として活躍した渋沢栄一|大河ドラマ主人公・「日本近代化の父」の素顔に迫る(3)

文・ウェッジ書籍編集室

まだまだコロナ禍の完全な終息には至っていない日本。そんな状況下のいま、100年以上も前に刊行された1冊の本に注目が集まっています。大正5年(1916)に刊行された『論語と算盤』です。
著者は官と民の両方の立場から日本の発展に寄与したことで知られる渋沢栄一。2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公でもあり、2024年から流通する新一万円札の図柄になることが決定しています。
幕末から昭和初期にかけて500以上の企業の設立にかかわり、600以上の教育・社会事業に携わったとされる渋沢ですが、なぜこれほどの業績を成し遂げることができたのでしょうか?
ここでは栄一の玄孫(5代目)にあたり、コモンズ投信の創業者・会長で、「論語と算盤」経営塾を主宰する渋澤健氏による監訳本の超約版 論語と算盤(ウェッジ刊、2021年1月15日発売予定)から、栄一の言葉を引用しながら、前回に続き、激動の生涯を写真とともに振り返ってみます。今回はヨーロッパから帰国後、訪欧経験を活かし新政府の官僚として活躍した壮年期に焦点を当てます。

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帰国後、静岡藩で「商法会所」を設立する

自立して何ものにも頼らずやっていくためには、今日のように民間の事業が政府の保護に執着するような風潮を一掃し、政府の助けを借りずに事業を発展させていく覚悟が必要だ。また、一部分のことだけに没頭してしまうと、法律や規則の類いばかり増え、規定を守ることだけで満足するようになる。こんなことにあくせくしているようでは、とても新しい事業を経営し、世界の大勢に乗っていくことはおぼつかない。
(「細心にして大胆なれ」より現代語抄訳)

 渋沢栄一がヨーロッパを訪問している間に、日本では幕府が崩壊します。明治元年(1868)、明治新政府から帰国命令が出され、28歳になっていた栄一は横浜に到着します。

 留学中の2年余のあいだに、大政奉還、王政復古、戊辰戦争、徳川慶喜の謹慎など、国内情勢は目まぐるしく変わっていました。断片的にしか情報が入らなかった栄一は焦燥感にかられます。

 栄一は静岡に赴き慶喜と面会します。その頃の静岡藩(明治2年に地名を府中〔駿府〕から静岡に変更のうえ、立藩された)は、窮状に陥っていました。栄一には勘定組頭になるよう打診があります。

 実は栄一は徳川昭武のいる水戸藩からも要職の誘いを受けていたのですが、それを快く思わない人からの妨害を懸念した慶喜の配慮もあっての打診だったのです。このことに感激した栄一は、静岡藩のために尽力したいと考えるようになります。

 栄一がヨーロッパで学んだことの1つに株式会社制度があります。それを参考にした「商法会所」を設立し、頭取に就任します。商品抵当の貸付け、米穀や肥料などの買い付け・販売などで辣腕を振るいます。

画像①立会規則

明治4年に栄一が刊行した『立会略則』。多くの人に読まれ、会社制度の普及に貢献した。

 当時、静岡藩には新政府からの貸付金(石高拝借金)がありましたが、これを藩の政事ではなく、殖産興業のために使うよう提言します。商法会所の資本金として使い、殖産興業を進め、その利益から新政府へ返金をしていくことで、窮状に陥っていた藩の財政は見事に立ち直っていったのでした。

大隈重信の誘いで大蔵官僚になる

常識の発達について、第一に必要なことは「自身の境遇によく注意をしなければならない」ということになろうかと思う。『論語』にも自身の地位・立場についてよく注意をすることを教えた例が数多く見られる。
誠に自身の境遇・地位をよく知って適切に活用するのが、孔子の大聖人となりうる唯一の修養法だったように見える。孔子のような人であっても、場合によってはささいなことにも注意を怠らない。
(「何をか真才真智という」より現代語抄訳)

 静岡での生活が軌道に乗っていた明治2年(1869)、栄一は新政府から民部省(のちの大蔵省)への仕官を命じられます。栄一は当初はこれを辞退しますが、大隈重信から熱心な説得を受けます。

 実は大隈に栄一の登用を薦めたのは伊達宗城(だてむねなり)で、パリでの栄一の仕事ぶりを注目してのことでした。宗城自身も幕末の宇和島藩主として藩政改革を行い、殖産興業を進め、新政府では民部卿や大蔵卿を歴任しています。

画像②初代大蔵省

初代大蔵省。明治2年に民部省と合併された

 当時の新政府は人材が不足しており、新しい日本を築くためには、旧幕臣であろうと広く有能な人材を登用したいという思いがあり、栄一に期待を寄せていたのでした。

大久保利通と対立し官僚を辞職

私たちはなるべく政治や軍事が力をもち過ぎることなく、実業界が力をもつようになることを希望する。実業界の務めは富の増殖である。これがきちんとなされなければ、国の富が蓄積されることはない。
(「論語と算盤は甚だ遠くして甚だ近いもの」より現代語抄訳)

 新政府の民部省租税正に任官した栄一は、廃藩置県や地租改正、貨幣改革、鉄道敷設、富岡製糸場の設立などに携わります。また、銀行制度の創設にも携わります。訪欧経験を活かし、近代化に必要なあらゆる制度の導入を手掛けたといえます。

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明治5年に創業した官営富岡製糸場の全景を描いた錦絵(農林水産省)

 新政府の官僚として多忙な日々を過ごしていた栄一ですが、やがて予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信らと対立します。政府の収入と支出の均衡をはかろうとした栄一ですが、それが受け入れられず、明治6年(1873)には上司の井上薫とともに大蔵省を辞職します。

 かつての訪欧経験から商業発展の必要性を痛感していた栄一は、ついに官僚から実業の世界へと足を踏み込み入れることになるのです。

――渋沢栄一の成功哲学については、超約版 論語と算盤(2021年1月15日発売予定、ウェッジ刊)の中で、監訳者であり玄孫である渋澤健氏によるコメント付きでわかりやすく解説しています。ただいまネット書店で予約受付中です。

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