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工藝家の夢 赤木明登

小説家、エッセイスト、画家、音楽家、研究者、俳優、伝統文化の担い手など、各界でご活躍中の多彩な方々を筆者に迎え「思い出の旅」や「旅の楽しさ・すばらしさ」についてご寄稿いただきます。笑いあり、共感あり、旅好き必読のエッセイ連載です。(ひととき2022年6月号「そして旅へ」より)

 あるひとつの感覚について、これからぼくは語ろうとしている。いまここにいる、すべての人に、その感覚を伝えたいと思うが、それがなかなか困難だということも、もちろん知っている。それでも、語りはじめなければならない。それは「真実の世界は、いまぼくたちが経験している世界を超えているのではないか」という感覚である。現実に、ぼくたちは世界の中にいて、この世界を経験しているけれど、だがしかし、ぼくたちが知っているのは、ほんとうの世界のすべてではない。この世界に全体があるとしたら、そのほんの一部分を見たり、聞いたり、触ったり、味わったりして、それが世界だと思い込んでいるだけなんじゃないか。ぼくたちが、いると思い込んでいる世界は、ほんとうの世界よりも、ずいぶんと小さい。

 ぼくは、塗師ぬしとして「漆」という素材を触り続けることによって、そのことに気がついた。もう何十年も、漆を触る仕事をしているので、ときどき「漆のことならなんでも知っているよね」とか、言われることがある。実際は真逆で、漆を触れば触るほど、漆のことがわからなくなるのである。

 例えば「漆黒」と言われる黒を、漆の中に探す。その黒の中に「白い黒」を、ぼくは見つける。言葉では矛盾しているが、そういう色がたしかにある。その白い黒を生み出している漆の膜は、一ミリの十分の一あるかどうかであるにもかかわらず、表面を覗き込むと、深い湖のような奥行が見える。その奥行は、この膜の厚さのどこにあるのだろうか。そういうことを「工藝」に実現させるために、天然の素材に翻弄されながらも、寄り添っていくのがぼくの仕事である。

 漆全体というものがあるとしたら、ぼくが知っていることは、おそらくその表面のほんの一部分だけで、その向こう側に、得体の知れない巨大な黒山のような、不可知にして魅惑的な塊が潜んでいるのを感じとっている。そこは、漆というものをずっと探求していて、漆の世界の果てまで辿り着いて、ようやく微かに垣間見ることのできる世界である。耳をすませば、わずかに震えるような振動が聞こえてくる。だが、そこで見たもの、聞いたものを、ぼくたちは言葉にすることはできない。言葉にはならないけれど、ぼくたちは、その何かを具体的な形と色に置き換えることならばできる。それこそが「工藝」という営みである。

 この感覚に気がついたのは、もちろんぼくが最初ではない。三百年前のドイツに生まれた哲学者、イマヌエル・カントだ。カントは、いまぼくたちが経験している世界を島にたとえて、島をとり囲む大海こそ「叡智」だと言った。そして人間は「叡智の海」にこそ船を漕ぎ出し、旅に出るのだと。

 ぼくにとって、その海は「感動の海」である。魂を揺さぶるものが、そこにはあるのだ。ぼくは、いまたしかにここにいるが、ここにいながらこの世界の果てへ、そして世界の内奥の深いところへと降りていく。そういう旅の仕方もあるのだ。まぁこの感覚、工藝家が見がちな、ロマンチックな夢のひとつかもしれないけれどね。

文=赤木明登 イラストレーション=林田秀一

赤木明登(あかぎ あきと)
1962(昭和37)年、岡山県生まれ。編集者を経て、88年に石川県輪島市に移住。翌年、輪島塗の下地職人・岡本進に弟子入り。修業後、94年に独立。輪島を拠点に“日常の生活道具としての漆器”を作り続ける。著書に『二十一世紀民藝』(美術出版社)など。

出典:ひととき2022年6月号

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