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「いちばん幸せで、いちばんつらかったのも20代でした」清水ミチコ(タレント)|わたしの20代

わたしの20代は各界の第一線で活躍されている方に今日に至る人生の礎をかたち作った「20代」のことを伺う連載です。(ひととき2024年2月号より)

 幼い頃から、人が笑ってくれることが好きでした。中学生の時、生徒会長に立候補する一つ上の先輩から応援演説を頼まれたんです。人気のラジオ番組をもじったネタを披露したところ、会場は大爆笑!(応援とは関係ないけど)。クラクラするほど興奮したことを今でも覚えています。

 地元岐阜の高校を卒業後、東京の短大の家政科に入学。将来は実家の喫茶店を継ぐか教師になろうかと考えていました。20歳になった頃は、ちょうどバブル真っただ中。ディスコだ彼氏だと皆が騒ぐ中、私が熱を上げていたのは、パロディー雑誌「ビックリハウス」やラジオの深夜番組に自作のネタを投稿することでした。だれもが知る事柄を、皮肉交じりのパロディーで表現するのが面白くて、採用された時は飛び上がるほど喜んだものです。

 短大卒業後も、アルバイトをしながら東京に居続けました。親からは「地元に帰ってきたら」と再三言われましたが、都会暮らしをもう少し楽しみたかったし、ここで何かワクワクすることが始まりそうという予感が、確かにあったんです。

 23歳の時です。アルバイト先のオーナーが親戚の放送関係の方を紹介してくださって、聞けばラジオのパロディー番組のアシスタントを探しているとのこと。「面白そう!」と思った私は、ユーミンさんや矢野顕子さんといった得意のモノマネを吹き込んだ渾身のデモテープを作って渡しました。そのかいあって、アシスタント兼放送作家として採用に。大好きなラジオの世界に足を踏み入れることができたんです。何をやるのも楽しくて、私の世界はここにしかないと思いました。

 その後、CMなどの声の仕事をいただくようになり、26歳の時には〝サブカルの聖地〟と呼ばれた渋谷の小劇場ジァン・ジァンで初ライブ。偶然にも会場にいらした永六輔さんが方々で告知してくださったおかげで、業界の方も見に来るようになりました。27歳で「笑っていいとも!」にレギュラー出演して、憧れのタモリさんとも共演できた。あの頃が、人生最大の幸運期だったと思います。

26歳の時、デビューアルバム「幸せの骨頂」の収録スタジオで

 ところが28歳で大きな壁にぶち当たりました。ダウンタウンにウッチャンナンチャン、野沢直子ちゃんと共演したバラエティー番組「夢で逢えたら」でのこと。テレビに不可欠な丁々発止のやりとりが全くできないことに気づいたんです。それまで事前に準備したネタしかやってこなかったし、年上の方との仕事ばかりで同世代との共演経験がなかったことも影響したのかもしれません。コントもトークもうまくできなくて、次第にしゃべることさえ怖くなって。人生初の挫折でした。

 そんな時に誕生したのが、不細工で自分勝手という女性キャラクター「伊集院みどり」でした。自分の欠点を丸出ししてメイクしてみたところ、思いがけずウケた。溺れる海で浮き輪を見つけたような気持ちでしたね。何より、みどりのキャラをかぶると、伸び伸びとコントができたんです。思えばそれまでの私は、どこか常識人の枠から抜け出せず、欠点をさらけ出すなんてごめんだという意識があったのでしょう。みどりが、殻を破るきっかけをくれました。

 人生の中で、いちばん幸せだった時間と、いちばんつらかった時間、どちらも体験したのが20代。振り返ってみれば、さまざまな感情が凝縮した日々でした。

談話構成=後藤友美

全国ツアー「清水ミチコアワー 〜ひとり祝賀会〜」4月27日(土)まで

清水ミチコ(しみず・みちこ)
1960年、岐阜県生まれ。ラジオ番組の構成作家、CMの声のキャラクター出演などを経て、86年に渋谷ジァン・ジァンでライブデビュー。時代をとらえた独特のモノマネと巧みな音楽パロディーで注目され、テレビ、ラジオ、コンサートやエッセイ執筆など幅広く活躍。YouTubeの「清水ミチコのシミチコチャンネル」も人気を集めている。恒例となった武道館公演は、今年で10回目を迎えた。『カニカマ人生論』(幻冬舎)ほか著書多数。

出典:ひととき2024年2月号

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