禅修行ってなに?②:師匠ワンピース説
道宣
今回の禅修行については師匠についてですね!
遊心
はい。
師匠と弟子の関係について
“正しい師”という点に着目してお話ししましょう。
道宣
その話に入るということは、遊心さん
前回までみたいにふざけてばっかりいられませんよ?
遊心
すみませんでした。
ちゃんとやります。
その代わりちょっと今回から難しくなるかも・・・。
師匠ってなに?ピッコロさん?
道宣
難しくなるのは仕方ありません。
それだけ大事なことですから。
ではまずは世間のイメージですが
弟子と師匠っていうと、やっぱり
ドラゴンボールの御飯とピッコロみたいな
師匠が弟子を鍛えて強くする!
って形が思い浮かぶでしょうね。世間だと。
遊心
でしょうね。
見た目同じですが
違います。
道宣
禅の師匠について修行しても強くはならないからねー。
強くなるために修行してます!
っていう一般的イメージが強すぎるかも。
遊心
はい。
あくまで修行して目指すもの
それは「佛(ホトケ)」なわけですから
人間が強くなるためじゃないです。
道宣
ではその「佛」を目指してする修行ですが
当然、はじめは何がなんだかわからないから
本を読んだり修行体験してみたり
いろいろやってわかろうとしますが
たぶんわかりません
遊心
うーん。
むずかしいですね。
このサイトはその手助けも考えて作ってますが
われわれのつたない文章ではもちろん限界があります。
道宣
ですから道元禅師もことさら強調する
「正師」
を探して弟子入りすることが重要になってくるわけです。
遊心
「正師がみつからなければ修行なんてしないほうがましだよ!」
って道元禅師もおっしゃってますしね。
道宣
ですね。
あくまで
「正しい仏法」を知っている「正しい師匠」
が必要であるとされます。
が
初めの落とし穴です
遊心
なんでしょう?
道宣
正しい師匠と言われると単純に
“問題の答えを知っている先生”
だとおもいますね?
遊心
ほぼすべての人がそうでしょうね!
師匠=先生
だと思っている人がほとんどだと思いますし
事実わたしもはじめはそう思っていました。
だって、なにかを学びたいと思っている人間が
その情報を知っている人をまず探すのは当たり前です。
道宣
そうですね。
それを“教えてくれる人”についての理想のイメージは
例えば有名予備校の講師でしょう。
自分が知るべき“情報”をわかりやすく教えてくれる人
池上彰さんなんかもその方向で人気の方ですね。
遊心
はい。
たしかに仏教にも思想や哲学を教えてくれる教師はたくさんいます。
それに実際人気があります。
「悟るのいつ?今でしょっ!?」
系の教え方する人も多いですしね(笑)
道元禅師は仏教の知識を教えるだけの師匠を
「文字法師」として重要視しませんが。
悟らないと親が困るの……
道宣
そうです。
師匠は必ずしも先生の役割だけにとどまりません。
では、正しい師匠、正師とはいったいどのようなひとか
まずは道元禅師の定義ですが
「行解相応(ぎょうげそうおう)」
するのが正師だといってます。
遊心
“おこない”と“理解”にずれがない。
言っていることとやっていることが同じ。
という意味ですね。
道宣
文字通りに解釈するとそうです。
でもこれって、よく考えたらそう言われても困りませんか?
だって、それって有言実行のことですよね?
あたりまえのことですよ。これ。
遊心
うーん。たしかに。
「言っていることとやっていることが違う!」
なんて言われている人は
そもそも一般社会でも信用なりませんからね(笑)
道宣
そうなんです。
普通に考えればその正師って
仏教の修行についてよく理解して
その理解の通りに修行している
人のことですが、そもそも「仏教の修行」がわからないから
正しい師匠をみつけたいので
「その師匠が正しいかは、師匠が正しい理解とおなじ正しい修行をしていることでわかる」
っていわれてもその正しい理解と修行が
わからないので判別できないです。
遊心
それだと結局自分の未熟な解釈で師匠を判断しなくてはなりませんからね。
かなりの確率でまちがいます。
道宣
しかしそうなると、なんのモノサシもなく師匠を選ばねばなりません
行き当たりばったりというわけにもいきませんので
しっかりとした基準が用意されています。
遊心
嗣書(ししょ)ですね?
お釈迦さんから代々あなたまで仏法を伝えました!
という証明になるものです。
この“さとりましたよ!”って証明があるので
これをもらった人は曹洞宗ではお袈裟の色が変わります。
道宣
そうです。
“先生”であれば肩書や出版物をみて
能力の高い優れた教師だ!という基準になりますが
修行の師匠の場合はこれが代わりに
“悟り”を教える基準になります。
黒い袈裟を付けている“悟る前”の雲水とちがい
黄色い袈裟をつける“悟った”和尚さんは人を導くことができます。
ということになってます
遊心
……(笑)
まぁ、お坊さんであればとくにお寺の住職さんはみんな
猫も杓子も“悟った”ことになってますからねー
道宣
それも大事な基準なのはまちがいありませんが
さすがに形骸化しすぎて
残念ながら現代ではほとんど何の意味もありません。
遊心
これは寺院運営上の問題ですが
住職になるためには建前上“悟って”なければならないし
日本のお寺を子が継がなければ
ほとんどの場合お寺の家族は
家を寺ごと失います。
そのため
子が“専門僧堂”というところで一定の修行期間を過ごし
住職になる資格を満たしたらとりあえず“悟った”認定をあげます。
この場合師匠はお父さんです。
道宣
日本のほとんどのお坊さんがそうですよね。
遊心
われわれみたいなのはめずらしいですから。
お寺さん生まれの人がほとんどです。
道宣
ですから、うちの宗派で言えば
大学卒業して専門僧堂で最低一年すごし
多くが23か24歳くらいで“悟った”認定うけます。
遊心
やはりその現状をかんがみると複雑な心境になりますね……
道宣
道元禅師の時代は、その“悟った”認定が
師匠を選ぶ重要な基準であったかもしれませんが
現代のこのような事情でもはや同じ基準は使えません。
師匠って……もしかしてワンピース…?
遊心
そうですね。
でも、そうだとすると
“正しい師匠”はどれだけ探しても見つからない
ってことになりませんか?
道宣
そのとおりです。
すくなくとも、修行を始める前に
この人こそ絶対に正しい師匠だぁ!
と言えるような基準は存在しないと言っていいでしょう。
遊心
そうですねぇ。否めません。
ではやはり
最終的に“自分で決める”他ない
ということになりますね。
道宣
最終的にはそうでしょう。
もちろん、人からの紹介であったり
メディアなどいろいろな情報も手伝いますが。
先に言ったように、先生のような肩書や評判は
“悟り”の証明が不可能なので基準としてはビミョーです。
遊心
これはしかし
とっても誤解を受けそうな結論になりました。
道宣
はい。
普通に読んでいる方はきっと
「理想の師匠を!おれがえらぶ!」
ってなってるので
おそらく師匠についたとしても簡単に
「なんかうまくいかないからこんな奴は師匠じゃねぇ!」
ってなります。
遊心
なりがちですね(笑)
「理想の師匠」を選ぼうとするのは、まぁOKですが
一度選んだ師匠を否定するのであれば
どれだけ師匠のことを理解できているか
が問われなければなりません。
道宣
そうですね。
日本のことまったく知らない外国人が
「オォ~、日本人生魚タベマスネ~。キモチワルイ。アナタ人間ジャアリマセン」
って言っていっても、なんの説得力も感じないのと同じです。
遊心
では、少なくともその人が言っていることを自分なりに理解し
自分でよく考えた上で師匠として師事するにふさわしいかどうか
考えまくらなければならない。
ということで。
道宣
はい。
道元禅師は「師匠いなかったら勉強してもムダ!」といいますが
すくなくとも現代においては師匠を見つけるまでに
少しは判断基準となる知識が必要である
ということになります。
次回も師匠についてさらに詳しくお話ししましょう。
遊心
こわいな~。
すぐ誤解を受けるか誰かから怒られるかするよ。これ。
道宣
事なきを祈りましょう。
まとめ
・師匠ってみんなが思う先生みたいには教えてくれない。
・何が正しいのかわからないのに正しいものを基準に選べという無理ゲー
・ひとつなぎの大秘宝さがしにいくくらいの覚悟で探して。
スキされると鼻いきあらくして記事書きます。