映画のような体験は死ぬまでできないのだろうか

物語が好きだ。しかし異世界ものやバトルものはあまり好まない。なぜなら、現実に戻った時少し虚無感を覚えるからだ。だから、できるだけリアルな物語が好きだ。あまりぶっ飛ばないスポーツものや、音楽系、ヒューマンドラマなどが好きなのだ。

物語を最終回を見終える、もしくは読み終えた時、毎回思うのだ

「こんな体験したいなぁ」と

誠に恥ずかしいのは重々承知だが、物語に出てくるような完璧なコンビネーションを織りなす友達やライバル、想い人、待ち人と、人生で一回ぐらいは出会わないものかと考えるのだ。そしてラブコメや青春に突入しないかなぁ・・・とか。

そんなことは起こり得ない。親友と呼べるほどの友達はいるが、私の友達はすべて、何かの体験を共有した、もしくは共感する相手にすぎない。と思っているのだ。。真に心を通じ合わせられる友達はいない。建前や、礼儀、距離などの何かしらの壁が存在するのだ。

傲慢かな。傲慢なのだろうが。自分の人生、傲慢であるべきだ。しかし、地雷に気をつけなければならない。私は、次に示す思考には二度と陥らないように気を付けている。

「人生つまんないな」だ

人生折れ線グラフがあったとするなら、間違いなく最下位である中学2年生のとき。野球部ではレギュラーになれず意味のないハードな練習に通い続け、家庭環境が悪い意味で大きく変わり、それが周囲に広まり笑い者にされた。笑ものにされたことについては、驚く人や疑う人ももしかしたらいるかもしれないが、事実である。私もびっくりだ。今考えてみれば。しかし、中学生と言うのはみんなそんなものなのだ。人としてやってはいけないことを平気でする。「笑い者にした奴・それを黙ってみてた奴は、今後何があろうと本物の付き合いはしない」と堅く心に誓ったのを今でも覚えている。

思春期真っ盛りの時期にこうも不幸が重なると「人生つまんない」と病んでしまうのだ。それはとても辛かった。辛いという言葉では足りないくらいに。今とは違い、相談できる人なんていなかった。いつどこで広められるかわからないし、親や大人に心配かけて大げさにしたくなかった。

でも今は違う。絶対に秘密を守ってくれる親友もいる。困った時に手を貸してくれる親友もいる。すごく感謝している。でも、普通の親友以上の何かを欲しがっているんだ。今は過去と大きく違っても、満たされたわけではないのだ。

いつかその時が訪れるように、誰かに助けを求められたら、全力で助ける覚悟でいる。が、自分の大切なものを犠牲にできるほどではない。

もしかしたら私は、身を投げ打ってでも助けたいと思える大切な人を欲しているだけなのかもしれないな。

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