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【エッセイ風】AIによる人格復元ってあり?~モネ、ひばりにJosie(1)

 2019年、モネの失われた絵画「睡蓮、柳の反映」をAIで復元して展示する取り組みがあった。劣化のため原形がわからなくなった「睡蓮」連作の内の一枚を、AIにモネの他作品を読み込んで推定させるというものだ。一連のプロジェクトを記録したNHKのドキュメンタリーも視聴したが、なんだか腑に落ちない。
 
 AIにモネの過去作品を学習させ、色遣いや筆致の癖、傾向を読み解かせると、AIは失われた部分を補って高精細なデジタルデータを描く。ドキュメンタリーでは、試作品を見た専門家が「モネらしくない」と酷評する様子も映っていた。画家の若い時の作品も交えるなど、学習データを見直して完成品ができあがった。

 展覧会自体は、その画期的な試みもあり盛況だったらしい。けれど、過去の作品からAIに「帰結推定」させ、というのは、「過去の作品と似た表現をするはずだ」という考えからして、間違っているんじゃないか、と思わずにはいられない。
 
 もちろん、芸術家の次の作品はそれまでのスタイルを一新する、衝撃作かも知れない。ピカソなんて、青青の時代、薔薇の時代、キュビズムに続く時代…と、人生の中で何度もスタイルを変遷させている。過去例から推定して、芸術家の「描いたかもしれない絵」を作り上げるのは、「モネ風の絵を描いてみた!」にはなるかもしれないが、決して「モネの作品の復元」ではない。特に本人の死後、こうした「推定」を本人の無許可で行うのは、きつい言い方をするとその人の人格やクリエイティビティの可能性を冒涜する行為なんじゃないかとも思う。

 答えのわからない問いへの「答え(=近似解?)」はいくらでも恣意的に動かせる。AIも決して万能に最適解にたどりつくわけでなく、導き出す結論はインストールするデータの質・量やその処理方法により異なる。専門家が「モネらしくない」と評したのを受けて学習データが改められたように、こうした復元は需要に合わせた、「作り手の見たいもの」にしか仕上がらない。もっと悪いことに、その判断の責任はブラックボックスと誤解されるAIに帰せられて曖昧になるから、「モネの作品の復元です」という紹介がまかり通ってしまう。これは単に作品を推定して作り直すだけではなく、「モネならこうしたはずだ」という人格の復元ともいえると思う。

 すでに亡くなった歌手のパフォーマンスを「復元」するプロジェクトもあった。NHK紅白歌合戦にAIで復元された美空びばりさんが登場したのも2019年だ。過去の映像から歌い方、表情を解析して再現されている。彼女が舞台に登場した時、会場は歓声に沸いた。涙ぐむファンも多く、曲の合間には「私の分までがんばって」という台詞もはさまっていたという。これも「見たいものを、あたかも自分の恣意が絡んでいないかのように」見せる、自己満足に聞こえる。故人の肖像を描いて話しかけるなどという行為からはかけ離れていると感じる。

 実際にあったパフォーマンスを「再現(recreate)」することはできるかもしれないけれど、投影された3Dのひばりさんをあたかも本人の再来かのように崇めるのは違和感がある。本人はどう思うんだろう? 亡くなったあとに自分のデータに基づいた復元が勝手にされていること、天の上から眺めているのなら「これは私じゃない!」と叫びたくならないだろうか。長いキャリアの中で、人や成長や変化することだってある。その変化の可能性、「次になにをやってくれるのか、わからない」という危うさや不安感、期待も含めてアーティストに帰属するものだし、変化の可能性もその人の人格に基づく価値だ。偉大な表現者はいつだって観客の期待を裏切ったり、上回ったりして度肝を抜いて来たじゃないか。その「可能性」を奪うようなことでは、死人に口無し、現代に生きる人のやりたい放題だ。

 少なくともわたしは、自分のあずかり知らないところでそんな加工をされるのは気味が悪いので、「AI復元はしないでね」と周囲の人間に言っておく。もちろん、有名な作家でも歌手でもないのでそんな機会はそもそも廻って来ないんだろうが、近い未来に復元システムが大衆化しないとも限らないから念のため。でも、こんな懸念を抱くのはわたしだけだろうか。健康保健証の欄外、「臓器提供を希望します。心臓、肝臓、肺…」の記載の下に、「AIによる人格の復元を望みません」とかいうチェックボックスが現れてもおかしくないと思う。
(「再現」そのものの違和感については、またこんど。)
(2)につづく。

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