【超短編】しのび猫
足もとから萌す芳香に気づかないふりをして、今日も昨日どおりの帰り道。がんがん音楽を耳にねじ込み、歩きながら単語帳めくる、めくってもめくっても隙間時間は埋まらない。そこへ名もない跫が近づき、ふりかえればもういない。
曇り空をかきわけた飛行機の轟音にも無感覚に、窒息するような日々のつらなり。みずみずしい息吹をもとめて薄い空気に喘ぎながら、藁にもすがる、バスケット・ゴールの引きちぎられた縄編みにもすがる。澄んだ水槽の囚われのなか、ガラス玉でつるつる滑り足の我ら。
哀しみの臭気はひざ下にたゆたう、あこがれは雲海の高みにとどこおる。ある時は身体を伸ばしある時は低くこごめ、現世では生き残るのに必死だ。火焔の黒煙は長押の頭上に、凍てつく窒素は囲炉裏のほとりに。しのび猫はいずこの天空よりか跳び出で、あやまたず荒野に優雅の着地をする。しなやかな四肢を無尽にくねらせて、城門の下をくぐり夜更けの隘路を這う。発条らしき後肢で空も飛ぶ。厳密に言えば彼らは力学的に液体なのだと物知りの誰かは言った。
彼らはぱくぱくと空に喘ぐ金魚じみた我らを首をかしげて見上げる。苦しみから逃れ、背を巧みに調節しながら一縷の救いをたぐるのが人生なら、なんて高度なアクションゲーム。憎しみの弾道は背高草がさわさわと戦ぐあたりを突き抜ける。肩口を掠めて、獲物を狩るはやぶさの低空を、追尾する超音速の疾風、彼らならゆるやかな爪のひと掻きで搦めとるのに。夏の日の汗ばんだ呼気は高空に、後悔は永久凍土の地に張りつく。分厚いガラスの向こう、彼らは屈折した黒い小鼻を押しつけて、興味本位に我らの住処を襲う。金魚が宙に舞う。
ふがいない身をはかなむ息が惜しければキャットフラップから逃げるのだ。怒れる渦潮が大口をあけ、執念の流砂がゆるがせにする岨道をくぐりぬけなければ明日はないだなんて、だれが紡いだ呪い。しのび猫は無垢そうな瞳で金魚鉢に前脚を泳がせる。
猫は生魚を食べないのだと言う。戯れに命をうばったまま、旱の波止場にぴちぴちと息絶えるままにする。
手近な湯呑を粗末にするから、日常に足許をすくわれる。夕焼けに燃える階をおがまないから。灰色に舗装されたアスファルトを走るのに精いっぱいで、呼びとめる草笛をないがしろにしたから。罌粟のねむり毒は陽炎にたちのぼり、沈丁花の香気は驟雨と共に降りそそぐ。
明け暮れを倖せと呼ぶ度量がないのなら、愛くるしい獣の、我らは餌食。
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