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日常のインストゥルメンタル

いつもいつも重い記事ばかり書いてもアレなので。
まぁ、実際には日常生活で重めの出来事があったのだが、こんな時だからこそ"軽い"記事を書いてみようと思う。

マンガが好きだ。マンガが大好きな人ほど読むわけではないが、嫌いな人――あまり居ないだろうが――よりは読むだろう。

先日、Twitterでバズったとあるマンガの1ページをご存知だろうか。
それは若い青年に対して、その家のおばあちゃんが
『どんなに良い人間でも、きちんとがんばっていれば、誰かの物語では悪役になる。』
と一言言うだけのページだ。これが"含蓄ある"と話題を呼んでTwitterでバズった。この本のタイトルを「猫のお寺の知恩さん」(以下「知恩さん」)という。

私もそのツイートを見かけ、書店でチェックしてみたのだが、良さそうなマンガだ。
田舎のお寺が舞台なので、都会暮らしをしている自分には感情移入が難しいかもしれないが、とにかく1巻買ってみた。
読んでみると本当に含蓄のあるコミックで、セリフこそかなり少ないものの引き込まれる不思議な雰囲気がある。情報と迫力にまみれた少年向けマンガとは打って変わって静かな雰囲気だ。だが退屈はしない。

私はそれをなにか~に似ていると感じたのだが、それがこの記事のタイトルにもなっている"インストゥルメンタル"だ。
インストゥルメンタルとは、"歌もの"に対して歌が入っていない楽曲のことである。情熱大陸とかルパン三世のテーマとか言えばわかりやすいだろうか。もちろん生の楽器を使っていなくても、歌を使わずに音楽になっていればインストゥルメンタルと言う(定義に幅はあるが)。

世に出る歌やマンガは、言葉を使い、メロディーに乗せ、フォントを変え、語りたいものを表現する。
だが知恩さんは、セリフをあまり多く使わない。風景描写が細かくてそれがセリフの代わりになったり、数少ないセリフが多くを物語ったりする。
インストゥルメンタルも、楽器の些細な音色だったり、ちょっとした音程遣い、コードが、語りたいものを物語る。

これは簡単なことではない。言葉は意味を持って伝えたいことを受け手に直接伝えることができるのに対し、「インストゥルメンタル」自体は無意味なのだ。受け手が感じたものがそのまま意味になる。十人十色な解釈になる。人によっては解釈すら生み出さないかもしれない。

そんな無意味なものでも多くの人の心を動かすということは、創り手が多感であり天才であり、受け手もまた多感だからではないかと思う。
知恩さんを書いているのはオジロマコトという人物だが、もしこの人が音楽の道に生まれていたのならば、きっと素晴らしいインストゥルメンタルを生んでいたことだろう。この人は、日常のインストゥルメンタルを描く天才だ。

と、ちょっとマンガのレビューチックなこともしてみた。
だがマンガの評論家になるつもりはなく、これはただ私本音アリュウの日常の延長線で書いているだけだ。
そんな私から最後に、本音で言うなら…。まじで知恩さんのナイスバディエロすぎィ!!!!!(お後がよろしいようで)

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