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自己紹介

はじめまして。SHIROです。

コロナ自粛期間で人と自由に会えないから、ヒマだし寂しくもあるので自己紹介をnoteにまとめてみました。

面白きこともなき世を面白く。by高杉晋作

このかっこいいセリフが似合うような人生を送りたいなと、社会不適合な性格を自覚しつつ世の中と折り合いを付けながら独自ルートを歩んできた軌跡を、カルピスの原液のようにぎゅっと凝縮しましたので一気飲みしてやってください。

懐かしきノスタルジックな昭和の子供時代

昭和50年生まれなので、昭和・平成・令和と元号が3つも変わって長生きしてきた気がしますが、スマホもネットもなかったアナログな昭和の子供時代から語っていきますね。

三つ子の魂百までって言いますけど、ジャッキーチェン→キン肉マン→中日ドラゴンズ→柴田恭兵→哀川翔→X JapanのYOSHIKI→ホリエモンといった感じで、子供のころから強くてエロくて面白い人に憧れてきました。

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幼いころは超甘えん坊で、初めて幼稚園バスに乗せられて母親と離れるときは、この世の終わりのような心境で号泣した記憶があったり、少しでも母親の姿が見えなくなると涙するような面倒くさいガキだったらしいです。

父親は建築デザインの会社を経営してたので、積み木のような知育玩具は惜しみなく買ってくれるタイプだったため、ブロックでコースを作ってカタツムリを走らせる自作マリオカート遊びとか、ヌンチャクやトンファーを自作してジャッキーチェンごっこに燃えておりました。

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子供のころはジャッキーチェンが神だったので、拳が空を切るたびにボボっボボっと音がする効果音は、達人レベルまで修行すれば俺にも出せると信じて疑わなかったですし、パーマンという藤子不二雄のアニメが流行ったときは、ヘルメットをかぶりマスクしてバッジを付ければ、俺も空を飛べると信じて、すべり台の上から身投げして怪我する少年が後を絶たなかったくらい昭和アナログ時代の子供たちは純粋だったなと思います。

ジャッキーチェンの次に夢中になったのがキン肉マンでして、キン消しのガチャガチャには小遣いのすべてを投入するほどハマりました。僕は小遣いの範囲でお菓子とキン消しなど計画的に使っていたのに、小遣いもらった初日に全額お菓子を買って食い尽くす豪傑な幼なじみがおりまして

彼はいつもお金がないので、お店の店員にお金入れたのにガチャガチャ出てこないんですけど〜とオレオレ詐欺みたいな手口でキン消しをGETする奴でして、1.5リットルのコーラとか入ったガラス瓶を集めて商店に持っていくと一本20円で買い取ってくれるとか、古本屋にコミックを売って換金するとかの錬金術を教えてくれて、一緒に稼いでキン消しコレクションを増やしていった経験は少し大人な気分を味わえた懐かしい思い出です。

ハイスクール奇面組というアニメの主題歌が大好きで、テレビのスピーカーにラジカセを近づけて録音ボタンを押してアニソンをGETするアナログ時代だったので、週に一度しかない録音チャンス中に風呂から上がったばあちゃんが「お風呂上がったから次どーぞー」という声が入って台無しにされたりとか、昭和ってそんな感じの空気感でした。

黒歴史なドンケツ状態で平成スタート

時代が昭和から平成に変わるころ、僕は中学生になっててクラスカーストで最下層に鎮座する暗黒時代へ突入していました。

生まれつき右耳だけ小さくて音が聞こえずらい障害をもってるので、学校に許可をもらって髪を長めにしてたんですけど、それで目立ってしまったせいかイジメの対象になってしまったわけです。

コロナウイルスのような菌扱いされてしまって、ドッジボールの授業では僕が投げた球はみんな必死で逃げ回ったり、掃除の時間には僕のイスだけ机から降ろされずに放置されてたりと、僕の中学時代は黒歴史のまま卒業するまで待遇は変わりませんでした。

当時は不登校ではなく登校拒否という罪名のような言葉でしたし、親に心配かけるのも嫌だったので、寡黙に休まず学校へ行き続けたことは我ながら偉かったな〜と誇りに思っています。

そんなわけで、高校は同中の人間が少ないチャリンコで片道50分かかる遠くの高校へ推薦入試で入りまして、リアルに「今日から俺は」の漫画のように暗黒だった思春期を取り戻すべく、明るくアクティブなキャラに生まれ変わることを肝に銘じて楽しい高校生活を過ごすことに成功しました。

もし中学時代のいじめがなかったら、中学も高校もその先の人生も人と同じように生きてくことに大して疑問も持たなかったと思うので、14歳から危機感を感じて、普通でいるステイタスって壊れるときは一瞬だ。ということを身を以て経験したので、他人の目より自分のビジョンを優先して生きるための核たる強さに繋がっていると自己分析しています。

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高校に入ると、クラスメイトが普通に接してくれるだけで嬉しく感じてしまう仏のようなオープンマインドだったので、日常のすべてが楽しかったです。当時はX JAPANが神でしたので友達とバンドを組んで、ドラムセットを買うために回転寿司でバイトを始めたり、原チャリの免許をとって行動範囲が広くなったりして、勉強はさっぱりでしたけど毎日笑って過ごせる日々に感謝しながら、ロスした分まで青春を取り戻すことができました。

他校の卒業アルバムを借りてタイプの子を探すと、その子の名前と家の電話番号も掲載されてた雑な時代だったので、斉藤由貴似の巨乳な彼女をこの方法で口説いてGETできたので、4ヶ月で振られましたけど高校時代のステキな甘酸っぱい思い出です。

勉強のほうはクラス45人中35番くらいの劣等生でして、予備校の存在理由さえちゃんと理解してなかったのに急に大学生のキャンパスライフというものに憧れを抱くようになり、父上に決意表明して一年だけ浪人させてもらうことになりました。

小中高と学校に通って強制的に勉強させられる環境では輝くことがなかった僕ですが、予備校の浪人のときだけは自分で決めたことなので、一年間は友達との縁を切って勉強に専念したところ、偏差値45からのスタートが一年後には54まで上がりまして、心理学部のある第一希望も第二希望も落ちましたが、とりあえず経済学部の大学は2つ合格したので、家から歩いていけるほど超近所の大学に入学することになりました。

人生の楽園のようだった大学生時代

一年浪人して大学生になれたので、キャンパスライフは楽しいものだ!と疑うことなく期待値120%で入学式に臨んでおりました。

浪人時代にロン毛に伸ばして金髪にしてたので、当時はまだ金髪ロン毛が珍しかったので目立っていたことと、小学校より大学のほうが家から近かったので、学食のおばちゃんは昔からの顔なじみという感じで、最もホーム感を出している新入生として異彩を放っていたようです。

父上がバブルで建てた豪邸に、その息子として実家通いで大学生させてもらってたので、駅から大学まで歩いていく途中に我が家があったため、朝起きるとサークル勧誘で仲良くなった女子大生たちが勝手に僕の部屋にたまってワイワイしてるほど、最高すぎるナイスな環境に身を置いておりました ^ ^

最近の大学生はLINEとかSNSが普及してるから、同じコミュニティーで付き合うと別れた後が面倒だったり、恋愛はコスパが悪いから自分の趣味とかにお金を使う人が多いみたいですね。

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懐かしのダイヤル式携帯電話が愛機でしたw(ウソですけど)

僕が大学生になった当時はスマホは存在してなくて、通話のみの携帯電話が6秒10円くらいの暴利で使える状況でしたから、コミュ縛りを意識することなく伸び伸びと手を広げてハーレムライフを構築しておりました。

ただ交際費に使うお金はいつも金欠でしたので、ロン毛の金髪野郎はバイトの面接に落ちてばかりだったので、佐川急便の夜中の仕分け重労働バイトやパチンコ屋のホールバイトとかで額に汗だくでバイトしてました。

一方で一人暮らししてる連れが1人また1人と怪しげなバイトを始めました。僕がバイトしてるパチンコ屋へ来て、朝から晩までパチンコを打つだけの打ち子というバイトです。

こっちは時給1200円で忙しく働いてるのに、一日中パチンコ打ってるだけで日当MAXで12000円貰えるバイトだったので、羨ましくなって僕もそっちのバイトへ鞍替えすることにしました(笑)

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↑打ち子バイトで死ぬほど打った地味だけど連チャンする機種の写真

今でも迷惑メールで【打ち子募集】みたいな怪しげなDMきますけど、当時はボーダー理論という他の台より多く回る台をひたすら長時間打つという手法でプラス収支になってたので、ガチで打ち子バイトは存在していました。

授業がある日はバイトできないので、1年生・2年生のうちは出勤日は土日主体でしたが、単位を取り終わって余裕のある3年生・4年生の先輩たちはガンガン出勤できるので、当時まだ高かった(6秒10円)携帯電話を所有してツーショットカードの待機タイムも通話タイムも携帯からやって即アポ取って待ち合わせ場所へ発進してしまうほどゴージャスで脂ギッシュなキャンパスライフを堪能されておりました。

父上のスネをかじって生きる人生設計の崩壊

先輩に奢ってもらったツーショットカードでNo.1キャバ嬢の年上のお姉さんと出会う強運をGETして恋に落ちたわけですが、ボンボン大学生という感じで下に見られてたのが癪にさわって、彼女の家にポスティングされた風俗の求人に応募して同じ水商売の世界に足を踏み入れてみることにしました。

オープニングスタッフの募集でしたので、面倒な上下関係もなさそうだし、大学が夏休みでしたのでオープン前から一ヶ月休みなしで朝から夜中まで働かされて、あまりにも自分の時間が持てない毎日に社会人になることへ危機感を感じるようになりました。

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↑店名が変わりましたが、超細長い5階建て階段移動のヘルスビル。

いきなり1ヶ月以上休みなしのブラック企業でしたので、オープニングスタッフの正社員は飛んでいなくなるし、社員なのに急に居なくなるなんてアリなの?と大学生でしたので思ったんですが、店長までNo.1風俗嬢と店の売上を持ち逃げして飛んでしまったので、世の中いろいろなんだなと(笑)

こんな感じで次々とスタートメンバーが消えていったので、オープンから半年後には大学生バイトなのに新しく入った店長に仕事を教える立場に自動昇格しまして、平気で無断欠席する風俗嬢たちを束ねながら、空き時間には街へ出てスカウトする業界人っぽい大学生3年生になっておりました。

お店にいるホスト状態で風俗嬢のお姉さんたちに可愛がられてたので、バイト代に手をつけなくても生活できたり、車が壊れたら買ってくれたりと甘い汁も吸えてたんですが、大学とバイトだけで忙しく時間が過ぎていくのは違うなと、当時読んでた金持ち父さん貧乏父さん本のラットレースという概念に感銘を受けておりました。

現在は5G回線がスタートする時代ですが、当時はダイヤルアップ接続という電話回線からパソコンにつないでエロ画像一枚表示するのに10分待つというインターネット創世期でして、父上がインターネット時代の到来に合わせてパソコンもPhotoshopもデジカメも個人レベルでは高くて買えなかった時代から投資してたので、自宅にはネット環境が整っていました。

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なので父上からMacパソコンを買い与えられて操作を覚えたりPhotoshopの画像編集も遊びで触れていまして、多少のITテクを世間より早くマスターできたことでネット事業家として20年以上やっていくきっかけになりました。

バイトしてた風俗店はパネル写真でお嬢を選ぶシステムで、可愛い子はすぐに選ばれるのですが可愛くない子はなかなか選ばれません。それでも出勤してる以上は1人は客をつけないと店が保障給を出さないといけないため、顔はアレですけどテクは好評ですよ!と気弱そうなお客がきたときにゴリ押しトークで仕事を振って保障給を出さないように苦労していました。

そこで試しにデジカメで可愛くないお嬢の写真を撮りまくって、奇跡の一枚をさらにPhotoshopで加工してパネル写真を変えたところ、急に指名が増えるようになったので、他のお嬢たちからも有料でいいからとフォトショ加工した写真制作を依頼されるようになりました。

姉妹店のお嬢たちからも依頼されて、セクシーポーズな写真撮影タイムを楽しみながらノリでフォトショ加工したパネル写真を納品すると1枚35000円の値がついたので、初めて肉体労働ではなく頭脳労働のオリジナル技でお金を稼ぐ貴重な経験となりました。

ビフォーアフターのサンプル写真も溜まってきたので、これは商売になると踏んで他の風俗店にも飛込み営業を始めまして、1枚50000円に値上げしながらも毎月10人以上は仕事を取れたので、大学生やりながら月収100万円近くまで稼ぐエロ学生起業家になっていました。

大学を卒業したら、たぶん父上がホームページ作成事業でも始めるだろうから、そこに入れてもらおうと考えてたんですが、急病で倒れてしまい在学中に亡くなってしまいました。

ずっと土日も休まずに仕事ばかりの父上でしたので、おかげで豪邸も建てて立派な人だったと尊敬はしてたんですが、早死にしちゃったら本末転倒でしょうと思うようになり、風俗のバイトで朝から晩まで働くライフスタイルを経験したことで、これではまともに自分の時間も確保できないし、髪も長いまま赤い色に染めてたので、勤め人ではなく自分で何か事業をやって生きていこうと考えながら大学を卒業することになりました。

ここから先は社会人時代の話しになりますが、すっかり長くなりましたので続きは自己紹介(社会人編)として別ページにまとめてみますね。

SHIROの自己紹介(社会人編)はこちら













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