見出し画像

267 ちょうどいい金銭感覚

両極端になりがち

 人類が貨幣経済を手に入れてから、なにが変わったかといえば、もちろん「金銭感覚」だ。貨幣以前にはそもそも金銭感覚は存在しなかった。どうやって決めたのか謎だ。
 大河ドラマ「光る君へ」では、たびたび「布を贈っておけ」みたいな場面が登場する。たまたまこの時代、貨幣経済ではなかったのである。そのちょっと前には貨幣を試したもののうまく行かず、この時代の少しあとで再び貨幣は登場する。海外から交易を求めてきたとしても、この貨幣経済がないので、どうにもならない、というのが状況である。いまは、「円が安くなったから大変」とか「輸出企業は儲かるよね」といった話を子どもでもできるのだが、こうした貨幣、為替(両替)の概念はもう少し時代が近代に近づかないと生まれて来ない。
 だから、大事な人に誠意を見せるためには「物を贈る」しかなく、当時、もっとも貴重でありなおかつ威光を見せつけるのは布だった。重ね着をするということは、色とりどりの着物を持っていなければできないことだ。
 この感覚は現代でもブランド品に見られる。そこでは確かにカネで買うのであるが、それ以上にブランドを身につけることが威光となるわけで、バカみたいに高い腕時計を見せびらかすのも「これぐらい稼いでいるんです」と主張しているわけだ。
 じゃあ、2024年にもなって、紫式部の時代から1000年も経っている今日、私たちの金銭感覚は進歩しているのだろうか? 200年ほど前の江戸時代とはどうか? 江戸時代に生まれた話や歌舞伎にもカネにまつわるものは多い。金銭感覚としては、それほどいまと変わっていない気がしてしまう。
 要するに両極端なのだ。拝金主義、ドケチ、放蕩三昧……。破産しちゃう人もいれば地味に堅実にムダ使いをしない人もいる。
 ちょうどいい金銭との付き合いは難しいのである。

魂を売る日々

 言葉として「魂を売る」なんて言い回しもあるけれど、実際、自分の値打ちや、欲望、夢を「売買」によって成立させるのが貨幣経済なので、みんなでそれなりに魂は売っているってことになるだろう。問題は、どこまで魂を売るのか。その多い少ないで、生き方も変わってくる。
「いや、おれは絶対、自分の魂を売ったりはしない!」と威勢のいい人だってポイ活ぐらいしているかもしれない。ポイ活って、なにを売って得られたポイントなのだろう?
 貨幣経済の怖さは、道に落ちていたおカネを拾うことで考えるとわかりやすい。五百円以下なら「貰っちゃおう」と思う人は多いかもしれない。百万円の束なら警察に届けるだろう。「何割貰えるかな」と思いながら。そういえば昭和では1億円を拾った人がいたよね。たまたま拾うだけでも、これだけの騒ぎなのである。
 給料の入った直後は気が大きくなって、いつもより高めの店で飲食したりすることもあるだろう。給料前の残高がピンチのときは、カップ麺で済ませるかもしれない。ずっと低空飛行の人は、豆苗を育てたり、業務スーパーでまとめ買いしたりして自衛することになる。
 どうも、ちょうどいい状況の方が少ないのかもしれない。懐具合で、金銭感覚はちょっとずつズレてしまう。そこには、欲がある。
 政治資金の問題も、税金の問題も、要するに欲だ。
 貨幣経済になって、人々は欲を金銭に換算できるようになった。ここに、どうしてもズレを大きくさせる要因があるのだろう。人の欲は、人の数だけ差があるし、同じ人でも状況しだいで変わる。
 先の例でいけば高級腕時計で示せる威光は、高級腕時計をしてみたいと願っている人にしか通用しない。高級車で示せる威光は、高級車に乗りたい人にしか通用しない。この威光を、「そんなの欲しくない」人も巻き込む装置がマスメディアであった。
 ネット社会となったいま、あまりにも人が威光として感じるものが千差万別になってしまったので、水戸黄門の印籠のように「泣く子も黙る」ような威光を示せる物は減っているかもしれない。だけど、人の欲望がある限り、金銭感覚はずっと狂い続けていくのではないか。
 ましてインフレである。物価は上昇傾向にある。こちらの欲望に関係なく、じわじわと上がっていく物価の前に、ますます私たちの金銭感覚はおかしくなっていく。

左側はまだぜんぜんダメ。


 
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?