見出し画像

155 言葉選びとメンタルと情熱

間違ったことを言うとき

 いまの時代には、言葉の選択に慎重になるべきなのだろう。ある発言や書き込みで思いがけず傷つく人が出てしまい、その責任を言葉を発した人はある程度は負うことになる。つまり、責任だ。誰かが責任を負うのだ。
 こうして適当なことをnoteに書きながらも、どこかで誰かを不当に貶めていないか、余計なことを書いていないか、間違ったことを言っていないかと気になる。
 いろいろな組織で、いま言葉やハラスメントがらみで残念なニュースになっている。毎日のように、「言葉が足りませんでした」「配慮が足りませんでした」といったお詫びが飛び交う。
 工事現場や鉄道の現場で「ご安全に」と声をかける習慣がある。ヘルメットの着用、安全靴の着用の不可欠な世界における「ご安全に」は、いまでは社会や家庭一般にも拡がっているのかもしれない。
 いま私たちが目の当たりにしている言葉に端を発する揉め事を考えると、家族の間で通勤や通学に出ていく親や子に「ご安全に」と声をかけても不思議ではない。
 それぐらい、危うさがまん延していて、なんとか無事に過ごすにはそれなりの努力を強いられるだろう。
 ただ、必ずではないけれど、間違ったことを言うとき、当人は間違っているとは思っていないのである。ブレーキだと思ってアクセルを踏んでいるのだ。ブレーキを踏んだはずなのに加速するから「おかしい」とパニックになるのである。

修業僧のような心でいられるか?

 たとえば、日頃、フラストレーションを抱えて、あるいは責任の重圧に潰されそうになっている人にとって、感情的な発言は「破壊」のために発せられる。単になにかを破壊したくてその言葉を選ぶのである。破壊の対象は、言葉を浴びせた相手のときもあれば、世の中というようなぼんやりとした対象だったりもする。もちろん、自分に向けていることだってある。
 言葉の選択を常に正しくするとなると、それはまるで修業僧のような心を持つことになりそうで、正直、私などはとてもムリである。
 もちろん、「ムリだ!」と開き直ることもまた、破壊のために発せられている。自分で「修業僧のような心」なんてもっともらしいフレーズを書いておいて「ムリだ!」とそれを破壊するのである。
 破壊衝動は誰にも少しはあるはずで、人が見ていないところで発散しているに違いない。破壊衝動は外にばかり向いているわけではなく、自分にも向けられるので、ジャンクフードを思い切り食べるような自暴自棄も含まれている。
 コーラの一気飲みだって、一種の破壊衝動と言えなくもない。
 メモをビリビリに破く。段ボールを畳むときに蹴飛ばしたり踏みつける。衣服を脱ぎ捨てる。洗濯機にダンクシュートのように投げ込む。風呂にドボンと飛び込んでやる。熱いシャワーを浴びる。強い酒を飲んでみる。そのほか、人によって、いろいろなやり方がある。
 こうした行動は、うまく情熱と結びつけることができれば、むしろ賞賛されることもあるだろう。
 私はもしかすると、キーボードに指先を強く打ち付けながら、マシンガンのようにガガガガッと言葉を入力するときに発散しているのかもしれない。少なくともこのnoteを書くことは、一種の破壊衝動に含まれている。これは、ずっと何かを破壊しているのである。

言葉の言い換えでは解決しない

 30年以上前に関係していた媒体では、当時としてはもっとも厳しい表現の規制があった。それはスポンサー企業によって発せられたもので、言葉の表現についてもチェックが入るような世界だった。いまはコンプライアンスと言えば済む話だけど、当時はそのような概念はなく、「差別用語」を主として、特定の人を貶めるような表現をすべて改めていかなければならなかった。
 そのための研修を受けた上で、研修の講師を務める専門家に記事の校閲を依頼した。すると、どの記事にもよくない表現が含まれている。それをすべて修正できるだろうか?
 著作権の関係があるので、こっちで勝手に修正するわけにはいかない。だが、修正しなければ発行できない。
 そんなことを数か月にわたってやった結果、編集長はとうとうその専門家に退場してもらうことに成功する。
 いまから思えば、当時はかなり野蛮であった。ドラマ「不適切にもほどがある!」のまさに80年代~90年代の野蛮さの中で起きたことなのである。
 ただ、当時はそれを野蛮だとは思わず「情熱」だと解釈していた。なにをするにも、みんな熱かった。間違った情熱もあるのだ。
 幸い、その媒体では数回ぐらいしかクレームで問題になったことはなかった。問題の出そうな人を出すときはインタビューや座談会にして、こちらで修正できるものにする。寄稿だと手出しができないからね。
 いずれにせよ、当時にわかったことは、差別用語を削除するだけでは問題は解決しないってこと。言葉狩り、言葉の言い換えではなんにも解決しない。もっと根本的なことなのだ。
 いまでは、そうした感覚は一般的に拡がっているようなので、あえて問題発言をするときは、むしろ意図的だと受け止められるに違いなく、「うっかり」が通用しなくなっていて、それはそれで厳しい時代とも言えるけど。
 このnoteは少なくとも、誰かを誹謗中傷したり傷つけるために書いているわけではないのだけど、もしそう感じる部分があったとしたら、いまのうちにお詫びをしておいた方がいいかもしれない。すみません。

空から見た池


 
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?