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287 不幸の招き方

なにもしなくてもやってくる

 とても幸運な星の下に生まれたのでもない限り、なにもしなくても不幸はやってくる。どうすれば幸せを得られるのか。幸運を招くにはどうすればいいのか、と多くの人たちは思っている。そして、本当かどうかはともかく、「こうすれば幸せになれますよ」とか「幸運をゲットするならこの方法」みたいなことを言う人たちは、大勢いる。それだけ需要があるのだろう。
 だけど、ちょっと待てよ。その大勢の人たちは、他人に幸せになる方法や幸運を授かる方法を提供できるぐらい、幸運な人たちなのだろうか。
 不平不満をリサーチしたところで、ある程度の幸せを得ている人たちでさえも、不平不満はあるだろうから、それをすべて不幸の種とカウントしてしまうのはやりすぎかもしれない。
 それでも、まったくの私自身の感覚にすぎないけれど、不幸の多さに比べると幸運は少ないのではないだろうか。よく「宝くじに当たるようなものだ」と言うけれど、これは宝くじは人為的に確率を決められるので、自然界に存在している幸不幸とは同一視できない気がする。
 待てよ。そうなると、いま私たちの周りにある「幸せ」のほとんどは、人為的なものではないだろうか? 希望の学校へ入学する、希望の会社に就職する、希望の相手と結婚するなどなど。「希望」の多くは、人為的に造られたものではないか?
 この人為的な幸運をすべて排除したら、人間はもしかすると、ただ不幸なだけの生き物かもしれない。あまりにも不幸なので、人為的に「幸せ」を創り出しているのかもしれない。だとすれば、「こうすれば幸せになれますよ」とか「幸運をゲットするならこの方法」みたいなことを言う人たちの存在も理解できる。そもそも幸せは人が生み出したものなのだから、DIY(do it yourself)でそれぞれに幸せを創り出せるはずだ。

運不運の価値基準

 人がそもそも不幸を背負って生まれて来ているとしても、運不運、幸不幸の基準そのものがバラバラなので、比較のしようがない。「あー、わたし、これだけでもう幸せなんだけど」とか「最悪」とか「怖いぐらいついてる!」とか「ずっと運に見放されているんだ」とか、軽く口にしているけれど、その根拠はあるのだろうか。
 加えて、他人から見える運不運、幸不幸もある。自分ではそんなことを感じてもいないのに「あなたは幸せそうね」とか「本当に不運だったね」といった声をかけられるときもあるはずだ。下手をすれば、これもまた幸せハラスメントなどと言われかねない。サチハラなどと言われるのだろうか。
「私はぜんぜん不幸だと思っていないのに、不幸だって決め付けられました!」とか「すごく運がいいと思っていたら、不運な人だって言われて愕然」とか。
 さらに酷い場合「君は幸せが薄そうな顔をしているね」なんて言われたら、間違いなく「大きなお世話!」であろう。ルッキズムの範囲を幸不幸にまで拡大する必要があるかもしれない。
 なんてことを考えたりすることは、すでに不幸を招く考えかもしれない。なにしろ、幸運なことがあっても疑うようになるし、ふと自分が幸せに浸っていても、なにかの間違いだと考えてしまうかもしれない。そういうことを考えない、思い詰めないことは、不運や不幸から脱する第一歩なのかもしれない。
 それはつまり、運とか幸福のことなど知ったことじゃない、と強い態度に出ることだろうか。
 実際、強気の時はそうかもしれない。ただ弱気の時はそうはいかない。人の顔色をうかがうだけではなく、自分の運不運まで疑いはじめる。
 いま思い出したけど、かつて「バイオリズム」なるものが流行した。科学的な感じがあって、占いよりも正しいかもしれないとみなが思った。ところが、つぎつぎとバイオリズムに沿わない現実を目の当たりにして、人々は冷めていった(いまもやっているならごめんなさい)。
 最終的にどんなことが運を招き、幸せになれるのかは、個人の気持ち次第ってことになる。信じることで、それは生まれてくる。
 こうなると、私たちはなにを信じるかで運不運、幸不幸が左右されてしまうことになる。信じるか信じないかはまさに「あなた次第」ってわけだ。

家の絵だって大変なんだから建てるのはもっと大変だろう。


 
 

 

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