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195 多様性、偏見、独断

いまは多様性の時代と言われるけど

 いまは多様性の時代と言われる。社会としての多様性は、どんどんスタンダードになっていけばいい。多様性を阻害する風習や制度は改善されるべきだろう。いまの時代に多様性を否定するなんて、どうかしている──。
 ま、それはそうで、社会としての多様性は誰にとってもプラスになることだと思いたい。
 だけど、個人としてはどうなのだろう。
 自分自身の中に、多様性の芽はあるのだろうか?
 たとえば、それが多様性教育によって養われるものだとすると、すでに学校を卒業して久しい人たちには、それなりに教育が必要になることになる。それはたぶん、個人には、そもそも多様性がないからだ。
 社会の多様性を理解する能力は、学習によって得られるだろう。それは私だってわかる。人間はたいがいのことを、学習によって身につけるのだ。大事な人からのメールにはできるだけ早く返信する、Xで適当にリツイートばかりしていると嫌われるぞ、XのDMを知らない人に送りつけるとブロックされてもしょうがないぞ、といったことだって学習の成果だ。
 だから多様性も教育によって身につく。
 とはいえ、それはそもそも個人に備わっていない多様性のアダプターを取り付けるようなもので、いま時代が変わったからといって、この時代に生まれてくる子に遺伝子レベルで多様性が浸透しているわけではない。
 多様性は、独断や偏見を否定する。圧倒的に否定するわけではなく、実は、偏見を持っている人も多様性の中に含まれるし、独断でなんでも進めてしまう人もまた多様性の一部である。
 社会の多様性を認めることと、個人の考えは別ってことだ。

独断と偏見の歴史

 サブカルの登場した1980年代に、巷間よく「独断と偏見」が流布していたことは歴史的な事実である。著名人たちが「これは、私の独断と偏見かもしれないんですが……」とか「独断と偏見でやっています」などと使う。
 それは、前提として「これが偏った意見であることを承知しているけれど、この事態に対してはぜひ、私としてその偏った意見を言わせてほしい」といったエクスキューズである。
 お前の言っていることは偏りすぎているぞ、と指摘されることを承知の上で言ってしまうのである。さらには、やや尖った意見、主張であることを臭わせている。あくまでも臭わせているだけで、よく聞いてみると、それほど独創的な内容ではないことも多く、そのせいで「独断と偏見」はかなり軽いフレーズになっていった。
 それが、多様性の時代においては、むしろ独断や偏見は重たい。重たすぎる。この言葉をあれだけ軽々使っていた世代には、想像もつかないほど、いまではヤバイ表現となっている。
 社会が多様性を受け入れることを前提としたときに、この「独断と偏見」は使えるだろうか?
 いや、そんな問いは成立しない。社会的にはダメなのだ、独断とか偏見とかは。ただ、こっそりと、ひっそりと個人の中にのみ、残ることになる。そして独断や偏見ではない、炎上覚悟の発言のみが社会に受け入れられるようになるのだ。
 

描きかけ


 
 

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