映画『ドヴラートフ』を俯瞰する #1

 映画『ドヴラートフ レニングラードの作家たち』(以下、『ドヴラートフ』または本作品と省略)の公開に至るまでの経緯(?)を知る者として、レヴューに移る前に記しておきたい。

 わたしが勤めるMitteは、東京大学すぐそばの本郷三丁目駅前に店を構えている。その地縁もあって、沼野充義先生が主宰する文学学術院・現代文芸論教室の公開講座にたびたびお邪魔していた。昨年行われた公開授業で翻訳文学を扱う回があったのだが、その題材の一つがドヴラートフの『かばん』(成文社)だった。訳書を手掛けたのは、本作品の字幕を担当している守屋愛先生である。じつはこの講義の半年ほど前、数年来お手伝いしているロシア映画祭の会場で守屋先生に初めてお目にかかり、『亡命ロシア料理』(未知谷)の話題になった。ドヴラートフはNY在住時代に週刊新聞『新しいアメリカ人』で編集長をしていたが、その同僚だったのが『亡命ロシア料理』の著者であるラトヴィア出身のピョートル・ワイリとアレクサンドル・ゲニスだ。当初、ドヴラートフと彼らとのつながりを意識していなかったのだが、その関連の重要性に後になって気づかされるのである。
 話を『かばん』の公開授業に戻そう。ドヴラートフの作品はペレストロイカ以降になってようやく出版が認められるようになり、こんにちでも多くの人々に親しまれている。しかし、そのレトリックは日常語で書かれスラングも多いことから、(帝政期に活躍した作家たちと比べると)評価が人によってかなり分かれているということだった。ゆえに、守屋先生も翻訳に際して、どこまでオリジナルの筆致を生かしながら日本語に置き換えれば良いか腐心したというエピソードを伺った。そして、その講義の終わりに紹介されたのが、アレクセイ・ゲルマンJr.監督が手掛けた本作品であった。『日本でも公開されたら……』と守屋先生が希望をのべられていたが、いまそれが現実のものとなっている。わたしが間接的にこの映画のプロモーションに携わることができたのも、偶然ではない気がしてならないのだ。

 冒頭長くなったが、『ドヴラートフ』を観てみたいと考えているものの、ロシア文学や芸術に詳しくないがゆえに劇場へ行くのを迷われている方に向けて、映画を楽しむために注目すべき事柄をいくつか示すことができればと思っている。

(続く)