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復刻版「よせあつめ瓦版・ランダム」その1(94.4.1~4.30)

よせあつめ瓦版・ランダム(芸能・文化のスクラップ・ノート)

 1994年4月1日から96年1月31日まで、22ヵ月間、観たり、聴いたり、読んだり出来たスクラップ・ノートを書いていました。
 当時、高級品であった富士通のビジネス型パーソナル日本語ワードプロセッサー「OASYS30AF」を使っていました。重量8.4kgで3.5インチFDでした。本体もフロッピーディスクもすでに処分しました。ところが、コピー用に印刷してあった原紙は保管状態が良く、鮮明に読み取ることが出来ました。そこで、この22ヵ月間の情報を復刻版として投稿していきます。
※当時は、画像も無く、カラーコピーでもありませんでした。今回の復刻版では、私が主催及びお手伝いしていた落語会、イベントの画像を加えてあります。

芸能・文化のスクラップ・ノート(94.4.1~4.30)

1994年4月5日(火)
 沖縄で書店販売禁止になっている、吉田司著「ひめゆり忠臣蔵」(太田出版)をやっと入手、読んでみた。昨年の秋頃にNHK衛星放送の「週間ブック・レビュー」で紹介されたので初めて知ったのだが、初版は93年10月、かなり話題になっていたらしい。
 第一印象としては、この本は悪書である。学校や公共の図書館では購入すべきでないと思った。なぜなら、奥名和の精神的聖域「ひめゆり伝説」のフィクションをレポートし、「米留制度」から「密貿易」までほじくりだして、本当の事を書き過ぎているからだ。受験勉強としての歴史教育しか受けていない純真な若人には、強烈すぎるからである。もし、購入された方は絶対に高校生未満には読ませないで下さい。

1994年4月8日(金)
 「アサヒグラフ4.15号」で、吉本東方進出計画を特集している。3月27日から銀座・中央通りにオープンした「銀座七丁目劇場」のレポートである。先週、発売された「エスクァイア日本版」の吉本漫才特集にしても、吉本からの販促資料をまとめただけで、実際に劇場や芸人さんたちにインタビューしてまとめた記事ではないように感じられた。どちらも、東京中心の雑誌なので仕方ないと思うが、吉本の営業力を褒めるべきなのだろう。

1994年4月9日(土)
 ムーンライトシアター(浜松・東映劇場)で、中国映画94から「北京好日」を観る。北京の、ある京劇の劇場に守衛兼雑役として勤める韓(ハン)が、定年退職になり、毎日、ブラブラしては時間をつぶしている。ある日、公園で素人京劇に興じる老人たちに出会う。韓は彼らのために近くの公民館を借りて、もっと本格的に京劇を楽しもうと提案し、リーダーに選ばれる。こうして愉快な第二の人生が始まるはずだったのだが‥。カラオケとか、ゲートボールにあてはめれば、そっくり日本でも通用する。楽しみでやろうとする人と、順位をつけようとする人の立場の違いで、騒動がもちあがるのである。原題が「我楽」だけに、老人の喜怒哀楽を見事に捉えた秀作であった。しかし、観客は30名。

1994年4月10日(日)
 名古屋・大須演芸場で「東西交流落語会」。昼の部で12席を聴いた。出演者は、桂貴春、笑福亭竹林、春風亭柳八、三遊亭乱丈、月亭八天、三遊亭竜楽、桂春秋、三遊亭窓樹、柳家小のり、桂米平、橘家鷹蔵、桂雀司、そして余興として、横目家助平、桂文華、古今亭菊千代というメンバーだが、何人、ご存じだろうか。約4時間は、さすがに腰と頭にくる。チケットぴあを使い、大学の落研、地元出身のノルマ?などで八割程度は席が埋まっていたが、せっかくの若手の落語会なのに全体に元気がなかった。
 大須の支配人には申し訳ないが、ペンキが剥がれ、いつ掃除しているのかわからないような小屋には、有料のお客は入らないと思う。ノーギャラで自主公演しようと思えば、名古屋市内、いくらでも場所はあるのだから。

1994年4月13日(水)
 浜松市民会館で、坂東玉三郎本人のトーク・エッセイを聞き、映画「ナスターシャ」を観る。
 ドストエフスキーの「白痴」の数ページを「ナスターシャ」として、アンジェン・ワイダ監督が坂東玉三郎・永島敏行の二人の作品に描いた。
 ナスターシャとムイシュキンを女形が二役で演じるという世界でも例のない映画化である。
「トーク・エッセイ」を聴いていて、この人は非常にきれいな東京言葉を話せる一人であったことに感動した。以前、誰かのエッセイで、現在、東京言葉を話せる芸能人は、淀川長治・永六輔・おすぎとピーコだと読んだことがあるが、一番美しいのは、この玉三郎であろう。

1994年4月16日(土)
 ムーンライトシアターの中国映画祭94の目玉である「青い凧」を観る。
 観客は、七割位でムーンライトシアターとしては、大入り袋であったと思うが、東京・大阪では映画館を二重、三重に取り囲んで、前売り券購入者も4時間、6時間待ちという状況にので、浜松の現状に感謝していいのか、複雑であった。
 1950年代、毛沢東の中国時代、北京の美しい女教師が図書館司書と結婚、子供も生まれ、幸せな家庭を築くが、夫は右派のレッテルを貼られ、強制労働キャンプに送られ事故死してしまう。子供のために再婚するが、その夫も、次の夫も反党反革命分子として死んでいく。政治の虚しさと母の強さを現わしながら、将来、女性がこの国を変えていくであろうことを物語っている。
 とくに、文化工作関係の若い女性が党幹部の性の犠牲になるという告発は、中国映画史上初めてであり、完成された作品の中国での上映は許可されていないという。
 以前、香港映画の「フルムーン・イン・ニューヨーク」で、三つの異なる中国を祖国にもつ三人の主人公(女性)が、飲みながら「中国本土にいるのは半分は女性。その女性たちが一度に足踏みをしたら、中国は、世界はどうなるのかしら」と言っていた事を思い出した。

1994年4月18日(月)
 豊橋・豊川・蒲郡地域の情報誌「PLANETS」を読む。今月の特集は東三河の方言を取り上げていた。
 「赤ちゃんを、チョウラカシテやりん」
 「なんか黄ないもんがコゾンドルに」
 「オボトに当たりん、ぬくといに」
 「ランゴクナイけど、ちょっと寄ってかん」
 新居の方なら、わかりますよね。

1994年4月24日(日)
 豊橋市駅前文化ホールで、桂雀三郎を聴く。演目は「まんじゅうこわい」と「わいの悲劇」であった。特に「わいの悲劇」は、新作にもこんな作り方があったのかと感心させられてしまう作品である。雀三郎ワールドという落語を超越した世界に浸れた歓びを感じるのは、もう病気になってしまっているかもしれないと思うのです。
 さて、この寄席を主宰されている三愛コーヒー店のマスターですが、10年間、素人の天狗連の寄席を続けられ、その後、若手プロによる寄席に移られたという、神様みたいな方である。私も素人寄席当時から出演させていただいているが、落語家でなく、落語を聴いてやろうといお客様が多く、毎回、楽しみにしている。

「第15回 豊橋落語名人会」チラシ

1994年4月26日(火)
 ジェームズ・ラル著「テレビが中国を変えた」(岩波書店)を読む。
 天安門事件前後に中国のテレビ指導者や都市住民に対してのインタビューを行い、まとめた一党独裁国家における権力とテレビ分析である。省によって、香港テレビも含めて外国テレビを禁止している地域もあり、外の空気をいったん味わってしまった都会の視聴者と政府の綱引きがよく描かれている。 
 昨年1月に、三田出版会から発行された「アジアテレビ革命」では、アジア全域のテレビ状況がくわしくレポートされていておもしろかった。
 関東中心の全国ネットが幅をきかせている国では、視聴者の選択の自由はあるのだろうか、と考えてしまう。





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