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『東京物語』考

「うちなんかせめてどっちぞ生きとってくれたらとよう婆さんとも話すんじゃが」
「二人ともたあ痛かったなァーーあんたンとこは一人か」
「うむ、次男をなあ」
「いやァ、もう戦争はこりごりじゃ」

小津安二郎『東京物語』(1953年)

戦争中に「兵事係」をやっていたという服部(十朱久雄)の子どもは、二人とも戦死している。兵事係は徴兵のための事前調査、召集令状(赤紙)の送付、戦死報告などを担った。地域の若者たちを戦地に送っておいて、自分の子どもだけ無事であってほしいとはなかなか思えないだろうし、じっさいに戦死した際には「立派にやってくれた」と言うしかない立場である。しかし、戦争が終わって、その価値観は時代遅れのものとなる。あとには「子どもを喪った」という厳然たる事実だけが残る。

次男を戦争で亡くした平山(笠智衆)には、まだ元気な四人の子どもたちがいる。服部の前で一人息子の不甲斐なさを嘆く沼田(東野英治郎)を「まァ、ええとおもわにゃいかんじゃろう」とたしなめる。平山とて、遠路はるばる訪ねてきた自分たちを冷遇せざるをえないほど日々の生活に追われている子どもたちの現状に、決して満足しているわけではない。だが、なんといっても彼らは生きている。だから愚痴を言うこともできる。服部にはそれすら許されていない。このシーンに流れる「軍艦マーチ」の軽快なメロディーがまた彼らの悲哀をいっそうひき立てる。かつて戦争とともにあった音楽は、いまや商業主義の一要素に堕している。

そのあとのシーンで、平山は妻のとみ(東山千栄子)と次のようなやりとりを展開する。

「なかなか親の思うようにはいかないもんじゃーー欲言や切りゃにゃが、まァええ方じゃよ」
「ええ方ですとも、よっぽどええ方でさあ。わたしらは幸せでさあ」
「そうじゃのう。まァ幸せな方じゃのう」
「そうでさあ、幸せな方でさあ」

「ええ方」「幸せな方」。自分たちはそのように思わなければならない。確かに次男は戦争に奪われてしまった。東京に出ていった長男(山村聰)と長女(杉村春子)はそれほど成功しているわけではないし、生活にかまけて親の世話も十分にはしてくれない。それでも、四人の子どもたちはまだ生きている。自分たちに尽くしてくれる義理の娘(原節子、戦死した次男の未亡人)までいる。これで「ええ方」「幸せな方」と思えなければ、罰が当たる。しかしーー。

終戦から八年。復興は進み、前々年には国家としての主権を取り戻す。人々は日々の生活に追われている。それは何より平和であることの証左であり、人々はむしろ積極的に戦争のことを忘れようとしている(次男の未亡人もまた、次男のことを忘れつつあるという)。今さら蒸し返してあれこれ言っても始まらない。せいぜい「もう戦争はこりごり」と言って曖昧にやり過ごすくらいが関の山である。間違っても「子どもは親に尽くせ、国家に身を捧げろ」などとは言うまい。それなら親不孝である方が遥かにいい。そう思うしかない。自分たちの世代には、心のうちに兆すそれ以外の暗い感情を押し殺し、胸に秘めたまま去りゆく義務がある。

小津安二郎は間違いなく「ゴジラ」の同時代人であり、その前年に公開された『東京物語』には戦争の記憶がはっきりと刻印されている。それでもなお「小津映画が戦争を描いていない」と言いたいのであれば、老父婦と同じように、そのように見えてしまう平和な世の中に満足して、口を噤むよりほかない。

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