オトン。

 僕は2024年現在36歳になった。
働き盛りで、世間的には1番社会人として油が乗ってる頃なのかもしれない。
 最近までパニック障害で1カ月以上仕事を休んでいて、ようやく働けるまで回復して、
今はちゃんとした復帰に向けて、リハビリとしてパートで雇用してもらっている。
 週4日の勤務で何とか体調管理しながら仕事の感覚を取り戻している。
バリバリ働くという状態とは程遠い。

 オトンと一緒に実家で暮らして、身の回りの世話をしながら働く。思ってたよりもしんどかった。オトンはトイレには自分で行ける。
 でもたまに便座に便が付着して、そのままになっている。僕に隠しているつもりだろうが、僕は介護士だ。トイレに間に合わない事もたまにあるのは分かっているし、その汚れた紙パンツを履いているのも臭いで分かる。
 洗濯も汚れた便座の掃除をするのも僕なのだから、正直に言ってくれた方が良いんやけど、オトンのプライドを考えて、僕は僕で何も言わずにその辺は処理する。
 介護職を長年してきているのだから、今更親の排泄物に対して全く抵抗が無いのは、 
この仕事をしているおかげだろう。

 オトンは今年75歳。後期高齢者になった。
いわゆる団塊の世代で、頑固で典型的な亭主関白で昔から家事は一切しなかった。そして、
自分勝手で、元々の生まれが九州の炭鉱町だったらしく、根本的には気性が荒い。
 その性格もあって、片麻痺で歩くのも少し不安定だけど、意地でも杖は使わないし、意地でも家事は手伝わない。というか、レンジが使えなかったり、炊飯器のフタを開けれなかったり、僕が強めに蛇口を閉めると自分では開けれなかったりする。
 頑固で、何も出来ない頑固な亭主関白でアルコール依存症の要介護2のオトン。
 燃えるゴミとプラスチックゴミの分別も出来ないし、缶とペットボトルは僕の用意しているゴミ箱のどっちに入れれば良いのか分からないらしく、流しに放置する。汚れた自分のコップも洗わない。この前は、タバコを吸うのに麻痺のせいでライターで火がつけれなくて、ガスコンロで火をつけようとしていて、それでも無理で「あーもう!くそ!!」とキレていた。
僕が安全の為に、使用する時以外は必ずガスの元栓を閉めているのにも気づかない。
 そしてデイサービスの無い日は、朝から酒を飲んでずっと寝ている。それで食欲が無いと言って、ヘルパーさんが来て「今日は何を作りましょう?」と言っても「何もいらんわ。」と言っていて、困ったヘルパーさんとケアマネから相談されて、そういう時はヘルパーさんと一緒に近くのコンビニで、自分の欲しいものを一緒に買い物してきてもらうようにした。
 オトンは酒とおつまみとサンドイッチを主食として家では生きている。

 ほんまにこのオッサンなんも出来へんな。
しばらく生活していて、それがめちゃくちゃストレスになった。最近になってようやく慣れたが、それでもやっぱりたまにイラッとする。

 「おーい!」と呼ばれて行ったら、灰皿のタバコを床にこぼしていて「ちょっとこれ拭いてくれ。」と言われた。「手紙きとったぞ。」とテーブルに放置されているのは、父親宛ての介護やら年金やらの手続きの書類で、記入して返送が必要なもの。オトンはもう老眼で字もよく見えないし、麻痺とアルコールのせいで常に手が震えていてまともに字も書けない。だから僕がその辺も全て手続きする。

 それでもオトンは「すまん。」も「ありがとう。」を意地でも言わない。
 たまにほろ酔いで上機嫌に、仕事と家事で疲れている僕に「おー!今日も勝ったぞ!」と
阪神の勝敗を報告してくる。僕は阪神ファンでも無いし、最近は野球に全く興味が無いのを知っているはずなのに。

 オトンが39歳の時に僕は生まれた。
小学生の頃に、何となくうちの親は友達の親より老けてんな〜と思ってた。
 その内にハッキリと自分はきっと周りの友達より早く親が死ぬやろうし、親の世話をしなあかんねやろな。って思うようになった。

 その影響があってなのか、僕は結婚願望が
早くからあって27歳で結婚して、30歳の時に子どもが出来た。孫の顔を見せてやりたかったし、オトンもその事は凄く喜んでいた。

 そして、いつかやってくると思っていた親の世話という宿命はいきなりやってきた。

 自分ではロクに何も出来へんオトン。自分の事を他人事のように思っているのか、デイサービスの準備すらする気もなく、酒を飲んで寝ている。それでも、僕にとってはこの世でたった1人のオトン。小さい時からたくさん甘やかしてくれて、二世帯住宅での同居のストレスで、重度のパニック障害とうつ病を併発した時に、実家に逃げるように帰ってきた僕の事を心配して励ましてくれたのは、オトンやった。
 何回も「死にたい。」と言う度に「お前は親になったんやぞ?親やったら子どもの為に生きる事を考えなあかん。」とか、子どもが出来てからは、そういう事もあって改めてオトンに対して感謝の気持ちも強くなった。
 「お前はな、親にまだなってへん。これから子どもに親にしてもらうんや。その事は覚えとけ。」娘が出来て、ようやくちょっとは親の気持ちが分かったわと、オトンに言うたらそんなら事を言われたのは今でも忘れてない。
 ほんまにその通りやなと思う。
そんな事が色々あったから、僕はオトンと今でもこうして暮らしてる。
 腹立つ事はいっぱいあるし、もう色々諦めたり歯痒い気持ちもあるけど、それでも僕は、
オトンには感謝してるし、オトンの事が好きなんやろなって思う。
 妻と娘、特に甘えたい盛りの娘にはほんまに可哀想な事してると思うけど、僕はこのままオトンの最期までそばにおろうと思う。

 ちなみにオトンとは昔カラオケに一回だけ一緒に行った事がある。オトンが河島英五の
『野風増』を歌っていた。後にも先にもその一回しかオトンとカラオケには行った事が無いので、鮮明に覚えている。その歌詞の中で「お前が二十歳になったら、酒場で2人で飲みたいものだ。」という歌詞があり、それはオトン曰く「ほんまにそう思っとったんや。」との事らしい。だから僕は、二十歳を過ぎてから何回か
オトンと2人で飲みに行った。
 オトンはその時にも、野風増の歌の話をしながら目尻に皺を寄せて微笑んでいた。
 
 僕も子どもが出来てから、その気持ちが少しは分かるようになった。
 でもオトンの言うように、まだまだちゃんと親父にはなれてへん。そやけどオトンの子どもとしては成長した。
 生まれて5日で死んだ僕の双子の弟は天王寺の一心寺に納骨されている。
オトンからは、自分もそこに納骨してくれと頼まれている。弟のへその緒と僕のへその緒を
その時に見せてくれて、これと一緒に俺も燃やしてくれと言われた。

 不器用やけど、親の愛情を教えてくれたのはオトンやから、僕はオトンと今もイラッとしながらも暮らしているし、後悔は無い。

 また近いうちに、まだ歩けるうちに、
オトンとまた2人で飲みに行こうと思う。

 

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