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ダメな私はどう生きるか?

今まで生きている中で何度か人生と言うのだろうか?終わる又は終わらせるタイミング何あった。
私はある一家の長男として生まれた。
生まれた時。
生後間もなく私は脳の大半が血液で圧迫され生死の境にいた。取り除いた後も障がいが残ると言われたそうだ。
手術の甲斐があったのか。目立った障がいは無く退院出来たらしい。

成長して親が大学の附属幼稚園を受けさせた。
落ち着きがない子どもだったらしく、それが原因か今となっては分からないが、当然の如く落とされた。
はじめての挫折である。自覚はあまりなかったと思う。

その後は、普通の幼稚園に入園した。
入園初日朝の会の時先生から「何か質問がある子いますか?」と尋ねられて私だけが手を挙げ質問したそうだ。当時から変わっていたのだろう。

幼稚園時代はませていて、好きな子にキスをした記憶がある。
その後小中と恋愛のレの字はあったものの付き合った事は無かった。想いが通じる事はあるもののその先に行けない、と言うか知らない怖さがあったからだと思う。

話はズレてしまったが、幼稚園卒業後、小学校の試験も受けた。親というより母方の祖母が教育熱心だった事もあるようだった。
これも落ちた。
何故こうも英才教育を整えようとしたのか?
それには神童と思われる(自分では全く思っていないのだが…)あるエピソードがあった。


次男が母に宿った時、母方の祖母が生活が厳しいのに2人目を作るのは良くないというようなことを言ったらしい。そのとき真偽は分からないが当時1,2歳だった私が、ミレー作の「晩鐘」を指差し祈るようなポーズをしたらしい。
祖母はそれを見て思い止まったらしい。

その想いと裏腹に、私は身体が弱く甘ちゃんで、小学生の時は寒さに対しては異例だったジャージ姿、
時には送り迎えもしてもらっていた。
そのせいか私自身がいじめと思う経験も初めてした。
相手は構っていたのかも知れないが…

当時流行っていた電柱でジャンケンをして次の電柱までみんなのカバン運びをするという事だ。
私はあまりに運ばされると思い込んで、リーダー格と喧嘩になった。
その後は友だちとして接してくれた。

当時尊敬していた先生がいた。国語のK先生だ。今は亡くなられているが。
根気よく勉強を教えてくれた。

人生で初めてと記憶している事で県版テストで算数で100点をとった事だ。これはおもちゃか何かにつられて勉強した事なのだが、成功体験として残っている。

がしかし、この頃いやその前から頭に靄がかかっている感覚で、物事をクリアに見れないようになっていたのでは無いだろうか。

父との思い出と、申し訳なかったのは。
幼稚園か小学生の時にバイクの送り迎えが楽しく、女子校教諭だった父に連れられ近くの女子校の学祭などに連れてもらっていた事が楽しかった。
しかし、父は私が小学生中高学年の時、いつの間にか帰って来なくなった。仕事だと思っていた。のちにわかった事だが、別の家族が出来たということだった。
物事に靄が掛かってて来たのは後に考えるにこの頃だと思う。恨み節とは違うのだが…

小学卒業後宮崎の今はなき神学校(クリスチャンだった私は神父の仕事に憧れを抱いた。)
中学校は普通のところに通っていたのだが、一年の時はいじめられた。
しかし喧嘩ではないある事があり、2年からリーダー格と花札をするようになっていた。
学生生活は好きなこと仲良くなりかけるなど楽しい思い出もあったが、ホームシックに負け中3の時には実家に戻り近くの学校に通うことになった。

余談だが、中学の時も小遣い欲しさに学年最下位から勉強して80番代に持って行ったことがある。
小学生の県版テストもあるが「やれば出来る子」というレッテルが貼られたのはこの頃だ。
人それぞれだが、やれば出来るから頑張れと言われ続けると、出来るから頑張らなくなることもある。そうして頑張り方も頑張る機会も見失って行った。

中学3年、受験生である。中途半端で転校して来た私は絵ばかり描いていた。
勉強は疎かになり、行きたい高校より行ける高校を選ぶようになって行った。

一夜漬けで受けた高校は全て受かったのだが、公立の高校に通うことにした。
やりたいこともなく、先への展望もない私は遅刻とゲームで時間の大切さを疎かにしていた。お陰で一年留年。
2年目の2年生はまたも一部からいじめを受け、また留年の前に始まった精神的不安定が悪化して行った。
この頃から精神病院に入退院を繰り返す。
不安と脅迫観念から叫び声を上げると、独房のような部屋で過ごさせられた。
当時は精神的病気に今ほど分かっていることが少なくこのような対処だったのだろうといまは思う。自傷行為もあり、右脚太腿が二倍に腫れあがるほど、殴ったりもした。
思考に囚われ動けず、自分が悪いと思い、太腿を殴る。ようなことが続いた

高校では、具合が悪い時も多く、保健室で試験を受けたりもした。

そんな折、体育祭で応援団をしないかと、勧められた。
応援団員とは仲良くなり頑張って成功させた。
学生服を来ての演舞と別に、分かる人は分かると思うがエプロンを着てマヨネーズに関して踊る踊りが好評を博し、冷やかしか愛称か分からないが「ママ」というあだ名がつくほどだった。

そんな高校時代も友だちが一時期いたし。
変人として見られていた私と修学旅行に行きたいと掛け合ってくれた人もいたらしい。
後に知った事なのだが…
針の筵だった私の高校時代は周りの助けで成り立っていたのだと、改めて感じた。

高校3年の時進学を考える中医学部に行きたいと思っていた。これは昔からの事で、浪人をして、結果的に入ったのは私立の文系の大学である。
学ぶことも多かったのだが、学費を稼ぐことと両立が難しく、結果またもや一年留年してしまう。てんかんも持っていた私は電車で倒れたこともあった。無理をしていたのだろう。

この頃から友だちと言える人が居なくなった。
やっと卒業後何の準備も目標もない私は、続けていたバイトに依存するしかなかった。

深夜に仕事をして昼は寝ている。

そんな生活を変えようと職業訓練に通うも変人扱いされ途中で辞めてしまう。

以前のアルバイトにもどり深夜や早朝、昼間、夕方色んな時間で働いていた。

しかし、それはゆっくりと、着実に自分の内側から出て来た。

初めは空耳だと思った。
しかし段々と声が大きくなってくる。
自分のネガティヴな考えを振り払おうとも、切り替える考えをその声は否定してくる。
頭に響くのは悪魔の囁き、いや叫びだった。
悪い考えも全て他の人にサトラレている感じがした。

そんなある日の深夜私はアルバイトから、社会から逃げ出した。

誰もいない森(正確には林だったが)で自分の人生を嘆きながら過ごした。幻覚も見た。
世間、社会が自分を否定して排除しようとしていると感じていた。

2回首を吊った。
1度目は夢を見た。2度目は気がついた時地面に突っ伏していた。
自身が生きたいともがいたのだろう。
死ねないのなら生きるしかない。

その後林のある山から降りた。

後日聞いた話なのだが色んな人が探してくれたらしい。他人に気を掛けてもらっているのは、存外本人は感じにくいものなのだろう。

家に帰ると脳外科、精神クリニックに通う。
しかし、一向に良くならず。

そんな中あるクリニックを紹介される。
カウンセリングを受けながら(その当時のカウンセラーは資格を持っておらず、混乱している私でもおかしなものだったが瞑想は理にかなったものだった。)統合失調症の診断を受けた。

薬も合い安定して来ている。

職を転々とし、39歳になる未だアルバイトで生活の一端を稼いでる。

未来の展望は薄く未だ闇の中に居る。

ある人が言っていた。障がい者の生き様は自分で決めると。

未だ道に迷っている私には辛い言葉だ。
心のどこかで人生は死までの時間潰しと言う考えが抜けない。
色々と生き方を模索するものの少しの事で挫折してしまう。

しかし、僅かな希望は持っていたい。

なぜなら、それでも私は生きている。
明日終わるかもしれない人生の半ばだ。

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