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しっちゃかめっちゃか

ああ億劫だ。書くことが。正確には書くための準備、準備といっても原稿用紙を机に並べて万年筆を取り出してインクを吸わせて、なんて大仰なことじゃない。そもそも原稿用紙を持っていないし、何なら見たことがないし、気に入っていた万年筆はどこかへ消えてしまった。手元に残ったのはブルーブラックのインクの瓶だけだ。書くために必要なことはパソコンを開くことだけだ。その一秒にも満たないことが億劫なのだ。便利なものだ、紙も筆もなくてもどこだって書くことができる。電気、電力は必要だが。電気がないと現代の社会、生活は回らない。と書くと本筋から外れていくからやめよう、果たして本筋なんてあるのか、というとそんなものはありはしないが。ともかく。パソコンを開くのが億劫だという話だ。その億劫さに打ち勝って、そんな大した勝負じゃない開けば勝ちだ、こうして書いているわけだ。書きたい気持ちがあるのになぜそんな些細なことと書きたいわたしは勝負することになるのか。考えてもわからない、考えずにえい、と開けば済む話だから考える必要も間もない。暖かい布団から出られないだとか、歯磨きをしたいのに携帯ばかり見てしまうだとかならまだ分かる。寒い朝の冷たい床や歯を磨くなんて楽しくないからだ。朝日を浴びたら気持ちがいいし歯を磨けばスッキリする。そんな快楽があっても面倒に感じるのは手間がかかるのが嫌なのだ。と書きながら書くこともほとんど同じじゃないかと思った。書くことと寝床から出る、歯磨きをすることの違いを書こうとしていたのに、書くほどに違いはないことがわかってしまった。やはり論理立てた文章を書くには、この頭は足りてないようだ。歯を磨いてバルコニーで今照らし出した太陽を浴びながら、スッキリした頭で書いているというのに。ああごちゃごちゃだ、何を書いているのか分からなくなった。あれだ腹が減って頭が回らないのだ、そういうことにしよう。もう十六時間は食べていない。そう数えるくらいには腹が減っている。明日は天津飯を食べようと思いながら昨夜寝床についたくらいだ。タレがかかっているのが好きだ。王将の天津チャーハンが大好きだった。書いていると余計に腹が減る。やめだ、今は書くことだ。書きながらタレをかぶった黄色い卵が頭に浮かぶ。布団のようにご飯に被さっている。タバコを吸って追いやってしまおう。よし、落ち着いた。億劫さの話だった。またその話に戻るのか。もはやどうでも良くなっている。何だったか、その先の快楽と億劫さは関係がないということか。この話をするのがもう面倒だ。やりたくないことをするのが良くないのだ。面倒なことはしないに限る。書きたいのにパソコンを開かない、起きたいのに布団に篭る、歯を磨きたいのに寝そべっていることそれ自体が面倒なことだったのだ。面倒なことをするから余計に億劫になる。やりたくないことをするほどに何もかもが億劫になる。考えすぎた。書くのが面倒になる前にやめよう。袋小路に迷い出して書く手が止まりそうだ。書くのがしんどくなる方に自ら進んできた。これを馬鹿という。人生まで袋小路だと、また問題を大きくして頭を抱える。気持ちを一新しなければ。馬鹿なりに踊ってみよう。オッホッホ。
余計に腹が減った。万年筆はどこに行ったのだ。大事にしていたのに。大事にしていたものほどなくなっていく。そんなこともない。大事にしていないものは無くなっても気付かない。大事なものは無くしてから初めて大事さに気づく。オーイエー。昔のポップスのようなことを言ってしまった。今のポップスも同じか、めっきり聞かなくなったから知らない。昔も知らないから、適当なことを今言っている。いい調子だ。適当さが帰ってきた。そうじゃないとこんな文は書いていられない。真面目な人間は月曜日の朝、もう働きに出かけている。何を血迷ってちゃんとしようとしていたのか。反省せいコラ。とか何とか言いながら、書き出せば書けはするのだ。これが書いたと言えるのかと、反省を促す声の主をバルコニーから道路へ放り出す、そこからだ話は。ここからは空腹との戦いだ。何と戦っているのだわたしは。タバコという強力な助っ人がいるから問題はない。こんなものを書いてどうする、という強敵は何度倒しても起き上がってくる。もう仲良く友達になるしか手はない。酒でも一緒に飲んで。しかし最近は酒を飲んでいない。昼間から、ちょっと手助けと一杯やるとズルズルと行くのが人間で、いや昼から飲む人間を一般化するのは強引だ頭がおかしい、頭がおかしいから昼から飲んでしまえと思い切る、それで朝から一杯、目覚めの一杯と突き進む。そんなこんなで飲まなくなった。何がそんなこんなかは知らない。腹が減って頭が回らないのだ許してほしい。誰に?しっちゃかめっちゃかだ、なんだこの文章は。しっちゃかめっちゃかの響きが好きだ。しっちゃかめっちゃか感が出てて良い。やはり何か書くときは大筋があった方がいいのだろう。よかったよかった。一個は学んだぞ。あれ、大筋は考えられないという結論に達していなかったか。ここで読み返しても混乱するだけだ、いかん。そのまま進むのだ。馬鹿な船長がそれいけーと大声を上げた。まっすぐ進む船は大海原に乗り出す前に暗礁に乗り上げて転覆した。イメージが良くない。イメージが現実をつくる。しかしこんな寒くて曇り出した空の下では、太陽燦々の海は出てこない。そういう時こそイメージが大事なのに。

ほとんど寒さで気が狂っていた。寒さでも人は狂うのだ。あたたかいところ、暑いところで頭の中がふやけて気狂いじみた行動をするイメージがあったけれど、寒さも同じだ。頭の混線が起こるのだ。春先に頭の中にも花が咲いてしまうのはまた別の話だ。部屋の中に入って落ち着いた。壁が一枚あるだけでこんなにあったかいのか。このあたたかさに感謝だ。ぽかぽかとまではいかないからこの頭に花が咲くこともない。芽吹いている花がいつか咲かないことを祈るばかりだ。さて、落ち着いたところで話がないのは同じことで、むしろ落ち着いたからこそ、その事実がしっかり浮き彫りに見えてくる。さっきまでの錯乱の中だと、必死に正気を保とうとする意識が文字を書かせてくれた訳だけど、正気に戻った今は、狂ったやつほど俺は正気だと言いそうだけどそれは置いといて、なおさら書くことがないように感じる。脳内はお花畑どころか、冷風が吹き荒ぶ荒野といった具合で、枯れた木が一本、アイデアなんて見渡しても見つかりっこなさそうだ。そもそもアイデアが湧いて書いたことなんかないし、そんなしっかりしたものをかける訳じゃないのだから問題はないはずなのに。いかんせん寒さの中に晒されすぎたのか身体の芯まで、頭の中まで冷えきってしまった。寒すぎると食欲も冷えるようで、空腹も感じない。極寒ダイエット。ひたすら体を冷やしてスリムになろう。体を悪くするだけだ、思いつきで何でも書けば良い訳じゃない。そもそも寒いところに行くほど、脂肪で暖をとろうとするのではないか、人の体は。ロシアの女性は太いイメージがある。それは人種によるのか。日本の北国では、スリムな女性がイメージされる、と同時にふっくらした想像も出てくる。あやふやだ。イメージは勝手だ。それなら未来のイメージはいい感じにしようぜ、というのもわかる。そうして楽しく生きた方がそりゃあ楽しいだろう。イメージしたものを見て、イメージの中で人は生きるのだから。また寝ぼけた方に進み出している。頭はすっかり冷めているのに。何かを書こうとするから、テーマみたいなものに擦り寄っていってしまう。それも悪いことではない。あっちに道草こっちに道草だ。回り道こそ人生さ〜と今度は演歌が聞こえてくる。演歌なんて全然知らないのに。知らないと思っているのはわたしだけで、この体は聞いたことがあって覚えていることがたくさんあるのかもしれない。なんか面白いことを教えてくれよ。いっぱいあるんだろ。といっても天邪鬼な身体は答えてはくれない。ふとした時に全然関係のない、思いもしないことを思い出すのが常なのだ。うんこをしている時、風呂に入っている時なんかに。うんこでもしてみようかと考えるが、そもそも食べていないから出すものもない。してみようと思ってうんこをしたこともない。うんこはしたいからするのだ。だからうんこは気持ちがいいのかもしれない。うんこはいつだってしたくてするものだ。うんこ以上に、したい!やりたい!と思ってすることを日常で探すのは難しい。うんこをしたい人に、ダメだ!うんこをするな!というとブチギレるだろう。うんこをしたいという人は心の底からうんこをしたいと思っているのだ。だから排便という、至福の時を迎える。ここまで書いて、「うんこをしたい」ってなんだと思った。出すとか排便とかならわかるが、「うんこをする」ってなんだ。うんこをするって随分雑な、乱暴な表現だ。うんこを致すだと行き過ぎだが、せめてうんこを済ませるとかだろう。ここまで汚い話をしておいて、表現の丁寧さを気にしてどうするという話だ。そう。で、本当にしたいことをすると気持ちがいいということだ。そして身体はそれを知っている。頭で考えてそれを止めることはできない。うんこを考えて止めることができないように。どんなに肛門括約筋が活躍しても最後には止められない。やりたいことは止められない。身体の動くままにやりたいように動くしかない。それが一番気持ちいい。やっちゃダメだと思うこともやり切った後には、体から飽きてくれる。やり切った後にはまた新しくやりたくなっている、勝手に。毎日うんこが出るように。便秘は食べ物変えてよとか、ちょっと運動してよおとか言ってるわけだ。こんなにうんこと書いたのは初めてだ。書くものが出てこない時にはこんなに何でも出てくるものなのか。うんこは出てきたがりなのだ。これで書いた、と排便後と同じ至福の顔はできないが、出したことは出したのである。そうだ。書くことも排便と同じくらいに自然にするのが目標だった。つまり、つまってはいない快便だ、書くことをうんこと同じくらい気持ち良くするということだ。どこでもいつでもうんこできるとしたらそれは毎日が快感に満ちたものになるだろう。人前でもカフェでも空港でもどこでも快感に浸れる、書くことが最高の快楽になる。そのためのおまるの学習だこれは、と思ったが、練習でも何でもなくこれは排便している。何たって楽しくて気持ちが良くなっているし、出てきた文章はとんでもなく、意味もなければ実にくだらないものだ。練習などいらない、毎回が本番だ。おまるじゃなく便器に座り向え。最後は自分のケツを拭くだけだ。

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