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巻紙給水所

三日目にしてもう書くことはない。万策は尽きたと言いたいが、最初から書くことなどなかった。多分わたしは何も見ていないのだ。見ているようで見ていない。見えているだけ、見えてもいないかもしれない。人間は見ている、つまり目の中に入ってくる光、光景から自分の中で新しく生み出して、「見ている」とするわけだがこれはつまり創作をしている。人はそもそも創作の中を生きている。「現実」とされるまるで共有されているかのようなただ一つに思えるものも創作だったのだ。さらにそこに各々のスパイス、偏見、差別、ユーモアをごちゃ混ぜにして自分の世界、現実を生きる。しかし、人間の脳はすべからく怠惰で、その現実創作もサボりたがる。エネルギーを使いたくない、寝そべっていたいわけだこの脳みそは。だから毎秒送り込まれる常に新しく、変化し続ける光景という刺激から新しく創造せずに、見たことのある光景を混ぜ合わせ、見たことのある記憶を、まるで納屋にあるガラクタを引っ張り出すようにして、あたかも新しく創造したかのようにわたしに見せる。そりゃつまらなく感じるわけだ。見たことのある、しかも大して面白くないものを見せられるのだから。それなら、自分でつくった方が面白い。大抵のものは自分で作った方が面白い。料理だって手作りしたものが好きだ、自分で作って食べた時の満足感。やっぱり朝は頭が回らない。というよりここまでは頭の外側で反射のように書いてしまった。手作りがいいと言いながら、これは手作りの文章じゃない、だから書いてもつまらない。ダメだこりゃ、人間は矛盾するものだ。

ほとんどホステルに篭りきりで、建物の中をうろちょろしながら書いてはタバコを吸い飯を作りタバコを吸い酒を飲んでタバコを吸い本を読む。この人間が見ている世界は自ずと狭いものだ。まるで世界はそこにしかないようにずっと小さくなる。そのうちにホステル全体が自分の家、部屋のように感じられて他人がいるのも鬱陶しくなる。挨拶を交わす程度で、会話はそこそこに切り上げてしまう。南米の人間はスキンシップを大事にする。挨拶に加えてにこやかに会話をし、ハグやキスも挨拶の一つだ。ここには南米出身のものも多く、日本人のわたしはそれに馴染まない。馴染む努力をするべきかもしれない、いやすべきことなんてない。南米は危険な地域や人間も多いだろうから、スキンシップを取ることで互いに安全な人間と認識するのだろう、あいさつだけの人間は風変わりに移る。付き合いづらくみえる。そしてわたしは実際に付き合いづらいのだから手に負えない。程よい距離を取るのを日本的だとして、しかしわたしは相手の文化背景を考えてその人を見る。インド人はやけにおしゃべりだし、南米の男も、もちろん女もそうだ。そういう人なんだ、というかよく喋るなあ、とだけただ感じ、見ている。と書きながら、なんだこいつはと思ったりしていたと思い出した。ただ身勝手なだけなのだわたしは。相手にもそういう人なんだと見てほしいというのは傲慢だろう。他人の目を気にするくせに、見え方まで要求するのは狂っている。人の目を気にするのは当然だから、せめてふざけ切るしかない。何を書いているのかよくわからない。自然と口に出して書いていたから、ほとんど独り言を書いていた。昨日は買い出しにスーパーに行った。歩いて20分ほどのスーパーだ。その通りで人が死んだ。2、3日前のことだ。撃たれて死んだ。詳しくは追ってないからよくわからない。撃ったのは確かギャングのメンバーで、その後に遺体で発見された。その通りを歩いてスーパーに向かう。普段通りに人が行き交う道。そんなものだろう。殺された日、同じ時刻にそこを歩いていた可能性はあった。その予定もあった。だから怖いだとかではなく、もちろんその場にいたら恐怖だろうが、そうやって死ぬのだ人は。撃たれて死ぬなんて不憫だし不運だ、ほとんどの人はそれ以外の理由で死ぬだろう。しかし誰にもわからない、その時は突然くるのだ。書いていても考えてもその実感は掴めないが。じゃがいもやにんじんを詰めたバッグを背負って帰り道を歩く。暮れていく街を帰る人々と長い車の列。巡回する警察官と遠くの丘の白い家。公園のベンチの女、キックボードを充電する男、散らばる枯葉。街は変わらない。人が一人殺されても街は変わらず動き続ける。変わるはずがない、それが安心だから。

僕はぼんやりとしていたのだった。前だけを見ていた。気にしていたのは人の目だった。人の目から自分を見ていたのだ。見るべきは八方だった。前だけを見ているというのは自分だけを自分の内側だけを見ているということ。自分とばかり話している、自我に囚われている、自分の問題ばかりを、その中に入り込んで世界を見ていた。それがぼんやりしているということだ。体というのは自分の身体という範囲にとどまらない。身体の周りの空間も含めて、身体感覚を広げて、感じておく。そうする必要がある。それは余裕を生む。人との適度な距離はその空間同士を触れ合わせ、時に侵食し合うことだ。うまく組み合わさって混じり合う時、それは性行為の心地よさとほとんど同じだ。人と触れ合うことは性行為だった。何を言っているのか。意味のわからない、しょうがない。

またぶつ切りに、休憩をしながらダラダラと書いてしまった。ルールなんてないけれど、一度に止まらず最後まで書きたい、書いた方が自分のためになる気がしているからだ。毎日ダラダラと何時間もかけて書くわけにもいかない。それでは続かない。続けることが最優先、というか続けることだけが目的なのだから、そのための工夫が必要で優先すべきことだ。書き方は重要になる、続けるための書き方だ。それは書く時間が短いことも大事だろう。最後まで淀みながらでも止まることなく書ければ続けやすい。それは呼吸のように自然に書けるようになるための工夫だ。ここから最後まで止まらずに書けるか試してみよう。ふう、と一区切りを頭の中でも打たずに。タバコは吸いたくなるだろうから予め手元に数本を用意しておく。マラソンランナーの給水のように無駄なく、止まることなく吸えるように。
よし準備はできた。よし始めるぞと考える前に書き出してしまった。しかし止まることはできない。それが唯一のルールだ。ついでに巻いたタバコにも火をつけてしまっている。火が消えたから付け直す。今日は風が強い。今もバルコニーにいる。風が冷たくて手が縮こまる。足も寒い。途中で止める理由はたくさんある。だからさっきまではよく止まってしまっていたのだ。寒くて腹が減ってとても書けなかった。御法度のご飯も先に食べてしまった。寒かったから味噌汁を作ったが、出汁やら何やら入れていたら、よくわからん汁ができた、あったかくて美味しかった。小学生の日記作文のようだ。いやあれはあれで、素直だからか、めちゃくちゃ面白かったりする。人のことはいい、今は書くことだった。また火をつけなおす。普通のタバコ用の巻紙なのによく消える。麻の巻紙が好きで、今吸ってる普通の巻紙は漂白されていたりで肺が苦しくなるから麻のが好きなのだが、麻のは燃焼剤が入っていなくて消えやすい。今吸っているのは普通の巻紙で、ヘンプ屋が閉まっていて麻のが買えず仕方なく買ったもので、燃えやすいはずなのにまた今も消えた。とにかく風が強いのと書く方に気持ちがいって吸うのを忘れているからだろう。ここで宿の人が来て会話をして途切れてしまったなんだか乗っていたところだったから残念だがしょうがない。消えていたタバコにまた火をつける。そう巻紙のことだった。漂白された巻紙の方は燃焼剤やらが入っているからか、肺が苦しくなるから避けているのだ。それに麻の方がタバコがうまい。しかし久しぶりに手に入れた麻の方で吸ってみるとなぜか漂白された巻紙が恋しくなった。これが慣れによるものか、わからない。もしかしたら巻紙自体にも依存するような何かが添加されているのかもしれない。商売だからそれぐらいはやりそうだ。コカコーラがコカの葉の成分を入れたように。それは本当かは知らない、都市伝説というものかもしれない。コカを混ぜた、その覚醒成分を混ぜたというのは大盤振る舞いの気もするからだ。まあ砂糖への依存の受け渡しと考えれば安いものというか良い手だったのかもしれない。水に砂糖を混ぜてそれで山ほど売れれば大儲けだろう。砂糖で他の商品も作ればどんどこ売れる。そして実際に売れまくっているのだから。あの赤い看板を見ると今でもコカコーラが飲みたくなる。あとはアジアを旅行している時も、よく飲んでいた。貧乏旅行には一つの息抜き、楽しみだ。寝台バスに揺られて長いハイウェイ沿いに止まり、暗闇に光る小さな商店以外は何もない場所。そこで飲むのはコカコーラ、そしてパサついたサンドウィッチだ。タバコを吸ってまた車内に揺れる、夜が明ける頃には次の街についている。ここでまたタバコに火をつける。右の親指が痛い。タコができかけている。ライターダコだ。寒い中何度もライターをするうちに、ライターはするじゃないかつける?使う?うちに親指の腹にタコができている。パトカーのサイレンが鋭く過ぎていく。相当なスピードだ。まだ確信を持ってパトカーと救急車を見分けられないが、あれはパトカーだ。先程の宿の人間とのやりとりで、レントが安くなったかもしれないのに、うまくやり取りできなかったから、そのチャンスを逃したかもしれない。それが気になって手が止まりそうになる。金のない身にとって死活問題なのに、こんな一銭にもならない文章に集中しているからそうなる。何しているのだと笑えてくる。いい調子だ。こんなものにかまけている、そして実際の問題の金の失敗も面白いと思えている。そして書き終えた時に後悔をするだろう、そこまで想像して今は笑えている。せめてこれを読み終える人がいたら、書き終えて後悔をして泣いているわたしを想像して笑ってほしい。無茶な願いだ。火をつけなおす。これだけ火が消えてくれるのは良かったかもしれない、その度に数秒の隙、休みが生まれる。そしてそれは中断とわたしは感じないでいられる、必要なことをしているから、中断とは感じないのだ。給水所が100メートルごとにあったらランナーは無視して走るだろうが今は関係がない、そもそもわたしとマラソンは関係がない。そうでもないか。駅伝を走ったこともあるし、毎朝部活で走らされていたし、毎朝自発的に走っていたこともある。まあそれもマラソンと関係がないかもしれない、集中が切れてよくわからない方に走っている。ゴール前に間違えてコースを外れたランナーを思い出した。気の毒に思った。もっとちゃんとコースをわかりやすくしてやれよと思った。ここにはコースもなければ教えてくれる人もいない。給水も自分でしなければならない。それなのにマラソンみたいに走り続けなければいけない。そんなこともない、止まってもいいし歩いてもいい。しかしレースは止まることはない。足を止める方が体はキツくなったりもするものだし、とりあえずは走っておこう。

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