酷い
走り書きのように幾つも書き捨てて、書かれていないものも頭の中に散らばっている。書きかけて言葉が文字にならずに形にならずに消えていった。書きたいことは、書こうと思ったことはいくつもあったが、何もしなければ消えていくのだ。跡形もなく、何もなかったかのように。習慣も一瞬で消え去る。ほんの少しの怠惰と共に。借りてきた言葉でしか書かれないわたしの言葉。手に入れる前に消えていった色々と失ったものばかりを思い出す。夢は寝ても覚めても続く、その中でわたしは失い続けた。こんなにも自由な場所があるのに人は時に、いや往々にして自由から逃げ出す。後ろも振り返らず、たとえ振り返ってもそこには何もない、なくなっていた。ないことさえなくなっている。時間はそこに流れてはいない。
いちばん下の引き出しがない膝丈より少し高い物入れには何も入っていない。いちばん上の引き出しに入っていた聖書はなくなっていた。いつの間にか。無くなるとはいつの間にかしか来ないから、ただ無くなっていた。気づいたらないのだ、何もかもが。目に見えないものはなおさらだ。見えないから信じるが必要だ。信じるがあってこそだ。信じるを失った人は投げ出されて初めて投げ出された空間、世界に自分がいると知る。その広さ、危うさの中に最初からいたのだと気づく。こんなところでわたしは生きていたのだ。嘘みたいだ。でもどれが嘘かなんてわからないし、どれも嘘かもしれなかった。だとしたら全部本当だ。どうにだってなるし、事実本当にどうにだってなるのだ。
全部嘘だっていい言葉の世界は面白い。全部本当を書けばもっと面白い。世界の箱の中の、自分の箱の中でまた何重にも箱を作って、マトリョーシカは何個続いたって空洞が、空間があるだけだ。どんどん小さくなる、小さな箱の中よりもせめて少しでも広い空間を動き回りたい。本当の、本当とした空間に含まれる空気は少し重いような、色はなくとも何か淀んだものだ。それは毒かもしれない。あなたの毒を吸わせてほしい。嘘を吸い込みすぎた体にゆっくりと回っていく毒。毒にも薬にもなる、それは裏表だ。
勝手な言葉を信じてどうする。聖書の言葉のどれだけが本当だ。本当ってなんだ、聖書は聖書でしかない。勝手が羅列した言葉、止まりたくなる体、色めく内なる動き、祈っているわたし。木製の長椅子に横たわるとひんやり冷たく、熱を持った体に心地よい。リラックスとも違う気持ちよさ、でも眠くはならずむしろ冴えた感覚で息を吸う、そして吐く。目を瞑って堅くてひんやりとした背中の感触を感じて、聖歌も車の音もせず静寂に浸る。突然爆発音が文字通り爆発して、テロだこれはテロに違いないと落ちてこないか天井を気にする、妄想がイメージが静寂を突き破ろうと邪魔をする。自然と開いていた目に天国の描かれた天井が映る。少しだけ安心する。安心に少しだけ自分を明け渡す。まやかしでもなんでも、安心は不安定だ。不安定があるから安心があるのだ。無理をするなと心の中でつぶやいて、それはわたしがわたしに言ったのかそんなことはどうでもよくてまた静かに目を閉じた。
司祭はいなかった。司祭を見ても司祭だとはわたしにはわからない。司祭なんて見たことがなかった。だから実際は見たことがあるかもしれなかった。しかしここで司祭らしき人はいなかった。少し豪華な教会だ、小さめの体育館ほどの高さと広さでその空間の広がりがわたしには豪華に感じられた。寺だってそんな豪華なものもあるだろうが、頭に浮かぶのは小屋のようなお寺で苔のむした石段が数段か長くても階段ダッシュで使われる程度の長さだ。それにしたって地球の空間を贅沢に使っているのかもしれない。一段上がるごとに私たちは近づいているのだ、天国へと、神様へと。
読み返すと酷い読むに耐えない。でもしょうがない、振り返っても意味がない。何もそこにはない。失うものもないのかもしれない。
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